コヒステフ 22 キスして四つ葉のクローバー
――そういえばお前、そんなに強く吸わなくとも痕は付くことを知っているか。
京一郎は首筋に唇で触れながら、以前千家が言っていたのを思い出す。
――あ、この間の、強かったですか?
――むしろ痛いほどだった。
――・・・す、みません・・・
――ふふ。経験もないのに、いきなりキスマークを着けてくるなど、な。それほど私を独占したかったか、京一郎。
――・・・・・・別に。
――ふぅん?
――それより!痛くなくできるんだったら、やって見せてくださいよ。
――ほぅ。痕がつくほどのくちづけを請うか。
――ん!そういうわけじゃ・・・
――ふ。淫乱なお前は、嫌いではない。
――淫乱とか――!ぁ・・・ん
――・・・・・・
千家がやってみせたように上唇と舌を使うと、さして力を入れずとも痕が付いた。
改めて己のつけた印と呪いの痣とを見比べると、違うものであるのが分かる。よくよく見ないと気が付かないが、前者は膚の上気を思わせるのに対し、後者は血の澱みを感じさせる。
京一郎は千家の首筋にある別の痕を指でなぞり、唇を寄せてまた小さく吸った。
「ん・・・」
千家が身じろぎする。
「伊織先生?」
顔を上げると、先ほどまで乱れていた息が落ち着いているようだ。
これが正解だったのだろうか。
京一郎はもう一度、今度は反対側の耳のすぐ下のあたりに唇を這わせる。
「・・・ぁ!」
今度ははっきりと、息を飲んだのが分かった。
見開かれた紅い瞳と目が合う。
「・・・いま、何をした・・・」
まだ囁くような声。しかし苦しそうではない。
「別に、何も。」
「・・・嘘をつくな。陰陽師の入れ知恵で、何かしたのだろう?」
「さぁ。」
「・・・・・・。」
不興げに京一郎を見遣ってから、千家は立ち上がろうとしてよろめいた。
「急に立つと危ないですよ。ほら。つかまって。」
手を差し出すと、先ほどとは打って変わって素直に従った。
(弱っているから?それとも、助けた私に負い目を感じて・・・?)
長机の前の椅子に座らせる。まだめまいがするらしく頭に手をやる千家の肩を、京一郎は後ろからそっと支えた。彼は黙ってされるがままになっていた。
扉を叩く音がする。やや速い速度で軽快に。
千家を見ると、血の気は戻ったものの、疲労の色が隠せていない。
京一郎は戸口に向かい、少しだけ扉を開いた。
「あら。伊織、居ます?」
外に立っていたのは先ほどのスタッフの中にはいなかった女性。すらりとしていて、ストレートの髪を肩口でそろえている。年の頃は千家くらいか。いかにも仕事のできる美人、といった感じだ。
いきなり千家を呼び捨てにしたことに驚きと若干の苛立ちを覚えながら、京一郎は事務的に返した。
「申し訳ありませんが、家元は取り込み中です。お言伝がありましたらお伺いしますが。」
「ふぅん。可愛いね。」
京一郎の態度を全く気にする様子もなく、彼女はにっこりと微笑んだ。その美貌にはうっかり見惚れそうになる。
「君、春から教室に通ってるっていう子?」
年上のようだとはいえ、馴れ馴れしい言葉遣いにむっとする。
「そう・・・ですけど」
「ふふ。やっぱり。ねぇ、伊織居るんでしょう。ちょっと顔見るだけだから。」
「あの、困ります!」
無理に身体を滑り込ませてきた。
慌てて千家を振り返ると、先ほどの苦悶を欠片も見せず、背筋を伸ばしてまた作業に戻っていた。
「ふぅん。元気にやってるじゃない。」
「・・・なんだ。入らないように言っておいたのに。」
挨拶もなく親しげに声をかける彼女をちらりと見て、千家も心得たように返す。
(いったい誰なんだ、この人は・・・。)
