One more time, One more chance 千家 10 胸懐


 なんだこの女は。
 気味が悪くなって、私は身構えた。
「ね、想いが叶わないなら、・・・私じゃ駄目?」
 この人間は何を言っている。
 違和感が次第に不快感へ変わっていく。
「私達、似た者同士だと思うんだ。伊織が私を見てくれたらうまくいく、絶対。だから、ねぇ、・・・もう一度、やり直せないかな。」
 何故いま私は京一郎と居ない?
 何故こんな話を、他人としていなければならないのだ。
「ね、伊織。」
「やめてくれないか、その呼び方。」
 どちらかといえばこの伊織という名は嫌いではない。京一郎の呼ぶ声など特に小気味好く、この名をより良く聞かせるものだが、何故だろう、この女に呼ばれると、不快に膚が粟立つような気さえするのだ。
「姉の言うように過去の私の振る舞いには多少難があったかもしれない。しかしだからといって、私が君に特別な感情を抱くことはない。」
 比較的はっきり断ったつもりだった。が、熱っぽい瞳で私を見つめる彼女には届かなかったようだ。
 Nは子供を見るように、微笑んだ。
「でも、今はあの頃とは違うでしょう。貴方がまだ私を見ていなくても、私はあの時よりもっと余裕を持って貴方の側に居られる。貴方もきっと、私と居たいって思えるようになるよ。」
 彼女から私へ向けられる一方的な好意は、一般的に美人の部類に入ると思われるその顔をしてまるで死霊の微笑のごとく、不気味なものに見せしめた。
 この女はなんだ。
 なぜ今頃になって、私の前に現れる?
・・・京一郎、会いたい。不快に乱された私の心を、その無垢さで洗い清めてほしい。京一郎・・・。
「私は君と交際できない。今後会うつもりもない。悪いが、帰ってくれないか。」
 幾許かの勝算があって私の元に現れたのだろうNは、目を見開いて顔を強張らせた。
「・・・・・・・・・。でも私は・・・、」
 そう言ったきり、握りしめた手を見つめている。
 目の前で愛を求める女性を膠無くあしらう己は、俗に酷い男だと言われるのだろうが、私には何の感慨も湧かない。どころか、彼女を拒絶することは正当防衛だとすら思える。
 常であれば、しつこい女に迫られたところで特段不快に感じることもなく、のらりくらりと躱しているところなのだが、どうやら今日の私は調子が優れないようだ。
 早くどこかへ行って欲しい。このまま彼女を置いて去るのは流石に忍びない。まだそう思える程度の情けが私に残っているうちに、早く。
「ねぇ、伊織・・・くん、どうしても、無理・・・なの・・・?」
 締め付けるような頭痛を感じる。
 京一郎・・・・・・。
「私が求めるのは、君ではない。繰り返すが、君とは今後一切、会わない。」
 もう少し柔らかい言い方でも良かったかもしれない。
 ここまでの強い拒絶は性急に過ぎたかと後悔しかけたが、やっとこちらの意思が伝わったようで、それまでどこか強気だったNは目を逸らし、口元を手で押さえた。
「・・・・・・っ。そ・・・か、・・・私、強引だったね。ごめん・・・。・・・じゃぁ。」
 こちらに顔を見せたくないのか、彼女は俯いたまま走るように去っていった。
 テーブルの上の伝票を持って行かれてしまった。彼女が勝手に私の茶を飲んだわけではあるが、奢られたようでどこか気分が悪い。しかし追う気にもならず、私はウェイターに声をかけて片付けさせた。こんな日はさっさと帰って寝てしまいたいが、今日の仕事は夜からだ。それまでの間、家に居ると余計なことを考えてしまいそうな気がして、私はまだここに居ることにした。

 先程までの不快な出来事を忘れるべく、席を移動する。深く椅子に掛け、ゆっくり息を吐く。
 どっと疲れが出て来た。
 こちらの席は窓際だが、空はどんよりとしていてあまり明るくない。本を開く気にもならず、私はうっそりと外を眺めていた。
 頼み直した飲み物が給仕される頃には、ぽつりぽつりと雨が降り出してきた。
 この調子では、京一郎は来ないかもしれない。いや、そもそも今日は来るはずもない日なのだ。
 けれど、会いたい。
 声を聴きたい。
 私が彼を求めるこの感情が、本当に”この”私のものでないのだとしても、いまは。
 京一郎を求め、京一郎によって得られるこのささやかな幸福に、身を委ねたい。
 京一郎・・・・・・。

