コヒステフ 4 赤熊百合の萌し
このところの不眠に耐えきれなくなり、野々村がふざけ半分でくれたチラシに書いてあった陰陽師の事務所へ足を運んだのがひと月ほど前。
新宿の繁華街の一角にある、地下二階の胡散臭い部屋のチャイムを鳴らすのには勇気が要ったが、出てきた主が思いの外若かったので少しほっとした。
最初は体良くあしらって京一郎を帰そうとしていた彼も、事情を聞くと沢山の護符をくれ、身を守るための呪言を教えてくれた。どことなくアナーキーで倦怠感漂う彼も、実は人の苦しみを放って置けない性格なのかも、と思うと信頼できるような気がした。
「・・・ざんざんだりはん、・・・つとみてごようれいしんに・・・きゅうきゅうにょりつりょう。・・・ふぅ」
「なんの呪文だ?そりゃ。」
昼下がりの喫茶店。コーヒー牛乳、もといミルク多めのカフェオレをちびちびやりながらぶつぶつと呟いていると、ワカがカウンターの中からぬっと顔を出してきた。
「あぁ、これは万が一の時のおまじない。」
「聞いたことない祝詞だが、どこで知ったんだ、そんなの。」
「陰陽師のひとが教えてくれたんだ。」
「はぁ?なんだそりゃ」
予想はしていたが、やはり顔をしかめられた。
「冗談みたいだけど、詐欺じゃないよ。ちゃんと符の効果は出てるし、学生さんからそんなに沢山のお礼はもらえないって言ってたし。」
「本当に大丈夫なんだろうな、それ。ていうかお前、なにかあったのか?」
「うん、ここのところ毎晩悪夢を見て、よく眠れなかったんだ。」
「それで陰陽師?」
「まぁ。一応理由はあるんだけど・・・、信じてもらえないと思うし。」
「・・・そんな、どこの誰だか分からないような奴に頼るくらいなら、俺が祓ってやるのに・・・」
「ワカくん、お祓いできるの?」
すると、気まずそうな顔をしてワカは目を逸らした。
「出来るよなぁ、"若サマ"。」
いつの間にか京一郎の隣に座って頬杖をついていたミサキがにやにやしながら言う。それを大きな目でギロリと睨みつけて、ワカは低く唸った。
「・・・うるさい」
「え~!ワカくん、すごいねぇ!」
京一郎が素直に感心すると、今度は困ったような顔になる。
「そんないいもんじゃねーよ。周りはうるさいし。」
「周り?」
「こいつの実家は神社なんだよ。一人息子な。で、素質があるってんで神主の後継ぎにと、皆んなからもんのすごぉく期待されてんだけど、それが嫌で逃げ出してきたんだよ。」
「違う。自分探し中だ。」
(ワカくん、その歳でそれは、結構イタイ・・・)
寸でのところで京一郎は突っ込みを飲み込んだ。ミサキは気にせず続ける。
「でも、そのまんまじゃ路頭に迷うだろ?だからこいつの従兄弟の熊みたいな奴が、俺に面倒見てやってくれーって押し付けてったんだ。」
「熊じゃない、臣だ。それに自分ひとりじゃ回せない店を助けてるんだ、感謝されこそすれ、恩なんて感じないからな。」
「お前ェはもう少ぉし京一郎みたいに素直になったら、ちっとは可愛いのにな。」
言いながらミサキは京一郎の頭をわしわしと撫でた。
「・・・ははは」
「京くんはおぼこくてかわゆいでちゅねー」
「マスタァ近い・・・」
ミサキは両手で京一郎の髪の毛をぐちゃぐちゃに撫で回しながら頬を寄せてくる。
「食べたくなっちゃいまちゅねー」
「ちょっとミサキさん・・・」
そこはかとない危険を感じ、ミサキの顔をそっと押しのけて京一郎は立ち上がった。
「じゃ、私はそろそろ帰ります。ごちそうさまでした。」
しばらく無言で見送った後、バイトは勝ち誇ったように言った。
「マスタァにはくっついて欲しくないそうだ。残念だったな。」
店主は軽く舌打ちをして、割烹着を引っ掛けながらレジのスイッチを入れたのだった。
* * * * *
千家の門を入ると、一度離れへ向かう。
教室のある日、いつも離れの鍵は開いている。そこから渡り廊下を通って母屋へ。こちらも鍵はかかっていないから、京一郎のように了解を得ていなくとも、勝手に侵入することは容易だ。不用心だと思うが、昔からそうしているのだろう。
母屋に入ると、中庭に面した廊下を進んで、一番西側にある部屋を目指す。大抵、障子は開け広げてあり、家元が花を生けたり本を読んだりして寛いでいるのが見える。
今日は、薄い水色の着物に深緑色の柔らかそうな兵庫帯をゆったりと締め、柱に身を凭れかけさせて、なにか読んでいた。
「こんにちは。」
廊下から声を掛けると、本を閉じて目を上げ、千家は薄く微笑んだ。
「・・・今日は早いな。」
「すみません、もう少しゆっくり来るべきでしたか。」
「そういうことではない。別にもっと早く来たっていい。ここに居て退屈でないのなら、な。」
小さく、失礼します、と頭を下げて部屋に入る。
この部屋と廊下とを仕切るのは主に障子で、それも大抵は開けてあるから開放感があるにもかかわらず、片側の壁を覆う本棚が圧迫感を強め、部屋を狭く感じさせる。
以前、はだけた着物について厳しく叱られてから、京一郎はここに来るとまず着物に着替えて着付けを千家にチェックしてもらう。そして稽古が始まるまで時間があると、彼の蔵書に触るのを許してもらっていた。
