コヒステフ 7 睡蓮過ちて



 今日の華道の稽古は、いつもと時間が違う。
 いつもなら、午後。教室が終わると、夕飯の支度をし始めるのに丁度いいくらいになる時間。
 今日は、千家の別の仕事の関係で午後には教室を開けないため、午前中に変わったのだ。大学はまだ夏休みだから、他の日程に振り返ることをせず、京一郎はいつもどおり教室が始まる前に彼の部屋を訪ねた。
「伊織先生、京一郎です。失礼します。」
 廊下に面した障子戸が閉まっていたが、声を掛けて中へ滑り込む。千家は花や読書に熱中していることが多く、声を掛けても気付かないことがあるから、勝手に入っていいと言われているのだ。
「おは・・・あ、・・・」
 今日も何かに没頭しているのかと思っていたが、千家は着替えているところだった。
 薄い裾除けを身につけてはいるが、肌襦袢を片側の肩に掛けただけで、上半身はほとんど露わ。状況としては、風呂上がりの腰タオルのようなもの。いわゆる下着姿だ。
 立ち尽くす京一郎をゆっくり眺めてから、千家は面白そうに微笑んだ。
「どうした、京一郎。私の膚にでも、見惚れたか。」
「そ、・・・・・・」
 そんなことない、と言い返そうとしたが、事実、その傷ひとつなく白く滑らかな、まるで作り物のような膚に目を奪われたことは否めない。部活で仲間の膚を見る機会などいくらでもあるが、今までこんな風に感じたことはなかった。
 しかし、――。
(・・・あれ?)
 肌襦袢を着た千家は長襦袢を腰で押さえ、紐をかけていく。
 同性とはいえ、着替えを凝視するのは礼を失すると背を向けながら、京一郎は千家の膚に感じた違和感を脳裏に反芻する。
 通常は着物の襟、もしくは彼の長い髪に隠されて見えないところ。彼の白い膚が、小さく赤く腫れているようだった。
「伊織先生、首のところ、どうしたんです?」
 もう長襦袢を着たようだから、振り返って何気なく聞いてみる。
「・・・ん?」
 千家は首を傾げる。が、一瞬だけ眉が動いたのを京一郎は見逃さなかった。
「虫刺され、ですか。」
「さて・・・」
 珍しく歯切れの悪い返事に、なぜか苛っとする。
「見てあげます。」
「おい、」
「ほら、少し動かないで。」
「京一郎、」
「・・・!!!」
 無理に襟元を広げると、首筋の、左耳の下のあたりと、そこからさらに少し下の鎖骨のあたりに、薄ら赤い痣が見えた。
「京一郎、止めないか。お前らしくない。」
 千家が少し怒ったような、困ったような顔で何か言っているが、頭が真っ白になって、よく聞こえない。
「これ、・・・って・・・」
「さぁ、離せ。」
「・・・・・・キス・・・マーク・・・、ですか・・・」
 言ってから、かっと顔が熱くなるのを感じる。それが、慣れないものを見てしまった恥じらいからなのか、先程から感じている苛つきからなのか、京一郎には判らない。千家は黙っている。
「伊織先生・・・、昨日、・・・・・・・・・」
 それ以上のことを、口にすることができない。どんな回答が欲しいのか、自分でも分からない。何を聞きたいのかも、何を言いたいのかも分からなくなって、ひたすら混乱しながら色づいた膚を見つめる。
「・・・ふ。」
 吐息ともつかない微かな声を、探るように見上げると、千家はおもむろに京一郎の顎に手を添えた。そして、たっぷりと妖艶に微笑む。
「・・・それほど、私が昨夜誰といたのか気になるか?」
 至近距離での囁き。いつものように、からかいを含めて。彼は恐らく、否定してぷんぷんと怒る京一郎を期待している。
 けれど、混乱の渦中にある京一郎には、ここで何と答えるべきか思いつくことができない。
「・・・・・・っ」
 そんなことない、と一言言えばいいだけなのに、それを唇が拒否する。何故?誰が?そればかりが頭の中を埋め尽くす。
 今、なんと言えばいい?今取るべき正しい行動は、なにか?誰か教えてくれ。
 襟を掴んだ手を離せないまま、京一郎は縋るように千家を見上げた。
 千家も訝しげに見つめ返す。
「・・・伊織先生――」
 一旦物理的に距離を取ろうと片足を引く。
 しかし、その下には風呂敷が落ちていて、――。
「わっ!!」
 滑らかな布は京一郎の足を掬い取り、咄嗟に支えようとした千家もろとも引き摺り倒す。
「――・・・っ」
 短い呻き声にはっとすると、千家に押し重なっていた。京一郎の手は、仰向けに倒れた彼の襟をしっかり握ったまま。
 倒れた拍子に引いてしまったのだろう、藍色の襦袢は、いつぞやの京一郎どころでなくはだけてしまっている。
「・・・・・・」
 畳には、艶やかな長い髪が乱れて散らばり、京一郎の手で暴いてしまった首元は、よりはっきりと二つの印の存在を主張してくる。
 透き通って紅い瞳が、京一郎を映す。
「・・・・・・駄目だ」
 吐息に交えて呟いたのは、自分か、千家か。
 京一郎は吸い寄せられるように、千家の首筋に唇を寄せた。
「・・・京一郎?」

