One more time, One more chance 千家 9 懸隔


 その日の帰り際、濃い紫の桔梗を京一郎の胸元に挿した。
「綺麗ですね。」
「この花はアレンジメントよりも所謂生け花の方で使うことの方が多いな。」
 ポケットから花を取り出してじっと見つめ、京一郎は微笑んだ。
「伊織さんみたいですね。」
「・・・何のことだ。」
「この、桔梗の花。凛としていて、優美で。どこか、貴方が微笑んだ感じに似て――」
 確かに容姿が悪い方ではないと言う自覚はある。が、おべっかでなくこうも素直に褒められると多少照れる。
「私も随分と高く評価されたものだな。」
 素直に嬉しいと言えないのは、悪い癖だ。
「・・・っいつも!ご馳走になってますから、それにお花だっていただいていますし。だから、・・・その、・・・この賛辞は私なりのお返しです。」
 他意はないですから、と、京一郎はそっぽを向いた。
「誉と受け取ろう。」
 もう一本、蕾の付いたものをポケットに挿してやると、そういえば、と顔を上げた。
「どうして、いつも胸に挿してくれるんです?」
 知らないだろうとは思ったが、やはり気付かれていなかったことに私は内心安堵する。なぜなら、花束から一本花を抜き出して相手の胸ポケットに挿す行為には、状況を限れば特別な意味があるからだ。
 もちろん、この花束は私が準備したものだし、さすがにそこまで深く考えてはいない。が、京一郎が私に与えた機会――もう一度彼と結んだ関係は、私にとり控え目に言って重要事項であり、それを毎度思い出すためにも、私は彼の胸に花を挿す。逃げ切ろうとした私を掴んで離さなかった京一郎への、謝意も込めて。
「・・・特段、理由はない。」
 そうなんですか、と京一郎は首を傾げた。
「伊織さんがお花を入れてくれるから、なんとなくいつもポケットのある服を着ていますけど、・・・もし私が胸ポケットの無い服を着てきたらどうするんです?」
「その時は髪にでも飾ってやろう。」
 私は京一郎の顔の横の髪を指先で掬う。
「厭ですよ、女性じゃないんですし。」
 京一郎は頬を染めて、唇を尖らした。

「伊織、彼女できた?」
 ある日突然姉の口から出てきた言葉に、私は眉を顰めた。
「・・・何?」
「この間貴方に行ってもらった会合に、Nちゃんも来てたのよ。そしたら、・・・って、ねえ、Nちゃん、分かるよね?」
 誰だそれは。
 姉は呆れたように私を見て、大袈裟に溜息をついた。
「・・・貴方ね、確かにかなり前のことではあるけど、彼女だった子の名前、普通忘れる?」
「彼女・・・」
 遠い昔の記憶を辿ると、確かに交際していた女がいたこともあった気がする。が、期間もそう長くなかったし、正直興味がなかったから、ほとんど忘却の彼方だ。確か、アレンジメントはやめて造園をやるとか言っていた女性だったか。
「はぁ・・・Nちゃんも、伊織くんは私のこと覚えてないと思うけど、って言ってたわ。そんなことないって言ったんだけどね・・・なくなかったか・・・」
「それが何だ。」
「この間、お店でばったり会ったのよ。そしたら貴方を久しぶりに見た、なんだか恋してるみたいだったって言うから。」
 その言葉に、私は僅かばかり内心動揺した。
 思い当たらないことはない。該当があるとするならば、京一郎ゆえだ。
 しかし、万一、私が彼に対し恋心を抱いているとすると、何やら後ろめたいような感覚が拭えない。なにせ、ひとまわり近くも年少である上に同性で、しかも京一郎に対する感情は、そもそも私の中で自然に生まれたものではなく、"あの"千家伊織の記憶が多分に影響している。これが純粋に己の中で育った想いなのだと自信を持って言うことは、私にはできない。そのような曖昧で無責任な感情を、恋だなどと呼ぶことができようか。
「恋?私が?・・・はっ。なにを根拠に。」
 白々しく笑って見せると、冷たい視線を向けられた。
「ねぇ・・・あの子と付き合っていたときもそんな態度だったの?貴方と居るとき、あの子がどれだけいじらしく貴方の気を引こうとしていたか知ってた?」
 気を引こうとしていたのか。そもそもあの頃は特に忙しかったから、あまり二人で過ごした時間もなかったように思う。彼女と居るとき己がどのような気分だったか、彼女はどんな顔をしていたか、よく思い出せない。
 京一郎のことであれば、私が読書しているときにこっそりこちらを見ていたり、目が合うと慌てて逸らしたり、花をやると嬉しそうに、しかし控え目に喜んだりするのが楽しくて、いくらでも思い出せるというのに。
「どうして別れることになったか、覚えていないでしょう。」
 知らない。交際が解消されても何の感慨もなかった。
「貴方があの子を見ていなかったから。余所見してたからよ。・・・ねぇ、今の彼女には、もうあんな思いさせないであげてよね?」
 随分とNに同情しているようだ。そういえば、そもそも彼女が私に接触して来たのも、姉経由だったか。
「恋人は居ない。彼女の考え違いだろう。」
「だとしても。貴方が最近よく誰かと会ってるのは知ってるのよ。ちゃんと、その子だけ見なさい。同じ女子として、これ以上貴方に泣かされる子が増えるのは見過ごせないんだから。」
 なにが女子だ。三十路で子持ちのくせに。
 それにこれ以上とはなんだ。人をまるでプレイボーイのように、人聞きの悪い。
「いおの、そういうとこ!」
 私は何も言っていないのだが。
 姉は背伸びして私の額を突き、姪を叱る時のように、めっ、と顰め面をして去っていった。

