コヒステフ 3 はじめての着物


 講義が終わると、京一郎は急いで大教室を出た。
 今日は華道教室の日。先日、家元から譲り受けた着物を着て行くつもりだ。慣れない着付けに時間がかかりそうだから早目に帰りたい。
「あ、柊、これから昼行かね?」
 廊下で同期の野々村とすれ違う。
「ごめん、用事があるから急いでるんだ。」
「えー、買い物?」
「ううん、お華。じゃ、また!」
「おはな・・・?え、体験教室?俺もー!」
 追ってくる声を、背を向けたまま手を振ってあしらう。
「ちがうー!また明日ー!」

 ワンルームの6畳間は案外と狭く、床に着物を広げる余裕はない。ベッドに着物を乗せて、先日千家がやってくれたのを思い出しながら、長襦袢から羽織る。
 それにしても、あの部屋は不思議だった。
 床の間には、家元らしく花が飾ってあったが、部屋の片面を覆い尽くすほどの本棚がそびえ立ち、奥の箪笥にはたくさんの着物が入っていた。そして、まるで時代劇のセットのように、几帳が部屋の一部を仕切っていて、和洋折衷にしても見たことのない調和ぶりだった。
 あれは、彼の私室なのだろうか。
 でなくとも、生徒は通常入ることのできない場所であることには違いない。
 そういえば千家は、皆の前ではいつも通りのたおやかで丁寧な言葉遣いだったが、二人きりの時は少し男っぽいというか、砕けた話し方になっていた。
 なんだか少しだけ、皆より近い距離にいるようで、嬉しい。
 今日、この着物を着て行ったら何て言うだろうか、などと思いながら、京一郎は布や紐と格闘したのだった。

 教室の場所は家の最寄駅から一駅ほどのところにあるので、歩けない距離ではないが、今日は着物姿なので地下鉄に乗る。この距離を慣れない着物で歩くには、まだ暑すぎるのだ。
 やや緊張しながら教室に入ると、主婦軍団が早速指摘してくれた。可愛いだの粋だねだの、期待していたわけではないが、言われて悪い気分はしない。
 早く千家も現れないかとわくわくして待っていたが、いつも通りの挨拶と花材、花器の説明、お手本の生け方が終わると、彼は表情堅くつかつかとこちらへ歩み寄って、言った。
「早く、こちらへ来なさい。」
 喜ばれこそすれ、こんな成り行きは予想していなかったので、不安になる。
 千家の手はエスコートの優しさを失い、一刻も早くその場を去りたいのか京一郎の腕をぐいぐいと引いた。
 早足で渡り廊下を通り越し、母屋へ入る。小さな納戸へ乱暴に押し込まれ、足がもつれた京一郎は危うく転びそうになった。しかし、家元は溜息をついて冷たく見据えるばかり。
 箪笥や几帳などが所狭しと置かれた和室には、辛うじて二人が立っていられるほどの空間しかない。息がかかりそうなくらい近い。
「あの、伊織先生・・・」
「これからは、着付ける前に私の部屋へ来るように。」
 厳しい口調で言われ、何かを間違えただろうかと次の言葉を待つ。
「ここ。はだけ過ぎだ。」
 千家の白い人差し指が、京一郎の鎖骨の間に触れた。
「っ!」
 そのまま下へ滑らせる。鋭く青味を帯びた瞳は、京一郎の固まった表情を捉えたまま。
 何か酷いことをされるのではという恐怖と、触れられていることに対する緊張が綯い交ぜになる。
 ゆっくり落ちていった指は、京一郎の鳩尾あたりで止まった。
「・・・私が、しっかり教えなかったのが、悪いのだがな。」
 言うや否や、帯に手をかける。
「えっ?あのっ!」
「うるさい。着付け直しだ。」
 しゅるしゅると帯、腰紐が解け、無造作に畳へ投げ出される。いつだって彼の所作は家元に相応しくゆったりとしていて丁寧で美しかったのに、こんな風にされるとまるで――。
(なんだか、・・・・・・。)
 一応にも留められていた布がはらりと落ちるたびに、間近な千家の吐息が、髪の毛の先が、膚に当たる。先ほど不意に触れられたことで、感覚が敏くなってしまったのだろうか。いちいち気になってしまう。
 抵抗できずにいるうちに一通り剥がされ、また長襦袢から着せ掛けられる。布を持つ千家の指先が膚に当たる度、くすぐったいような、体の内側が疼くような感覚に囚われてしまいそうで・・・。
(一体何を考えているんだ、私は・・・。)
 家元が着付けてくれている間、京一郎は極力余計なことを考えないよう、天井だけを見つめていた。