以前、生徒仲間の女性が、恋人らしい人を見かけたという話をしていたことを思い出す。もしや、この人が・・・。
「何の用ですか。私は忙しいのだが。」
「ふふ。この間はなんか怒って帰っちゃったから、どうしてるかな、と思って。」
すげなくあしらう千家に余裕の笑みを返す。明らかに、この人は生徒ではない。何故なら、彼が客相手にこんな態度をとるはずがない。
「だけど、わかっちゃった。ふふ。」
彼女は千家の様子など意に介さず、紅い瞳を細めて、二人を前に立ち尽くす京一郎に振り向いた。
どきり、とする。この感覚は、千家に見つめられたときに似ている。
「・・・帰れ。」
千家の瞳が青みを帯びる。怒っている。
「伊織の好きな子は――」
がたん、と椅子が倒れた。
千家は立ち上がり、つかつかと女性の横を通り過ぎると扉を開く。
「帰れ、と言っている。」
「もう。つれないなぁ。ねぇ、君もそう思うでしょう?」
急に振られて、京一郎は慌てた。
「え?いえ・・・、別に。」
「ひどいなぁ。でも。そんなとこも、悪くないね。」
そう言って、京一郎の頬に手入れのされた美しい右手が触れる。
「ぁ・・・あの」
「ふふ。」
指の背で撫でて、唇をつい、と押す。
「姉さん!」
怒号とともに彼女を強く押しやると、千家は京一郎を隠すように立った。
「・・・仕事の邪魔だ。お帰りいただこう。」
「へぇ・・・可愛い子と懇ろにするのが家元のお仕事かぁ。」
「お、っまえ・・・!」
珍しく声を荒らげると、さすがの彼女も両手を上げた。
「嘘ウソ!ごめんごめん!でも、伊織が可愛すぎるのが悪い!じゃね!」
そして千家の首筋を指差すと、開いたままの扉から出てゆく。
「!」
千家は指されたところに手をやり、はっとしたように息を飲む。
「・・・二度と来るな。」
後ろ姿に向かって低く呟いたところで、踵を返して足早に戻ってきた彼女は、千家の背に隠れている京一郎に向かってにっこりと微笑んだ。
「ね、伊織をよろしく。私、君が好きよ。彼氏くん!」
そして今度こそ、扉を閉めて去っていった。
「お姉さん、ですか・・・」
まだ圧倒されたまま、京一郎は茫然と呟く。
「・・・・・・。」
不満そうに息を吐く千家。
「彼氏って、言われた・・・」
「お前、次にあの人に会っても口をきくなよ。」
千家は振り返ると、拗ねたように低く呟いた。
「ぇ・・・何でです?」
「あの人は昔から、私のものにちょっかいを出したがる。」
言いながら、京一郎の頬を撫でる。姉の触れたあとをなぞるように。
彼女の指は滑らかで、仄かに甘い香りがした。
千家の指はいま絆創膏と傷だらけで、がさがさしている――・・・
・・・唐突に、京一郎は気付いた。
「あ・・・」
「どうした。」
「お姉さん、右手、普通に使ってましたね。」
千家の手が止まった。
そう。彼女は京一郎に触れたときも、千家を指さしたときも、右の手を使った。千家の話では、家元就任騒動の際の呪詛の影響で、彼女の右手はほとんど動かないはずだったのだが・・・。
「もう、呪いは残っていないのか・・・?」
彼女の出て行った扉を見つめたまま、千家はうっそりと呟く。その横顔を見上げると、ふわりと抱き寄せられた。ごく、当たり前のように。
質のいい着物の柔らかな感触。その奥から伝わる、彼の体温。
先ほどまでの色々な苦しい感情が京一郎の胸に滲み出てきて、解放されたいと体の中でぐずぐずと疼く。
「・・・さっきは触れるなとかあっち行けとか言ったくせに。」
千家の胸に頭を預けたまま小さく言うと、一瞬彼の手が硬くなった。
「・・・・・・言った、な。」
「だったらなんで、こうして私を抱きしめるんです?」
本当は、分かっているつもりだけれど。