 それからまた別の日、いつもの喫茶店で詩集を眺めていると、向かいに誰かが座った。
 京一郎かと思い顔を上げたが、違った。
「久しぶり。私のこと、覚えてる?」
 ショートカットの女性が、人懐こそうな笑顔を浮かべる。
 誰だ。
 これほど親しげにするような間柄の女性は、家族以外にない。
 たまに聞く詐欺か何かか、と考えたところで思い当たった。確か彼女がNだ。髪が短くなっていたから、気付くのに時間がかかった。といっても、予め姉から彼女の話をされていなければ、記憶を掘り起こすのにもっと時間を要したことだろう。
「・・・久しぶり。元気そうだな。」
「勝手に座ってごめん、誰かと待ち合わせてた?」
 今日は京一郎が決まって現れる日ではない。だから、彼が来るかはわからない。
「いや。何か用か?」
 Nは相変わらずだね、と笑った。
「用がないと会いに来ちゃダメ?・・・まぁ、あの頃は用があってもあまり会ってくれなかったけど。」
 そうだったろうか。
 こうして何年かぶりに向かい合ってみても、懐かしさや気まずさが湧いて来ることはない。当然、恋情もない。
 ただ、違和感だけがある。なぜそこに居るのが京一郎ではないのだろう、という。
 我ながら、冷たい男だと思う。
「あの頃は君につれなくしていたのだと、先日姉が思い出したように叱ってきたよ。」
「あはっ。」
 Nは楽しそうに笑った。
「まあ、つれなかったよね。」
 そうだったのか。意識的にそうしていたつもりはなかったのだが。
「でも、そういう、女だからって愛想振りまいたりしないところが、私は好きだった。」
「私は誰にでも、愛想を振りまいていたつもりだが。」
「媚びるなら性別関係なく、ってとこが良かったの。」
 Nは私の飲みさしのカップを勝手に持ち上げて、飲んでいい?と聞いた。こちらが答えるのを待たず、彼女は勝手に口を付けた。
 どういうつもりだ。
 京一郎とすら、同じ器の飲み物を分け合ったことなどないというのに。
「伊織、さ。」
「・・・・・・」
 険を含ませた視線にも怯むことなく、彼女は私をじっと見据えた。
「好きな人、いるの?」
 何故私はこんな女と向かい合っているのだろう。
 何故今日、京一郎は来ない?
 違和感が増してゆく。
 ああ、この感覚、覚えがある。
 どうして私の側にいるのは彼でないのだろうと、昔Nと居た時に、絶えず感じていた。あの頃はまだ、京一郎の実存を知らなかったから、漠然とした感覚でしかなかったのだが。
 私は結局、女と居ても求めていたのは京一郎であったのだと、今更ながら思い知る。
「・・・答えなくても分かるよ。だって、ずっと見てたもの。貴方、私と居た時と全然違う顔してる。」
 Nは暗い顔で微笑んだ。
「でも、その人と付き合うことはできないでいる、ってとこかな?」

  とんでもない奴が出てきましたが、お怒りにならずどうか次回もお付き合いくださいませ。m(_ _)m

NEXT NOVEL PREVIOUS