コヒステフ 5 きっと、ムラサキツユクサ。
二日後。いつものように一旦千家の部屋で着物に着替えて玄関へ向かうと、トメが笑顔で出てきた。
「伊織せんせが誰かとお出掛けなんて、久しぶりなんですよ。老婆心ながら嬉しくて!」
顔を綻ばす。
「おかしなことを言うんじゃない。私はしょっちゅう出掛けているだろう。」
「センセのあれは、お仕事でしょ。接待はお出かけとは言いません。」
「接待・・・?」
「行くぞ、京一郎。」
千家はそれ以上何も言わせまいといった体で、玄関を出た。
向かう店は近所なのだろうか。迷いなく千家は歩を進める。
「・・・接待なんて、先生もするんですね。」
横に並んで、何気なく聞いてみる。
「教室だけでは価値を保てないからな。」
つまらなそうに、家元は答える。
「何の価値です?」
「華道家としての、だ。」
「・・・というと?」
「例えば旅館やホテル、パーティー会場などに飾られている花は大抵、そういった施設と提携している花屋に注文していることが多い。が、それなりの品質を求める場合は、名の知れた華道家に依頼が来ることになる。」
「伊織先生も・・・」
「まあ、それなりに需要がある。だが、それも値段と質と、金を出す側が華道家を気に入っているか否かによる。だから、パトロンには特に用がなくても呼ばれたら応じるし、機嫌伺いもする。」
「応じる、というのは・・・」
「自宅の花を生けたり、酒の席に同席したり、・・・いろいろだな。」
少し自嘲気味の微笑み。
その意味を勘ぐってしまいそうになる。”いろいろ”の中身とは、いったいどういうものなのか。
しかしあまり質問攻めにするのも気が引けて、無難な感想を述べた。
「・・・忙しいんですね。」
「まぁな。」
「彼女さんからは、不満だと言われたりしませんか。」
「・・・誰のだ?」
「え、・・・伊織先生、の・・・。」
言ってから、しまった、と思った。
そんなこと聞くつもりではなかったのに。・・・否、聞きたくもなかったのに。
「・・・ふふ。聞いてどうする。」
石畳を歩く千家の声が、少し楽しげに響く。面白くない。
「いえ、別に・・・。」
「ふぅん。」
気づくと両側に商店が連なる坂道に差し掛かっていた。昔ながらの小間物屋や茶屋、香などを取り扱う雑貨店などが軒を並べ、和服で歩くのにうってつけの場所だ。
京一郎は最近、着付けに慣れてきたこともあって、新しく浴衣を買った。柄の目立たない渋めの色なので、お華の稽古には襦袢を中に合わせて着て行ったりもしているが、今日はいつもの薄萌葱色の着物に藤鼠の帯。そして千家は渋く海松茶色の夏らしい素材の単衣に、利休鼠の平帯を合わせている。足もとは涼しげに、下駄。
「お前は?小物を選ぶのなら、それこそ彼女と一緒のほうが良かったか。」
不意に千家が訊いてきた。さして興味もなさそうに問う声が、なおのこと恨めしい。
「・・・いいえ。私にはそんな人、居ませんから。モテモテの伊織先生とは違って。」
「モテモテ、か。」
復唱して、千家はくつくつと笑う。下駄の音が、カラコロと軽快に鳴る。
なんだかむくむくと苛立ちが湧いて来た。
そうだ。男の履物など見繕っている暇があるなら、女への贈り物でも探していればいいのでは。そう言ってやろうと思ったら、急に千家が立ち止まった。
「京一郎。」
「・・・なんです。」
名を呼ぶから、冷たく返した。千家が少し首を傾げてこちらの顔を覗き込んでいる。
「私の恋人のことが、それほど気になるか?」
「!・・・別に。」
なぜ、気にしてやる必要がある?また癇に障ったので、ちょっと睨んでやる。
「ふぅん。では何故、不機嫌なのかな。」
覗き込んでくる瞳が、面白そうに細まる。ああ、苛々する。
「・・・なんで私が不機嫌にならないといけないんです。上機嫌ですよ。今日は天気もいいし。」
「ああ、そうか。私がモテてお前がモテないのが面白くない、か。なるほど。」
「ちょっと、なんでそうなるんです!」
「・・・いない。」
緩慢に、髪をかきあげる。長い黒髪が、さらりと揺れた。
「え?」
「私もお前と同じく、恋人はいない。毎晩寂しく独り寝する身だ。」
目線だけを流して嫣然と微笑む。京一郎は、彼の艶やかさはいったいどこで身に着いたのだろう、などとぼんやり考えた。
「安心したか、京一郎。」
・・・何に。
咄嗟にむっとして何か言い返そうとも思ったが、どうやら、ただからかっているらしいことが分かったから、こう言ってみる。