でも、こんなに辛かったのだから。寂しかったのだから。
だから、ちゃんと、その甘い声で。
「・・・さて。」
「・・・・・・私、伊織先生のこと、嫌いになりそうかも。」
はぐらかすから冷たく言ってやる。
京一郎を抱きしめる腕の力が強くなった。
「それは許さん。」
「だって貴方のせいだ。」
「私のものが私を嫌うなどあり得ん」
傲慢に囁く声は、しかし優しい。
勝手だ、と思う。
「なら貴方は、私のものだと言ってくれるんですか?」
「舌をやる。」
「は?何言っ――」
顎を上向かされた。唇が降りて――
「ん、なに?」
おとがいを捕らえていた手が、視界を塞いだ。
「・・・見るな。」
「どうして?」
「うるさい。」
暴いて見ろと言ったり見るなと言ったり、出て行けと言ったり所有物扱いしたり。
(やっぱりこの人、勝手すぎる。)
「やだ。見る。」
京一郎は千家の手を剥がそうと掴む。
「っ、強情だな。」
「じゃあ分かりました。交換条件にしましょう。」
目を塞がれたまま提案すると、押さえつけていた力が弱まった。
「なんだそれは。」
「伊織先生は私のものだ、ってちゃんと言ってくれたら、見ない。言わないなら、もう帰る。」
「交換になっていない。」
「元々、帰れって言ったのは伊織先生です。」
「・・・・・・ふん。」
鼻を鳴らして、千家は京一郎の耳元に唇を寄せる。
「・・・ぁ」
吐息の当たる予感。それだけで体の片側がぞくりとした。
「お前のものだ。京一郎。」
「っん、あ!」
掠れた声で、確かに言ったのを京一郎は聞いた。けれど、己の嬌声にかき消された。
「ず・・・るいっ!もう一度!」
「厭だ。」
「よく聞こえなかったから!ねぇ、伊織先生」
「睦言なら、閨で強請ることだな。」
「いおりせんせい!」
思い切り千家の胸を押したら、諸共床に倒れこんだ。どうやらまだ彼は本調子ではなかったようだ。
また、押し倒してしまった。
でも、こうやってまた触れ合えるのが嬉しくて、上から覗き込むと、千家の顔は朱く染まっていて・・・。
「・・・・・・伊織先生?」
急に視界が回転して、服の陰に覆われた。
「――見たな。」
低い声とともに千家の舌が唇に触れたとき、腰がぞわっとした。
貪られる。息もできないくらい、激しく。
「っう!いぉ――」
動けないように、体重を乗せて腕と足を押さえつけられる。
逃げられないように、髪の毛に手を入れて頭を掴まれる。
「んんっ――っぁ――ん・・・」
「は・・・・・・っふ・・・んぅ」
息ができないけれど、もっと。
重くて苦しいけれど、でも、もっと。
京一郎は動かせる右手で、千家の背を強く抱いた――――・・・。
また、戸を叩く音。今度はゆっくり、少し遠慮がちに。
「・・・スタッフだな。」
転がったまま京一郎の前髪を弄っていた千家は、立ち上がって襟を整え、扉を少し開ける。
「千家先生、そろそろ私達は帰りますけど、まだいますか?」
「そうですね。もう少し作業してから、と思っています。」
「じゃ、鍵、お願いしていいですか?すいませんけど、お先に失礼します。」
イベントスペースの鍵を千家に預けると、スタッフは皆帰って行ったようだ。
「さて。お前はこれからどうする?」
帰るのか、ということだろうか。であれば、まだ離れたくない。それに、千家がいつまた倒れるか心配でもある。
「見てても、いいですか?・・・お邪魔でなければ。」
「ふ。それは作業をなのか、私をなのか。」
苦笑しながら、千家は扉の外から椅子を運んで来て、彼の椅子の横に置いた。
「今はどんな作品を作っているんですか?」
何気無く聞いて、そんな質問を今までしたことがなかったことに気付いた。
