コヒステフ 21 利己主義ダスティミラー
扉の奥はコンクリートの壁に囲まれて灰色だった。
このイベントスペースは厚めのボードで区切られていて、ちょうど凸型にあるこの場所が裏方の小部屋のように使われているようだ。扉付きのボードは天井まで届くほど高く、そのため先ほどスタッフがいた場所とは声が届かないほどしっかり分けられている。白熱灯色のLEDが部屋を照らし、現代演劇のステージのような雰囲気だ。
千家は扉に背を向け、壁に向かって置かれている長机の前に座っていた。
「伊織先生・・・」
京一郎は声を掛けるが、千家はまるで人形のようのように机上の作りかけの花を見つめたまま、微動だにしない。
「伊織先生」
横に立って、もう一度呼ぶ。
しかし反応はない。
(聞こえていないのだろうか?)
肩に手をかけて、京一郎は気付いた。
「!!」
千家の右手指には、絆創膏が何十枚も雑に巻かれていた。それがところどころ剥がれて、またその上からさらに傷がついて血が滲んでいる。
左手は、前回の宴のときと同様、重りのように垂れ下がったまま。
そしてあの赤黒い痣は、手の甲や、絹の襟巻きで隠す顎まで、まるで細かく殴打されたかのように拡がっていた。
「先生、伊織先生!しっかりしてください!京一郎です。分かりますか?伊織先生・・・!!」
叫びながら、肩を揺さぶる。
「――・・・っ」
千家の口からくぐもった呻きが漏れた。
「伊織先生!」
「・・・聞こえている触るな」
ほとんど聞き取れないような掠れ声に、思わず手を離す。
いつも涼しげな眉根が微かに寄せられ、京一郎は、彼が無表情で動きすらしなかったのは痛みに耐えていたからだと気付いた。追い打ちをかけてしまった自分を殴りたくなる。
(あぁ・・・、いったいどうすれば・・・)
ポケットの携帯が震えている。
(電話なんて出ている場合じゃない。考えろ、どうしたら伊織先生は助かる?)
駄目で元々。以前、不眠に悩んでいたとき、天現寺橋に教えてもらった呪言を唱える。
「あんたりをん、そくめつそく・・・」
急に謎の言葉を呟き始めた京一郎を、千家は不審そうに見やる。といっても瞳が動いただけだ。
「きゅうきゅうにょりつりょう!!」
呪言の終了とともに千家の背が大きく波打ち、急いでさする。
何度か荒く息をすると、千家は京一郎を制するように右腕を上げた。
「良かった・・・効いた・・・・・・」
流石凄腕と式神が賞賛するだけある。呪言は呪いの症状をも緩和するらしい。
(天現寺橋さん、先に言っておいてくれればよかったのに・・・。)
千家の白かった顔に僅かながら血色が戻ったことを確認して、京一郎は胸を撫で下ろした。傷だらけの右手に手を伸ばす。
しかし千家はそれを強く振り払った。
「・・・誰の差し金だ。」
立ち上がって振り向いた千家は、刺すように冷たい目をしていて。
「伊織せ――」
「私はお前に来て欲しいなどと頼んだ覚えはない。」
「え・・・」
「余計なことをするな、と言っている。」
突き放すような言葉に、京一郎は耳を疑った。
「・・・そんな、・・・だって苦しんでいる貴方を放っておくことなんて、できるわけないでしょう。」
「・・・お前に何が分かる。この程度のこと、さして珍しくない。己ひとりで何とでもなる。」
一瞥、そして冷笑。
千家は床に置いてあった花束を机の上に広げると、京一郎に背を向けてまた作業を始めた。
何故だ。
何故彼は拒絶する。
「・・・・・・私はただ伊織先生を、・・・」
「私はこれまでずっと、この苦しみと共に歩んできた。それを今更変える気などない。そういうことだ。」
「でも!さっきまで動けなかったじゃないですか。」
「少し耐えれば花くらい生けられる。」
「みんな心配するでしょう?」
「だから入るな、と言っておいたのだ。お前は聞かなかったようだが。さあ、仕事の邪魔だ。行け。」
何故だ。
何故彼は苦痛にしがみつく。
「・・・おかしい。」
「聞こえなかったか。帰れ、と言っている。」
「厭だ。貴方の言っていることは無茶苦茶だ。」
「去れ。お前になど、二度と――」
穏やかで冷ややかな声が止まった。
「伊織先生?」
「あ、・・・たくな・・・・・・っ」
絞り出すような声、そして枝を持った彼の手は、長机の上にいくつか置かれている黒く尖った剣山の上に投げ出される。
「なにやってるんですか!」
京一郎が掴んで引き剥がすと、白い手の甲からぷくりぷくりと鮮血が浮き上がった。
「っ帰らない!もし私のことが嫌いになったというのなら、それでもいい。けれどこんな貴方を見ていられない。ここに居る以上最善を尽くす!」
千家の手に唇を寄せ、京一郎は血を舐めとる。
「!!やめ――ぅ・・・」
千家は触らせまいと腕を引く。今までになく強い拒絶に打ちのめされながらも、京一郎は千家の手を強く握った。そして呪言を唱える。
「京一郎・・・っ何度も言わせるな。触るなと言っ・・・――」
詠唱で一瞬良くなったかに見えた千家の顔色が、また蒼ざめてくる。
「やめない。あんたりをん・・・」
京一郎は再び呪言を口にするが、症状を弱められる時間がどんどん短くなっていく。唱えれば唱えるほど、呪いの方に耐性ができていっているようにも見える。
(治れ・・・治れ・・・・・・!)
