コヒステフ 8 リナリア!
緩やかな坂道を茫然として歩く。
確かに、あのままの状態で教室に行っていたら、敏い奥様方に何を勘繰られたか分からない。
しかし、いったい千家の意図は何だったのか。
(・・・いや、それ以前にまず、なぜ自分があんなことをしたのかを、考えなくてはいけない。)
それにしても、彼には恋人がいなかったはずでは。
(だから!それよりもまずなぜ私はあんな――)
恋人がいないというなら、あれは誰が――?
(・・・遊び相手、・・・。)
不思議な縁で知り合った陰陽師は、そのあたりをきちっとしない主義のようだった。
(でも、伊織先生がそんな・・・)
陰陽師の彼を否定するわけではない。その生業ゆえに苛まれる絶望の中、行きずりの関係に癒しを求めることが罪なのか、と聞かれて、京一郎は答えることができなかったのだから。
だが、千家が仮にそうだったとして、そもそも今回仕掛けたのは京一郎の方だ。なぜ、あんなことをしてしまったのか。そして、悪戯した罰だと言って、なぜ千家はあんな・・・。
(・・・思考が堂々巡りだ・・・。)
気付くと、純喫茶 聖樹の前に来ていた。
「よぅ、京一郎。・・・なんだ、元気ないな。」
「はぁ、や、まぁ・・・・・・。」
この時間帯はそこそこ客が入るので、いつもなら気を遣ってカウンターに座るのだが、なんとなくそんな気になれず、二人掛けのテーブルに座る。
「大丈夫か、お前。」
「うん、ありがとう。エスプレッソ、ダブルで。」
心配そうに注文を取りに来たワカは、いつもと真逆のオーダーに、さらに表情を曇らせた。カウンターのミサキへ向かって、こりゃダメだ、とジェスチャーする。
二人はしばらく様子を見ていたが、ランチ客が概ねはけると、ワカはミサキの作ったまかないを持って京一郎の向かいに座った。
「ほら、マスタァから。」
「あ・・・え?あ!」
「慌てて食べて、こぼすなよ?」
「うん・・・あとでお礼言わないと。」
カウンターを見やると、ミサキは食事を終えた馴染み客と談笑していた。
「お前、なんか今日いつもと違うけど、なにかあったのか?」
ワカが、チキンカツ煮丼を口にかき込みながら、目線だけこちらに遣ってくる。あまり深刻な聞き方をしないよう、配慮してくれているのだろう。
「いや・・・」
「悩み事があるなら、聞くぜ。俺みたいな奴が役に立てるかは分からんけどな。」
「・・・ありがとう。」
そこでやっと、京一郎は微笑むことができた。
「ワカくんあのさ、」
「うん。」
「・・・キス、したこと、ある?」
「――!!」
唐突な問いに、ワカは喉を詰まらせる。
「あ、大丈夫!?」
胸をどんどん叩き、水を何度も飲んで、やっと体は落ち着いたようだ。が、まだ真っ赤な顔で、声を潜めて復唱する。
「・・・き、キスぅ?」
「うん、・・・ワカくんは年上だから、経験とかあるかなぁ、と思って。」
京一郎が素直に言うと、ワカは目を逸らしながら、小声で返す。
「そんなの、マスタァの方が豊富そうじゃねぇか。遊んでそうだし。」
「そう、・・・なんだけど、なんか聞きづらいし、だから・・・」
京一郎に頼られて優越感を覚えたのか、ワカは少し得意げになり、自信たっぷりに宣言する。
「あぁ、経験ならあるぜ。」
「やっぱり!・・・あのさ、それって、好きじゃない人とでも、できると思う?」
「・・・え?」
「だから、普通は好きな人同士でするものだと思うけど、好きじゃない人にもできるものなのかな、って。」
「そりゃあ、ドラマとかのキスシーンは、ホントに好き合ってるわけじゃないだろ。」
「仕事じゃなくて、日常生活の中のハナシ。」
「はぁ?・・・普通はないだろ。理由がわからん。」
「だよね・・・」
「・・・お前まさか、その気もない相手と・・・」
「ちが違う!」
「・・・ならなんで、そんなこと聞くんだ?」
「いや、なんとなく・・・」
そこで会話は途切れた。
「おいワカー!まかない食ったら片付けろー!」
ミサキに呼ばれ厨房へ戻るワカに、京一郎も食器を持って続く。まかないを分けてもらったときは、せめてものお礼として洗い物を手伝っているのだ。