「ええ。女性方から大人気の千家先生に恋人がいないのなら、私もまだまだ焦る必要はないのだな、とほっとしました。」
「ふ。なかなか言うな。そら、ここだ。」
千家の後に続いて暖簾をくぐると、レジの奥で新聞を読んでいた老人が目だけをこちらへ遣る。
「・・・先生か。」
「どうも。この子の履物を見繕いたいのですが、よろしいですか。」
「どうぞ。好きに見てください。」
それだけ会話すると、老人は再び新聞に目を落とす。店主なのだろう。千家は馴染みの客なので、店内を好きに触っていいということか。
「1足目だから、無難な色合いがいいだろうな。」
背の高い千家は、上の方の棚から無遠慮に何足か取り出して見比べる。
「そこに腰掛けて。ああ、足袋を持ってきていなかったか。これ、開けてもよろしいですか。」
京一郎を長椅子に座らせながら、千家がレジへ声を飛ばすと、店主は目線で頷いた。
そして千家は屈んで京一郎の足首を手に取り、靴下を脱がせる。
「そのくらい、自分でやりますって」
「一応売り物だ。丁寧に扱わないといけないからな。因みに言うと足袋は、長襦袢を着ける前に履くものだ。」
言いながら、売り物の足袋を袋から出す。
確かに、すでに着物を着てしまっている状態で足袋を履くのは少し難しいかもしれない。思い直して、京一郎はされるがままになることにした。
妹が小さかった頃、親が膝に乗せて靴を履かせていたことを思い出す。
もちろんいま、自分が千家の膝に乗っているわけではない。が、片足を手で少し持ち上げて足袋を履かせてくれる淀みのない動作が、どこかほっとした気持ちにさせると同時に、普段人から触れられることのない足首に千家が触れていることに、どこか淫靡な緊張を抱かせられる。
京一郎は陶然として、細々と世話を焼く千家の揺れる前髪を見つめていた。
足袋を履かせ終わると、先ほど降ろした草履に足を通して見るよう言われる。
いくつか履いて、店内を歩き回ったり立ち鏡を覗き込んだりして、一足を決めた。落ち着いた薄い色の、無難な形だ。先ほど履いた足袋は、家元の紹介ということで、店主がおまけにしてつけてくれた。そのまま、買ったばかりの草履を履いて店を出る。
「今日は赤木神社のお祭りだったな。その子連れて行ってやりなよ。」
暖簾をくぐりがけに、老人が思い出したように言った。
お祭りは、高校生の頃に家族と出かけたきり、行っていない。元来イベントごとが嫌いではない京一郎は、久しぶりの響きに心が高鳴った。
しかし、千家はどうだろう。京一郎の知る彼は、大抵部屋の中で静かに花を生けているか、本を眺めているか、なにか考え事をしながら調べ物をしているか。あまりアクティブなイベントに参加するイメージがない。
「京一郎、行ってみたいか?」
「あ、・・・はい。」
気を遣ってくれたのだろう。千家の質問に、遠慮がちに答える。
「そうか。ならば、少し覗いてみるか。」
意外にも。
「はい!」
ちょっとテンションが上がって、元気に答えてしまった。千家は、はしゃぐ子供を慈しむように目を細めた。
上ってゆくにつれ緩やかになった坂は、カップルや親子連れで賑わっている。外国人観光客も、結構多いようだ。
参道まで来ると沢山の出店が軒を連ね、提灯が祭りの雰囲気を盛り立てている。かなりの人出だ。
「はぐれるなよ。」
「分かってますよ!」
のんびり歩く千家はあえて人を避けているように見えないが、なぜかうまく人の波を縫うように進んでいる。一方の京一郎は慣れない草履を履いているせいか、何かと人に阻まれてうまく歩けない。
ぐずぐずしていると、あっという間にはぐれてしまった。
今日は千家からどうも子ども扱いされているような気がするので、最初は、少し離れてせいせいしたかな、などと思いながら京一郎は歩いていた。
しかし、すぐに合流できると思っていた千家の姿が一向に見当たらない。馴染みのない神社の祭りに、初め抱いていた親近感、期待感が少しずつ薄れてくる。周りの人たちが楽しそうにしているのを見るたび、自分はここでは部外者であるような気がしてくる。
沢山の人に囲まれている中の孤独感。人が多すぎて、どちらの山門から入ってきたのかも分からない。
唐突に、帰りたい、と思う。
もう、いい。もともと来る予定があったわけではないのだ。明日の講義の予習もまだだし、そろそろ帰って夕飯にしないと。
帰りたい。
でもどうやってここを出よう?