知的好奇心を押さえきれず、恐る恐る読んでもいいか訊いたところ、「読む人間が増えるのは、本にとって本望だろう」と二つ返事で了解してもらえた。このところは着付けも慣れてきて、この部屋に来る理由はもっぱら読書が主になってきている。
「何を読んでいたんです?」
近寄って覗き込む。
この間は確か、マラルメの詩集を眺めていた。なんだか不穏で理解しづらい文章だった気がする。もっとも、彼が眺めていたのは対訳でなく、原文の方だったのだが。
「今日は和歌ですか。」
「子供の頃、覚えさせられなかったか?」
千家の横に座ってその手の中の頁をよく見ると、確かに見覚えのある歌が並ぶ。
「小倉百人一首。」
「あぁ!小学校でやらされました。・・・先生でも、こんなベタな和歌集を見るんですね。」
「これらの歌の意味を理解しているか?」
「うーん、正直、音ばかり覚えてます。意味を知ると、面白いんですか?」
千家はふ、と笑った。
「お前には、刺激の強いものもあるかもしれないな。」
そう言って指の背で京一郎の頬に触れる。
たまに、手の届く距離にいると、千家はこんな戯れを仕掛けてくるようになった。猫にでも触っている感覚なのだろうが、紅い瞳に覗き込まれると、京一郎はなにやら落ち着かなくなる。
そんな様子を目を細めて眺めながら、千家はそのまま指の腹で京一郎の顎を撫で、唇の膨らみをつい、と押した。
鼓動が、聞こえているのではないかと、どきどきしているのが伝わってしまうのではないかと、気が気でない。
「さぁ、そろそろ着替えるか。お前の着物姿は奥様方が楽しみにしているから、早めのお出ましが良かろう。」
おもむろに指を離すと、千家はすっと立ち上がる。
京一郎は名残惜しさを覚えて、彼を見上げる。
(・・・もう少し、このままいたかった・・・と思う私は、どこかおかしいのだろうか・・・)
恋をしているわけでもあるまいに。
心の中でそう自嘲して、はっとする。
高校時代に、短い間だが付き合っていた彼女といた時も、こんな風に感じていただろうか。確かに彼女といる時は気持ちが高まり、嬉しくていつも幸せだったように思う。だがこんなに、たった数メートルの距離も、もどかしく思うほどだっただろうか。
「・・・どうした。」
フォーマルなものに替えるのだろう、後ろ手に帯を解きながら、千家は振り返る。
「いえ・・・」
もう少しだけ触れていてほしいなんて、言えない。
「なにやら物欲しそうに見えるぞ、京一郎。」
・・・初めて、下の名前を呼ばれた。
その手を離れて落ちた兵庫帯のように、ふわりと届いた千家の甘い声は、京一郎の胸の中で幾度となく、木霊して響いた。
* * * * *
教室では、女性たちが家元の話題で盛り上がっていた。
「それ本当?」
「だって見たんだもん。あれは彼女だと思うー!」
「ねぇねぇ、柊くん、千家先生と恋バナとかしたことある?」
急な振りに慌てる。
「いえっ?!しません!」
「そっかー。千家先生って独身でしょ?彼女って誰なのかなーって。」
「・・・先生、彼女いるんですか?」
胸がざわつく。
「わかんないんだけど、こないだそれっぽい人を見たのよ。美男美女?って感じでお似合いだと思ったけどね。」
「えー、でも私は彼女いない方がいいなぁ。」
「まぁね。みんなの千家先生でいて欲しいよね。」
「先生は恋愛禁止!許婚とかいそうだけど、ダメ、絶対!」
ほとんどが既婚者か恋人のいる女性たちなので、そんな噂話は楽しいのだろう、きゃらきゃら笑っている。
しかし京一郎の胸の中には得体の知れない雲のようなものが立ち込めてきて、先ほど千家といた時に感じたのとは違った落ち着きのなさを生じせしめた。
「京一郎。」
呼ばれてはっとすると、家元が少し眉を曇らせて長机の反対側から覗き込んでいた。周りを見るともう誰も残っておらず、教室の電気も半分消えている。
「あ、すみません。すぐ帰ります。」
今日は手伝いのトメたちが来なかったようで、千家が一人で花器や花材の切れ端などを片付けているようだ。
「浮かない顔だな。」
「いえ、そんなことは・・・」
「ふぅん?」
慌てて花材を剣山から抜いてまとめる。教室が終わってから、どうやら随分長い間ぼんやりしていたらしい。
離れの玄関で靴を履いていると、千家が鍵をかけにやってきた。今日は後のクラスはないようだ。京一郎の足元を見て、ふと思い付いたように聞く。
「明々後日の午後の予定は?」
「へ?」
「草履か下駄、持っていないなら揃えたほうがいい。和装にスニーカーは、違和感があり過ぎるからな。」
確かに。いつも帰り道に草履が欲しいと思い、しかし、やはりいつも家に着くと忘れてしまっていた。言われて今思い出した。
「明々後日なら特に予定もないから、買いに行くのに付き合ってもいいが。」
「え・・・」
上からの物言いだが、誘ってくれていることには違いない。
「いいんですか?」
「お前さえ良ければ、な。」
その日なら、部活も休みだし、特に用事もない。
「じゃあ、お願いします!」
「では、昼の3時にここで。」
思いがけない誘いは小さなそよ風となって、京一郎の胸の暗雲を少しだけ攫っていったようだった。