また携帯のバイブレーションが鳴り始める。
「出て・・・けお前の助けなど・・・な・・・とも・・・っぁぐ」
座っていることすらままならなくなった千家は、椅子から崩れ落ちた。
「伊織先生!」
悲鳴のように呼んで、京一郎は千家を抱き留める。
「厭だ、伊織先生、・・・伊織先生!」
ぐったりと垂れさがる手からは、また血が滲みだす。
一度静かになったポケットの携帯がまた振動し始めた。
電源を切ろうと取り出した京一郎は、表示された相手の名を見て通話ボタンを押した。
「天現寺橋さん!伊織先生が!」
「呪言は試したかい。」
「やったけど、どんどん効かなくなってきて!」
「分かった。君は千家先生の傍に居るんだね。」
「はい。」
「ならいい。京一郎くん、落ち着いて思い出せ。これまで君は二度、千家先生の症状が出始めたのを見ている。」
「はい・・・」
「そのとき、君がしたことをしてごらん。」
「え?どういうことです?」
「おそらく君は千家先生のキスマークを初めて見たとき、それからこの間の宴のとき、同じことをしたはずだ。僕らの見立てでは、それで症状がかなり改善されるはずなんだ。」
混乱しながら京一郎は記憶をたどる。
初めて千家の首元にあの痕を見つけたとき何をしたか。
勢い余って彼を押し倒して、そして口付けた。
この間、千家の呪詛にまみれた膚を見たときはどうか。
やはり、キスだ。
「・・・本当に、そんなことで・・・」
「どんなことでもいい。手当たり次第やるんだ。この際たとえ強姦でも仕方ない。」
なんてことを言うのだ、この男は。いくら性に奔放とはいえ。
京一郎は呆れて腹が立ちそうになったが、逆にそのおかげでキスくらい何ともないという気になった。
「一度、切ります。」
断りを入れて携帯電話を長机に置く。
腕の中で浅く息をする千家を見つめる。
先ほどは、触れることすら拒まれた。二度と会いたくない、と言われたような気もする。
何故。
膚を開いてこの呪いの痕を見せてくれたときだって、嫌々ながらも上大崎のビルに来たときだって、確かに気持ちは通じ合っていると思っていたのに。
(全部、伊織先生一流の生徒あしらいだった、ってこと、なのかな・・・)
たとえばどの生徒にも恋愛関係だと思わせるような接し方をしている、とか。
(舌を噛みちぎればいい、なんて言っていたけれど。)
本当にあのとき噛みちぎっていたら、こんなことも、言われずに済んだのだろうか。
「・・・なんてね。ねぇ、伊織先生。」
ほとんど気を失っている千家の顔を、両手でそっと包む。
「でも私は・・・」
苦しそうに酸素を取り込もうと開く口に、唇で触れる。
「・・・まだ・・・、・・・貴方が、好き。」
声にしたら、涙が零れた。
角度を変えて、唇だけでなく頬や瞼、額にもくちづけを施す。
涙が京一郎の頬を伝って千家の顔を濡らし、まるで、千家が泣いているように見えた。
汗の滲んだ額をハンカチで拭いてやると、千家の眉が苦痛に歪む。どうやら良くなる気配はないようだ。
(・・・違ったのだろうか・・・。)
あとは、なんだろう。
抱き締めるとか。今まさにそうしている。
膚に触れるとか。それも今。
名を呼ぶ。さっきから呼んでいる。
あのときはくちづけをしてそれから・・・。
最後にひとつだけ、思い当たることがあった。
(・・・いや、でもキスと同じでは・・・?)
だけど、強姦よりはましだ。
(こんなことしたら、もっと嫌われてしまうだろうな。)
「・・・それでもいまは、貴方を楽にすることだけ考えたいから、――」
泣いた顔のまま微笑んで、京一郎は千家の襟を少し開き、その痣だらけの首に噛みつくように口付けた。