不安が膨れ上がる。
闇雲に人を押し退けて、人集りから抜け出そうと試みる。お面屋の前に立ち止まる人たちを追い抜こうともがくが、詰まっていて通り抜けられない。
必死に掻き分けて進もうとしていると、手首を強く引かれた。
「京一郎!」
振り返ろうとするが、人の波がそれを許さない。
「こっちだ。」
半ば引き摺られるようにして、参道から外れた。
「・・・どうした。顔が青いぞ。」
千家が顔を覗き込んでくる。
「・・・・・・。」
はぐれて不安になった、などとは間違っても言えない。
千家は俯く京一郎を不思議そうに見つめていた。
そのうち、何を思ったのか、参道とは逆の方向へ歩き出す。腕を掴まれたままなので、京一郎も横に並んで歩を進める。
出店の裏側の木立広がる薄い林を越えると、主に祭ってあるのとは別の社に続く、細い参道に出た。
祭りの喧騒を少し離れて、石の道に下駄の音が響く。
そのまま、しばらく無言で歩いた。
気づくと、先程まで膨れ上がっていた不安は萎んで、なくなっていた。
「・・・伊織先生」
見上げると、柔らかな風にさらわれた千家の髪が、木の葉の間から漏れる月の光を反射して、きらきらしながらひらめいている。気持ちよさそうに目を閉じる姿に、見惚れた。
視線を感じたのか、目を開いて千家がこちらを向く。
「月の光が、眩しいか。」
「いえ・・・」
賑やかな祭りは好きだ。けれど、こんな風に夜、寺社を歩くことはあまりないから、木々に囲まれた静謐さに心を奪われる。千家の、どこか凛とした雰囲気にも。
「・・・私を・・・、見つけてくれて、ありがとうございます。」
いつまでも、この空気の中に揺蕩っていたい。
(伊織先生と、一緒に・・・。)
千家は少しの間、こちらを見つめていた。逆光で表情はよく分からなかったが、そのうち、ふ、と柔らかい声が漏れた。
手が伸びてきて、襟足にかかる髪をそっと梳くと、なにかを頭に乗せてくる。お面だ。
京一郎が人混みに閊えていたとき、どうやら千家はこの狐の面を買っていたようだ。斜めに被せて、ぽんぽんと撫でる。やはり、今日は子ども扱いされているような気がする。
「かなり混んでいたしな。・・・どうする?帰るか。」
京一郎は、頭の上の狐の顔に触れながら考える。
明日の予習はまだ終わっていない。そろそろ帰りどきではある。今日の目的は果たせたし、もとより祭りに参加する予定はなかったのだから特段留まる理由はない。
しかしなぜだか、帰ってしまうのが惜しいように思われた。
「・・・もう少しだけ、お祭りを見ていきませんか?・・・伊織先生がよかったら、ですけど・・・。」
「良いも悪いも、そもそも私が行くかと聞いたのだったな。」
それでは、と千家は少し人の悪い笑みを浮かべる。
「え?」
「はぐれないよう、手をつないで行こうか、京一郎。」
耳元で囁いて京一郎の指に己のそれを絡める。俗に言う、恋人つなぎ。
絡んだ指から、弱い電流が腕の中を走ったような感じがした。どうにもいたたまれない。手が熱い。
「・・・こんなに、しなくても、もう大丈夫です。」
「あれほど狼狽することのないよう、これくらいはしてやらないとな。それに、今さっきまでも私はお前の腕を握っていたではないか。」
確かに、人混みから連れ出されてからずっとそのままいたけれど、それはあくまで千家がこちらを掴んでいただけで、しかも人が殆んどいない場所だから、だったわけで。
「だからといって、これは・・・」
嫌なわけではない、けれど触れた部分から何かよく分からない気持ちが溢れ出てしまいそうで、たまらない。
そんな京一郎を、千家は面白そうに見つめる。絶対、恥ずかしがると分かってやっている。
「さぁ、行くぞ。」
有無を言わさず、屋台の並ぶ表参道へ。
周りを見渡しても、手をつなぐ男女のカップルはいるけれど、男同士はもちろんいない。やはりきっと、変に思われる。
「伊織先生、大丈夫ですから、これはやめましょう?」
千家はにやにやするだけ。
「せんせいっ!」
「・・・そんなに、厭か。」
今度はあっさりと手を放して、またすいすいと行ってしまう。
離れた手を包む生温い空気が膨れ上がる心を冷やりと刺すから、――
「・・・あ」
――咄嗟に手を掴んでしまった。
立ち止まる千家。
「・・・なんだ。手をつなぐのは、厭なのではなかったか。」
ゆっくり振り返り、からかうように言われる。
「・・・・・・」
悔しいけれど、本当の気持ちは、多分、別に厭なわけではないのだ。
しかし人の目があるし、そもそも千家はからかっているだけなので、そう素直に言うことはできない。
