コヒステフ 6 ライラックと戸惑い



 伊織先生の声は、甘い。少し大きな声を出すと、ちょっとふるえるのが可愛い。
 伊織先生の髪の毛は、くすぐったい。あと、微かに石鹸の香りがする。
 伊織先生の瞳は、日の光の中ではガーネットみたいだ。そして、たまに青い炎みたいに輝く。
 伊織先生の指は、白くて長くてちょっと冷たそう。だけど、本当は柔らかくて、温かい。

* * * * *

 祭りから帰った後、軽く次の日の講義の予習を終えた京一郎は、改めて一日を思い起こして、そっと赤面した。
 結局、祭りを見て回っている間中、ずっと千家と指先を緩く絡ませていた。何かの拍子に離れてしまうことはあったけれど、その都度どちらからともなく互いの指先を探し当てて、触れていた。
 あのときは、祭りの熱に浮かされたからと自分に言い訳して、しかし我ながら結構大胆だったと思う。
 ずっと触れていた指先、たまに当たった肩から感じた体温。
 思い返すと甘酸っぱい感覚が湧き上がってきて、ベッドに転がって身悶えた。
 次の教室では、どんな顔をして千家に会えばいいのだろう。
 数日後、緊張しながら彼の部屋へ行った。が、意外にも千家の態度はいつも通りだった。
 拍子抜けした。同時に、何も変わらないことへ少しだけ安心した。
 そして少しだけ、がっかりした。
・・・なぜ、がっかりしたのか。何を、期待していたのか。
 それについては、己の深層を覗き込む勇気が出ず、またそこまで問題にすることもないと思い、京一郎は考えることをやめた。

* * * * *

 本を読んでいる伊織先生は、いつも楽しそうだ。
 庭を眺めている伊織先生は、いつも眠そうだ。
 猫を撫でている伊織先生は、多分だけど、ちょっとおなかが減っているんだと思う。
 花を生けているときの伊織先生の顔は、少しだけ怖い。そして少しだけ、哀しそうに見える。
 伊織先生の瞳は、声は、所作は、美しくて、心地いい。
 だけど・・・――。

「伊織先生は・・・」
「だれ、イオリ先生って。」
 顔を上げると、道着から着替え終わった野々村が上から覗き込んでいた。どうやらうっかり声が出てしまっていたらしい。
「・・・別に。誰だっていいだろ。」
 刀を袋に入れる。実家から持ってきた守り刀。今は居合の練習にも使っている。
「・・・気になる。」
「君には関係ない。」
「なんだよそれー。オンナ?」
「さぁね。」
 立ち上がり、道場に一礼する。
「では私はこれで。お疲れ様です。」
 周りの部員に会釈し、武道場から出る。
「ちょ、柊ってばー」
 野々村が追ってきた。
「最近さぁ、なんか付き合い悪くね?ラウンジ行こうぜー」
「えー・・・別に用ないしなぁ。」
「じゃ、コーヒー飲みたい。道場の裏のお店でケーキ食べねぇ?」
 稽古の後だから、小腹は空いている。
 今日は本来華道教室のある日だが、教室から急に連絡があって、休みになった。
 なんだかしつこく纏わり付かれそうだが、時間もあることだし、たまにはこの同級生に構ってやろうか。
「いいよ。行こう。」