「・・・なぁ、京一郎・・・」
京一郎が洗剤で洗った食器をすすぎながら、ワカは躊躇いがちに口を開いた。
「俺で・・・、試してみるか・・・?」
「なにを?」
「その気がなくても、キス、・・・できるか。」
「・・・え・・・?」
ワカは濡れた手をエプロンで拭くと、そっと京一郎の顎に触れて、上向かせた。
「いや、ワカくん、」
なにをするつもりだ。いや、それは分かっているけれどこんなことして、・・・でも、やってみて、分かることもあるかも知れない――。
「京一郎、目、閉じろ。」
京一郎を見つめるワカの大きな目が、すっと細められた。
「あの・・・」
千家の涼やかな美貌とはまた異なって男前なワカの顔。距離が、だんだん縮まってゆく。
顎に添えたワカの手が、少し強張った。
反射的に目を瞑る。
息が、唇に当たった。
(――ダメだ。)
「ごめん、ワカくん。」
顎を持つ指を、そっと除ける。
「やっぱり、こういうことはすべきじゃない、・・・と思う。って私が言い出したことなんだけど、・・・気を遣ってくれて、ありがとう。・・・ごめん。」
こちらを見る表情からは、なにも読み取れない。
ワカは少しの沈黙の後、「そうかよ」と呟くと、後ろを向いて皿を拭き始めた。
「おいバイト。お客にいつまで仕事させてんだ。」
ミサキの声にはっとして、慌てて厨房を出る。
「すみません、お邪魔してました!」
「お前ェは謝らなくていいんだよ。・・・おい、京一郎どうした。泣きそうだぜ。コーヒー牛乳、飲んでくか?」
肩をそっと掴まれる。
泣きそう?そんなはずはない。なぜなら、理由がない。
「いえ、大丈夫です。まかない、ご馳走様でした。」
店を出て、ゆっくり息を吐く。
ひとりでじっくり考えられる場所に行きたいと思った。
(・・・図書館に行こう。)
自宅近くのキャンパスの図書館に着き、席に荷物を置くと、引き寄せられるように古典文学の棚へ足が向いた。
この間千家が眺めていた百人一首は、中高の古典の授業でも一部教わった気がするのだが、ほとんど内容を覚えていない。
千家の「お前には刺激が強い」という言葉が不意に耳に蘇った。
歌集を開くと、忍ぶ恋の歌や後朝を歌ったものまで、確かに艶のある内容が散りばめられており、ミサキからおぼこいなどと言われてしまう自分なら、苦手だと思われても仕方がないのかな、と思った。
明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな
もし千家が誰かと恋をしているのだとしたら、こんな感じなのだろうか。
今朝見つけてしまった印が、脳裏に焼きついて離れない。胸がずきりと痛んだ。
なぜ痛むのか。考えてはいけないはずなのに、思考は原因究明を止めようとしない。
あのときの自分の行動について、今更ながら理解する。あの印の意味は、己こそが所有者であるという主張。あれを見て、条件反射的に厭だと思った。許せない、と。
それで、先にあったそれより新しく、より濃く痕を残すことで、京一郎も我こそはと名乗りを挙げたのだ。
彼を誰かに渡してなるものかと、意識下でそう強く思った結果、あんな行動に出てしまった。
理屈では語れない。これを何と名付けるべきか。もはや、疑いようがない。
「・・・はぁ」
溜息をつきながら、机に伏して座る。今日は個別ブースが埋まっているので、大机。
突っ伏した腕の間から、隣の席の人の腕が見える。きっと今日も、同じ人だ。ここのキャンパスで大机に座ると、大抵彼が居る。席の選び方の基準がかなり近いのだろう。いつか席取りで衝突しないか少し心配だ。
自堕落な姿勢で、和歌集を捲る。
忍ぶれど色に出にけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで
(ワカくんは、気づいてしまったのだろうか。)
悩みがあるのではと言い当てられた。
彼とキスすることは、できなかった。
――イオリ先生って、だれ。
――好きなの?