「伊織さん。」

 柔らかい声が降る。

「急に振ってきたから、濡れちゃいました。」

 幻聴かと思った。

 今日、傘持ってなくて、と苦笑しながら、京一郎は向かいの席に掛けた。
・・・本当に、来た。
 京一郎。
「伊織さん?」
 呼びたい。お前の名を。
 ずっとお前に会いたかったと言ったら、どんな顔をするのだろう。
「どうしたんです?なんだか、顔色、悪いですよ。」
「・・・・・・いや。」
 来てくれて嬉しい。
 素直に言えないこの性格が、今日は何時に増して鬱陶しく感じる。
 顔を見るだけで、掻き乱された感情がこれほど優しく温められるなど、お前は知るまい。
「この時期は折畳み傘を持ち歩けと、以前言っただろう。」
 手拭いを出して、濡れた髪を拭いてやる。
「自分でできますって。」
 京一郎は両手を上げて、私が被せた手拭いを受け取ろうとした。
 指先が触れ合う。
「あ、すみませ――」
 離れようとする指を咄嗟に捕まえた。こちらの指を絡めて、引き寄せる。
「ぇ・・・伊織さん、ぁの・・・」
 戸惑ったように京一郎は私を見つめる。
 このまま抱き締めたい。
 首元に顔を埋めたい。
 何も言わず、口付けたい。
「伊織、さん・・・?」
 こちらを見上げる顔が少しずつ紅潮してゆく。
 離したくない。
・・・が、赦されるのはせいぜいこの辺りまでだろう。
 私は京一郎の指を解放し、先日姉にされたように、額を指先で小突いた。
 いた、と片目を瞑って、しかしまだ惚けた顔をしているから、笑った。
「なんなんですか、もう・・・」
 額をさすりながら恨めしそうに睨む顔ですら愛おしい。
 大学で部活動をしていると言っていたが、仲間の間でもこんな無防備な表情を晒してみせているのだろうか。
 そういえば結局、坂の途中でキスしてきたあの娘とはどうなったのだろう。
「お前・・・いつもこうして来ているが、彼女から文句など言われないのか。」
 文庫本を開きながらなんとなしに聞くと、きょとんとされた。
「恋人は居ません。」
「この間のポニーテールの――」
「だから、違います。」
 京一郎はむっとして、語気を強めた。それほど理想とかけ離れた相手だったのだろうか。
「随分とご機嫌斜めだな。」
「貴方が変なこと言うから。」
「ふぅん。」
 しかしこれほどまで強く否定したのは何故だ。
 恋人が居ると思われるのが不本意であると?
 己にはそういう相手が居ないと、無意識下に主張したいということか?
・・・まさかな。
「お前はそんなに、私が恋しいか。」
 冗談めかして言ってみる。
「そ!・・・んな、」
 京一郎は顔を赤くして目を見開いた。
 なんだその反応は。
「・・・・・・変な言い方をしないでください。」
「変?」
「だからその、恋しいとか、なんだか恋人みたいな言い方、変でしょう。私は貴方の友人なのであって、そういうんじゃないんですから。だいたい、男ですよ私は。」
「ふぅん?」
 まあ、そのとおりだ。だが、何やら慌てている様子が面白い。もう少し揶揄ってやりたくなり、私は京一郎に顔を近づけ、囁いた。
「そういえばいつぞやは、突然お前に口付けられたことがあったが」
「わああ!」
 京一郎は私の声を遮るように声を上げ、周囲を見回した。
「何を言うんですか、いきなり。」
 明らかに焦っている。楽しい。
 では、もう一押し。
「てっきり、お前は私のことが好きなのかと思ったぞ。」
 何言ってるんですか、とか、やめてくださいよ、とか、ばたばたと狼狽するのを期待していたのだが。
 京一郎は、目を皿のようにして押し黙った。
「・・・・・・ぇ、ぇぇ?」
 弱弱しい声で、苦笑する。
 これは思っていたのと違う反応で、私は一瞬パンドラの箱でも開けたのではないかという気がした。
 しかし、雨に濡れて体が冷えたせいか、ただ単に京一郎は腹を壊しただけのようだった。彼がすっきりした顔で洗面所から出てくるまで、私は、次に会う際は腹痛薬でも持ってきてやろうかなど、うっそり考えていた。
 いつの間にか、雨は上がっていた。

  赤玉はら薬は、学生時代にバイト先でお腹壊したとき店長から分けていただいて以来、割とよく使ってます。

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