* * * * *

 教室からの帰り道、足を伸ばして純喫茶・聖樹に寄ってみる。
「お、来たな。」
 バイトのワカとも随分打ち解けた。軽く手を上げて、カウンターに座る。花束にまとめた、今日の稽古で使った花は、隣の空いている席にそっと置く。
「おい、さっきまで野々村がここでボヤいてたぜ。」
 マスタァが、手作りせんべいを出してくれる。大抵の好物は、すでに把握してくれているようだ。
「え?何でです?」
「お前ェ、その花見せつけておいて、何でですぅ?はないだろ。あいつ、一緒に行くって約束したのにィーってうるさかったぜ。」
「あぁ。でも私は約束なんてしてないですよ。彼が勝手に言ってるだけです。それに、興味のない人と一緒に行っても仕方ないでしょう。」
「まぁな、あいつはお華の教室に通う女のほうに興味があるようだし。ってかお前ェ、今日は何気に着物だな。似合ってるじゃねぇか。」
「へぇ、意外だな。自分で着たのか?」
 ワカも横の席にやってきて、珍しそうに眺める。
「うん、でも着崩れちゃって。先生が改めて着付けてくれたんだ。」
「先生って、華道の?」
「うん。」
「着せてくれた、って、下着から・・・?」
「まぁ、それに近いかなぁ。」
 ミサキとワカは、顔を見合わせて、怪訝そうに聞いてくる。
「先生って、美人さん?」
「そうですね。大人の魅力というか、落ち着きと色気を併せ持つというか。私ももう少し歳を重ねたら、あんな風になりたいな、って思います。」
 無邪気に微笑む京一郎と対照的に、二人は鼻の下を伸ばす。
「色気・・・」
「美人の先生がお着物着せてくれる・・・」
「あーのー!先生は男性ですよ!」
 その言葉に我に帰る二人。やれやれ、と思いながら、その後のリアクションは無関心かと予想した京一郎だったが、二人の目には昏い光が宿った。
「おい、お前ェの先生は男なのか。」
「はい・・・?」
「で、お前ェはお色気ムンムンの男にほいほいと着物を着せられたり脱がされたりしてる訳ってか?」
「や、脱がされたりは着崩れない限り・・・」
「おいワカ、これからこいつにはミルクたっぷりのコーヒー牛乳しか出さなくていいからな。」
「え、何でです?」
「今日のところはあんたの言うことを聞いてやるぜ、マスタァ。」
「ちょ、ワカくんまで!」
「お前ェに色気なんざ百年早いってことだよ。あとな、着物は自分で着ろ。先生に着せてもらいまちたー、なんて言ってんじゃねぇ。ガキでもあるまいし。」
「何ですか、二人とも急に・・・」
 突然の二人の連携攻撃に、理由もわからずあたふたとする京一郎であった。

* * * * *

 着物姿の青年が店を出た後、テーブルを拭く手を止めて、バイトは視線だけを店主へ向ける。
「・・・おい。」
「何だよ。」
「あんた、あいつの先生が男だって知って、焦ったろう。」
「お互い様、じゃねぇかよ。」
 珈琲豆を挽きながら、店主も視線を返す。
「女の先生だったら、いいのか?」
「あんなおぼこい奴、大人の女が本気で相手にするわきゃない。お前ェだって、そう思ってんだろうが。」
「大人の男は、相手にするのかよ。」
「例えば、俺様みたいな。」
「・・・あんた、やっぱり・・・」
 睨みつけるバイトを、店主は余裕の表情で煽ってみせる。
「お前ェにゃあ負けないぜ?」
「・・・言ってろ。」

 もう少ししたら、酔い覚ましの珈琲を求めて客が増える頃合いだ。
 バイトは小さく溜息を吐くと、布巾を持って厨房へ戻っていった。

  花火大会とかに行くと必ずいる、浴衣がはだけすぎた青年。おねぃさんはもう、青年のその後が心配で心配で(なんだと)、着付け直しましょうかと喉まで出かかる言葉を、毎度飲み込んでいるのです。HENTAIだと思われても仕方ないので、ね。
  ちなみにマスタァもバイトも、美女に”自分が”ちやほや面倒見てもらうのは悪くないと思ってるようです。

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