野々村も、多分薄ら気づいていたのだろう。
(・・・私は伊織先生のことが・・・。)
まさか、男性を想うことになるなんて、考えたこともなかった。
でも、もう。
彼のことを考えると、こんなに胸が締め付けられるようになってしまった。
このところ気持ちが浮き立つ。何をするにしても楽しい。それはきっと、週に一度の期待があるから。
初めは純粋に、今まで触れたことのない体験をしてみたいと思っていた。
そして教室に通ううち、彼の不思議な魅力に惹かれ、その教養の深さに憧れた。
師と弟の関係を出ないが、他の生徒よりも近い距離を許されていることへのほのかな喜び、優越感。彼の周りの空気。そしてたまに、気まぐれで触れてくる指の感触、滑らかな髪の毛先。
どれもが心地良く、最も失いたくないもの。
そこに、京一郎よりもっと近くに、その居場所を持つ者が居るとしたら。そのような人物の存在の正否など分からないが、想像するだけで、まるで今まであると信じていた場所が本当は無かったのだと言われたような気になってしまう。
今日、勢い余って千家にキスしてしまった。
彼は、驚いていたようだったけれど、拒まれはしなかった。どころか、さらに濃厚な口付けを与えられた。その意味するところは。それがなぜ罰なのか。彼の気持ちが分からない。
また、京一郎より先に、彼に印をつけた人物は一体誰なのか。女か、・・・男か。
千家はやはり、その人物を想っているのか。
(でもあのとき、私は伊織先生にキスされて、嬉しいと思った・・・。)
あんなキスは初めてだった。びっくりして、少し怖くなって、でも、あんなに近い距離で千家に触れられて唇を貪られることに、言いようのない歓びを感じて、恍惚とした。
また何か悪戯をしたら、罰としてあの口付けを与えてくれるのだろうか。
(・・・なんて。私は馬鹿か。ただの戯れかもしれないのに。私なんかに、心は向いていないかもしれないのに・・・。)
風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな
・・・考えたところで、千家の心など分かりもしない。まだ別れて半日も経たないというのに、今すぐにでも会いたい。
でも、こんな風になってしまって、これから一体どういう風に彼と接すればいいのだろう。いまの、自分と彼の関係性を、なんと呼べばいい?師弟ではあるけれど、友人ではなく、かといって恋人でもない。
共感を求めて、和歌集を捲る。
後朝の別れの辛さ。ついに来なかった恋人を待つ寂しさ。将来気持ちが冷めてしまうなら今死んでしまいたいと言い切る激しい恋心。
これまでは記憶にも残らなかったこれら歌人たちの感情が、今、理解できると思えるようになったのも、きっと自分が恋をしているから。しかし、高校の頃とは違って、その相手は師でありしかも同性。
由良の門を渡る舟人梶を絶え行方も知らぬ恋の道かな
曽禰好忠の歌が心を刺す。
千家はいったいどのような思いで百人一首を眺めていたのだろう。
(伊織先生は、また部屋に伺うことを許してくれるだろうか。)
今日のことは、なかったことにしてもいい。だから今は、やっとこの気持ちに気付いたばかりの今はまだ、拒絶しないでほしい。
・・・真実に、あるいは絶望させられるまでは。
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◇蛇足的管理人の和歌補足◇
あくまでこんなイメージってことで!文法的に正しい訳は、モノの本をご覧になってくださいまし。
・明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな(藤原道信朝臣)
夜が明けても、また日が暮れるとわかってはいるけれど、あなたと別れなければならない明け方が恨めしく思われることよ。
・忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで(平兼盛)
私の恋心は心の中だけに隠していたつもりなのに、なにか物思いしているのかと人から聞かれてしまうほど、溢れ出てしまっているようだ。
・風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな(源重之)
風がひどいので波が岩に当たって砕け散るように、このところ私ばかりが、あなたのことを壊れそうなほど想って心悩ませているのです。
・由良の門を渡る舟人梶を絶え行方も知らぬ恋の道かな(曽禰好忠)
まるで由良の海峡を渡ろうとする舟人が櫂を失って流されてゆくように、ゆらゆらと漂って、私の恋の道はいったいどこへ行きつくのか分からない。
百人一首、ベタと思いきや、意外と良くないですか?ちなみに管理人は万葉集も好きです。