 触れた膚は思ったより柔らかくて滑らかだ。耳の下の痕の横に唇を這わせて、ゆっくり吸う。
「・・・ぅ」
 千家の喉から、小さく声が漏れる。唇を離すと、白い膚には呆気無く鬱血が出来ていた。
 今まで感じたことのない感情を生じせしめた赤い痕の横に、よりはっきりとした印を付けたことに満足した京一郎はそのまま鎖骨をなぞって、もう一つの横にも、同じように。
「ぁき・・・」
 唇を離して、こちらもより強く残せたことを確認した。
 無意識に微笑みながら千家を見やる。
 少し濡れて艶が増した瞳、乱れた髪、押し開かれはだけた襟元に、今まさに己が付けた所有の印。
 そしてやっと、京一郎は我に帰る。
「・・・!!!」
 これではまるで、着替えを襲って押し倒したようではないか。否、事故とはいえこの状況をつくったのは自分だ。言い逃れできない。
「・・・ぁあの、・・・そ、の・・・ぁ・・・」
 鳩尾のあたりが冷たくなっていく。
 大変なことをしてしまった。つい夢中になってしまったとはいえ、許されることではない。
 なによりもまず、師を馬乗りにしているこの状態をなんとかしなくては。
 千家の身体を縫い止める手を畳に着き、起き上がろうとすると、腕を掴まれた。
「っ?!」
 反射的に首をすくめる。自分から先に触れたというのに、千家から触れられると過剰に反応してしまう。
「・・・まったく。」
 京一郎を膝に乗せたまま、千家は緩慢に上体を起こす。顔が、ぶつかりそうなほど近くなる。
「困ったものだな。」
 挑発するような視線に射抜かれて、紅い瞳から目を逸らせない。色白の指が、怯える京一郎の顎を捉える。
「・・・ぇ・・・?」
「大人に悪戯した、罰だ。」
 掴んだおとがいを少し下向かせて、千家は京一郎の下唇をちろと舐めた。
「!!!」
 逃がさないとばかり後頭部を手繰り寄せ、そのまま塞ぐように唇を合わせて、軽く喰まれる。
 重なりが深くなり、ゆっくり舌が入り込んでくる。心臓がばくばくいって止まらない。身体の筋肉が固まってしまったように動かない。
 初めて触れた千家の唇は柔らかくて、熱い。口の中で彼の舌が動くたびに、水音が身体の中を通って耳を犯す。
「・・・ん」
 薄眼を開けると、千家の前髪の隙間から、首筋に付けた赤い痕が見えた。
 己のした以上に現状が理解できなくなって、京一郎は千家の襟を握りしめる。
「っんく・・・」
 舌を吸われて、体の内側がぞくぞくする。
 口付けの感触だけでなく、髪の間に差し込まれた手のひらから、顎を捉える指先から感じる熱も、京一郎から思考を奪うに十分で、・・・。
「ぅぁ」
 そろ、と音を立てて一旦唇を離した千家は、京一郎の下唇の表面を掻きとるように柔く噛んだ。
「いぉぃせんせぃ」
 唇を噛まれたまま舌足らずに呼んで、ぼんやりと見つめる。千家の紅い瞳は、なにか怒っているようでもあり、哀しみを湛えているようにも見えた。

 千家は少しの間、そのまま至近距離で京一郎を見つめていたが、髪をくしゃりと撫でると唇を離した。
「さぁ。そろそろ支度をしなければ。」
 京一郎が上から降りると、千家は立ち上がって一度紐を解き、手早く長襦袢を整える。京一郎が見つけた痕も、刻んだ印も、襟に隠れて見えなくなる。
「京一郎。」
 呆然として座り込んでいた京一郎は、千家を見上げる。
「お前は、もう帰れ。」
「・・・え・・・」
 一度屈んで京一郎の濡れた唇を指で拭うと、千家はそれ以上、何も言わない。
 置時計を確認し、部屋を出て行ってしまう。
 ひとりぽつねんと取り残された京一郎は、のろのろと立ち上がった。

  あー。。やっちまったね。。。 まあ、リバーシブル(?)ではないのでご安心召されたく。

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