(・・・きっと私は、子供の頃を思い出して、父の手を恋しく思っているのだろう。)
そう、父の。・・・でなければ、祖父の、或いは、親戚の誰か。
だから京一郎は、おずおずと自分の指を千家の指先数本に緩く絡めた。
触れたところからじんわりと、血が巡る。
「・・・こ、れくらいだったら、いいです。」
胸の奥が疼くから、声を強く出した。
横目で見遣ると、千家は無言で絡んだ指先を見つめている。
「っ別に!私は手をつなぎたいわけじゃないですからね。あくまではぐれるのを予防しているだけですから。」
なんだか、頬が熱い。今宵こんなに人肌恋しいのも、きっと祭りの熱気のせいだ。
「ふふ。・・・こういうのを、ツンデレ、と言うのだったかな。」
「デレてません。」
「そうなのか?」
つないでいない方の手で、頬を引っ張られる。
「ほうれすっ」
意地悪な指を、こちらももう片方の手ではたく。
千家は、笑っていた。
先程、独りぼっちになってしまったときには、この熱気から自分だけが浮いてしまったような気がして、とても寂しく心細く感じた。なのに今は、千家が横にいるだけで、祭りの一部になれたような気がしてくるから不思議だ。
(浴衣を着てくれば、良かったな。)
落ち着いて見回すと、射的や金魚すくいなどのほか、リンゴ飴や綿あめ、チョコバナナなどのスイーツも沢山の出店がある。食事向きなのは、じゃがバターやお好み焼き、焼きそばにホットドッグ。どれにしようか迷う。
「伊織先生、私お腹空きました。何か買いましょう。」
先ずは、目の前にあるホットドッグを1本買う。千家はというと、そんな京一郎を見ているだけ。
「先生は買わないんですか?これ、結構美味しいですよ。」
「食べたことがない。」
「なら、ひと口どうです?」
食いかけを差し出してみる。
少し怪訝そうに小さく口を開けて、千家はホットドッグを齧った。馴染みのないものには保守的らしい。いつも堂々としている彼らしくなくて、京一郎はこっそり笑った。
千家はしばらくもそもそと咀嚼して、京一郎に渡しながら呟く。
「・・・悪くは、ないな。」
「でしょう!」
小さな噛み跡に大口を開けてかぶりついて、はっとした。
(これって、間接・・・)
ちらと千家を見るが、物珍しそうに屋台を眺めているだけで、気にしている様子はない。
京一郎は、また火照った気がする顔が見えないよう、狐の面をずらして隠した。
「京一郎、じゃがバターとはどういうものだ?」
「先生、じゃがバタ食べたことないんですか?」
「生憎、祭りに来ること自体が久しぶりでな。この人混みが、正直得意ではない。」
「えー?!」
言いながら、先程なぜはぐれてしまったのか、唐突に思い当たった気がした。京一郎は慣れない履き物に足を引っ張られて遅れ、千家は慣れない人混みを避けようと進み、それでどんどん距離が離れてしまったのだ。
「・・・伊織先生、具合悪くしてないですか?」
「なんだ、急に優しくなったな。」
さも意外そうに目を細める。心配して言ったのに、すぐこれだ。京一郎がむっとすると、微かにつながっている指が、僅かに握られた。
「お前が手を握っていてくれるから、平気だ。」
「・・・そう・・・です、か・・・。」
千家の微笑が、なんだか眩しい。少しだけ重なる指が、熱い。いつもより大きく感じる脈動が、指先から伝わってしまうのではないかと気になって仕方がない。
「・・・じゃあ、今日は私が美味しいB級グルメを教えてあげます。」
じわじわと湧き上がるものを振り切るように、京一郎は千家を引っ張って屋台を回った。いちいち物珍しそうにする千家が新鮮で、これは美味しい、あれはイマイチなどと解説してやった。
屋台を巡りながら、緩く絡んだ指は、時折離れそうになったり、人に押されて重なりを深くしたりする。
しっかりつないでいないから、離れないように常に意識が行く。そのことにまた鼓動が高鳴り、千家の表情を窺い見たが、提灯の橙色に照らされる横顔は、久し振りの祭りに高揚した少年のようで、京一郎の懸念に気づいている風もなかった。
帰り道、神社から駅の入口へ続く緩やかな坂には、参道ほどでなくとも変わらず人が沢山いたので、地下に続く階段の前で、ではまた来週、といつもの挨拶をするまで、指を絡ませたままにしていた。
駅に着くと、それまでずっと触れていた温もりが離れて、生暖かい空気が互いの膚を隔てるのが名残惜しく、また指を伸ばしそうになるのを堪えながら、京一郎は手を振ったのだった。