「明日から始まる骨董展に飾る花、だな。連作のひとつを飾って欲しいとの希望だから、私個人の作品として置かれる。」
「えっと、つまりただ装飾の花としてではなく、千家伊織作、みたいに名前を出して飾る、ってことですか?」
「そういうことだ。」
「すごい・・・」
素直に感心すると、千家は面映そうに微笑んだ。
「ここ最近だ。こうして評価されるようになったのは。」
その言葉に、姉に代わって家元就任を決意してから苦節に負けず突き進んできた千家の思いが滲むような気がして、京一郎はその横顔を見つめる。
雪のように白い首に浮かぶ、京一郎の痕。それがあたかも吸収してしまったかのように、呪いの痣は薄くなっていた。
傷だらけの右手も、重りのようだった左手も、軽やかに動いている。
恐らく、次にまた痣が浮かび出てくるまで、千家の具合は悪くならないだろう。
「・・・ねぇ、伊織先生。」
「ん。」
「私が呪いを癒せること、知ってたんですか?」
「・・・・・・。」
千家は黙ったまま、花の茎をぱちんと切った。
「いつから・・・」
「・・・・・・あの陰陽師と会ってから、だな。」
やはり。駒葉で別れたとき、千家の目がどことなく切なかったのは、京一郎が持つ力に気付いたからだったのだ。
「それで、なんで私を避けたりしたんですか。」
「それは・・・」
千家は言い淀みながら、蕾の周りの葉をちぎる。
「京一郎、喉が渇いたな。何か買ってこよう。」
妙に爽やかに立ち上がって戸口に向かう。その袂を、京一郎は掴んだ。
「伊織先生。」
母親譲りの強い眼差しでじっと見つめる。目を逸らして扉に手をかける袂を再度引くと、千家は観念したように溜息を吐いた。
「・・・だから、先ほども言ったとおりだ。これまで臥薪嘗胆の思いでやって来たのだ。いつか、先代の頃のような力を取り戻して、満を持して呪いを解かせてやる、とな。」
京一郎は黙って頷く。
「それが、恨むべき相手はとっくに死んでいた。それでも、消えない呪いが辛うじて仇として私の前にあった。だが、それすらもお前が無くしてしまったら、これまでなりふり構わず突き進んできた意味が無くなってしまう。」
「そんなこと、」
「あぁ、そんなことだ。」
そんなことない、と京一郎は言おうとしたのだが。千家は疲れたように微笑んだ。
「分かっている。今の私には花しかない。呪いが有ろうと無かろうと、どのみちやめるという選択肢はないし、苦しみに縋るなど、見苦しいことこの上ない。・・・それも、分かっていた。」
「それでも、・・・私を捨ててでも、縋りたかった・・・んですか。」
聞かずにはいられない。
千家は振り向いて、また京一郎を抱き寄せる。
「手前勝手なのも、分かっている。そういう性格だ。だから心は痛まない、・・・と、思っていたのだが・・・な。」
髪を梳く掌は優しい。
「さっき姉が来て、そうでもないことがよく分かった。」
「お姉さんが?どうして?」
「お前を誘惑した。」
「・・・はあ?」
「あれは明らかにそういう意図だ。そもそも初対面の人間の頬や唇に触れるか?それもいきなり。」
思い出して苛立たしそうに言う。だが貴方も初対面で手を握ったのだが、と言おうとして、京一郎はやめた。
(厳密に初対面では、なかったしね。でも。)
「っふふ。似てるんですね。お二人とも。」
「どこが。」
嫌そうな千家の声はどこか幼さを感じさせて、なにやら微笑ましくなる。
「それで?私を失ったら、伊織先生は心が痛むんですか?」
「さあな。」
ぶっきらぼうな言い方が、愛しくてたまらない。
「ふふふ。」
「なんだ。」
「べーつーに。」
京一郎は傷だらけの手を取って、そっと唇を押し当てた。