 ウッディ調の内装。ゆったりとしたジャズが流れる店内は、ミサキの店とはまた少し違う趣き。
「洋梨のミルフィユです。」
 カフェというより、本業はケーキ屋だがついでにコーヒーを出している、という感じだ。
「これこれ!食べてみたかったんだー。」
 ウキウキしながらフォークを突き刺す同期。
「野々村は、こういうの目敏いよね。女子からの情報?」
「まぁ。」
 京一郎も同じものを口へ運ぶ。確かに、コーヒーに合う。ミサキの店でもスイーツやらないのかな、などと思ってみる。
 そういえば、千家は甘いものは好きだろうか。先日のお祭りでは、水飴を食べる京一郎を、やはり見ていただけだったけれど。
「あの、さ。」
「ん、なに?」
 野々村がおずおずと言う。
「いや、お前、最近なんか・・・ちょっと、変わった?」
 さっきも言われた。付き合い悪いとか。
「そうかなぁ。私としては、付き合い悪くしてるつもりもないんだけど。」
「や、ま、それもあるけど。なんつーか。」
「なんだよ。」
「キレイになった・・・?」
「誰が?」
 首を傾げる。同期の女子のことか、それとも男勝りの先輩か。
「だから、・・・柊が。」
「はぁ?」
 自分が?キレイ?なんのことだ。
「私は男だけど。」
「そんなの分かってるよ。だけど、・・・女子たちも言ってるぜ。最近柊くんなんかキラキラしてるね、って。」
「へぇ。ついに私にもモテ期が来たのかな、・・・って、本気にすると思った?」
 ちょっと冷めた声で返すと、むっとされた。
「お前さぁ、自覚無いだろうけど、結構モテるんだぜ?知らなかったでしょ。」
「嘘だよ。大学入って、一度もそんな雰囲気になったことないし。」
「それは俺が――ってゆうか!」
 野々村はバン、とテーブルを叩く。読書をしていた他の客が目を上げる。
「ちょっと野々村、そういうのやめなよ。迷惑だよ。」
 嗜めると、不満そうに目を逸らした。
「・・・あの、さ。」
「なに?」
「お前、好きな人とか、いる?」
「え・・・」
 唐突な質問。
 好きな人、というのはつまり、気になる女性がいるか、ということで、それなら答えはノーだ。
(だけど、・・・)
 気づくといつも、思い出してしまう人は、・・・――。
「いる?」
 どこか緊張した面持ちで身を乗り出してくる野々村。
「いや、別に。っていうか何で?」
「・・・や、なら、いいんだけど・・・。」
 歯切れの悪い返事。
「野々村は?誰が好きな人いるのかい?」
 訊き返すと、野々村は居心地悪そうにもじもじした。
「いない、・・・ことも、ない。」
「え!誰だれ?・・・って、訊いていいのかな?」
 すると、泣きそうな顔をして、小さい声で呟いた。
「お前にだけは、絶対言わない。」
「え・・・なんで?」
「いーわーなーいー」
「えぇ?」
 拗ねた子供のように、歯をむき出しにして言うものだから、ちょっと笑ってしまう。
「なんだよ、教えてくれてもいいじゃないか。」
「やだね。てかもうこの話はおしまい。」
 そっぽを向いてコーヒーを啜る。
「君が言い出したんじゃないか。」
「あー、ミルフィユうまかったー」
 白々しく話を切り上げる。
 どうも喫茶に誘った理由はこれのようだが、いまいち何がしたいのかよく分からない。
「あ、もしかして、私と野々村が好きな人が同じだったら、とか考えてた?」
「あ?」
「もしそういうことになったら、気を遣わなくていいよ。そのときは正々堂々、お互いライバルとして闘おう。」
 それで私たちの友情が壊れることなどない、と瞳に力を込める。しかし、野々村は殊更に変な顔をした。
「いや、もう、いいよ・・・、それは・・・。」
「よくない。そういうのはちゃんとしたい、私は。恋愛ごとと友情は別物だろう。」
「まあ、・・・。」
「私は、君とはいい友人でいたいと思ってる。」
「あ、・・・うん。はは。・・・俺も、そう、かな。」
 野々村は曖昧に笑う。
「野々村、なんだか君、今日は変だよ。」
「そうかな、・・・そう、かも?・・・そろそろ、帰ろうかな。」

 カフェを出て、ぶらぶらと駅へ向かう。
 野々村は実家から大学へ通っているのだが、途中まで方向が同じなので、一緒に電車に乗る。
 いつもは、同じ授業を取っている女子の話や、講義が面白いだのつまらないだの、そんな他愛もないことをずっと話している彼だが、今日は並んで座ったきり、珍しく無口だ。
「あ、次、君の降りる駅だね。」
 ぼんやりしているようだから、声をかける。
「・・・なぁ、イオリ先生って、誰?」
 俯いた顔が、小さく呟く。
「え?」
「イオリ先生って、柊の気になる人?」
 今度は目を合わせて。
「え、・・・なんで?」
「好きなの?」
 どきり、とした。
 好き?千家のことを?
(・・・私が・・・?)
 電車が止まり、ドアが開く。野々村が立ち上がる。
「やっぱりいいや。何でもない。じゃ。」
 ぽかんと見上げる京一郎を、少しだけ哀しそうに見つめると、野々村は足早に電車を降りていった。

  それは俺が、って野々村はいったい何をしていたのだろうか。次回、京一郎が暴走しちゃうの巻。

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