One more time, One more chance 千家 11 仮相


「なんか、ごめんね。」
 母の教室が終わり、片付けを手伝っていると、横で卓を拭きながら姉がぼそぼそと呟いた。
「何のことだ。」
「あの、・・・Nちゃんのこと。」
 言いづらそうに彼女は口籠もった。
 思い出したくない名だ。不愉快な記憶が蘇る。
 そっと私の顔を覗き込み、姉は見るからに気まずそうな顔をした。私はまだ不快を顔に出したつもりはないのだが。
「まさかまだ貴方に気があるとは思ってなくて。・・・ごめん。」
 成る程、あの店に居ると彼女に伝えたのは姉だったということか。あの後、Nと話でもしたのだろう。それで事の成り行きを知り、こうも凹んでいるらしい。
「いいさ、こちらにその気がないことを改めて知らせる事が出来た。」
 肩を竦めてみせると、姉は、そっか、と小さく言った。
「・・・あのね、Nちゃん、海外行くんだって。」
「ふぅん。」
「貴方、仕事はいま基本フリーじゃない。それに外国語得意だし、だから、一緒に来てくれるんじゃないかって思ってたみたい。」
 ほう。私を通訳にでも使う気だったか。
「違うの、彼女も向こうの言葉くらい話せるみたいよ。新しい環境で、もう一度関係を作り直せるんじゃないかって思ってた・・・って。」
「昔のことを除いても、長年音信の無かった私にそれほど期待していたとは、俄かには信じられんな。」
 つれなかった、己に愛情を向けなかった人間が、隔絶のうちに都合良く変わると思うものだろうか。
 姉は、そうよね、と溜息を吐いた。
「ちょっと思い込んじゃうタイプなのかもね。でも、それだけ貴方を想っていたんじゃないかなぁ。」
 己がどれほど相手を想っていたところで、相手が同じように己を想うわけがない。
 彼女がいつからそのような妄想に囚われ始めたのか知らないが、私の方はほんの一週間前まで、彼女の名ですら思い出すことがなかったというのに。
 そして同じことは、私自身にも言えるのだ。
 いくら毎週会っているからといって、私のように彼は私を求めない。彼は"あの"彼の記憶を持たないし、"あの"私のことも知らない。知りたいとは思っていても、たとえ私が語ってみせたところで、或いは記憶を取り戻させたところで、私と同じように彼は私を求めない。
 何故なら私は、拒絶したのだから。
"あの"京一郎の求めを無視し、記憶に囚われるなと伝えた。
 けれど私は、"あの"私の京一郎を呼ぶ心地良さに浸かっている。
 私は"あの"二人を引き合わせず、にもかかわらず私でない私の記憶をなぞって、京一郎を想う。
 こんな偽りの感情を、恋とは呼ばない。
 加えて少なくともあれは色々と疎いようだから、こちらから何か具体的にしない限りは気づかれる心配もないとも踏んでいる。安心して、存在しない片想いとやらを楽しんでいるというわけだ。
――私と貴方は似た者同士だと思う
 Nの言葉が不意に耳に蘇る。
 まさか私の目線の先にいるのが京一郎であるとは知らないだろうが、あの言葉はまさにこの状況を言い当てていると言えないこともない。
 私は背筋に悪寒が走るような気がして、姉に言った。
「彼女がストーカーになるような可能性はあると思うか?」
 私の、ではない。私が誰を見ているか知ったとき、あの女がおかしなことをするような人間であるかどうか、私は知らない。あの女の為人を、私は知らないのだ。
「流石に渡航前だし、そんな暇は無いと思うけど・・・。」
 姉の言うとおりだ。馬鹿なことを聞いた。
「貴方の、って意味じゃないんだよね?いおはいま遠距離だって言っておくよ。相手が近くに居ないって知ったら、何もしようがないでしょう?」
 話が早すぎる。何でも見通されるのはなにやら悔しいが、姉には頭が上がらない。
「助かる。」
「これで手打ちってことで。」
 くすりと笑いながら、だから、と彼女は付け加えた。
「早目に紹介してよね、いおの彼女。」

 数日後、母からプラネタリウムの入場券を2枚渡された。姉から預かったとのことで、元々姪を連れて行くつもりで予約したのだが、同日に彼女の同級生の誕生会へ招かれてしまったとのことだ。そちらを優先せねばならないため、代わりに私に行って来いということらしい。
 先約があると言って断ればいいと思うのだが、母親同士の付き合いもあり、そう簡単な話ではないそうだ。女とは面倒なのだな、と呟くと、母は、父と義兄と私は、そこをもっとよく理解すべきなのだ、と言った。
「その日は予定ないんでしょう?誰と行くの?」
 ついでのように聞いてきた母の声色に探る様子はない。
「誰とも行かない。知人にでも譲るよ。」
「そう。」
 あっさり引き下がったところを見ると、姉はまだ、余計なことを吹聴してはいないようだった。

 数日して、私は京一郎に予約されている日の都合を聞いた。
「プラネタリウム、ですか。・・・星、好きです、行きたいです!」
 あまりに嬉しそうに笑うので、たまには姉も気の利くことをすると思った。
「でも・・・、急にどうしたんです?」
 にこにこしながら京一郎は続ける。
「いえ、伊織さんが星に興味があるなんて知らなかったから・・・」
「都合が悪くなったらしい。」
「え・・・・・・?」
 不思議そうに首を傾げていた京一郎の表情が固まった。何かおかしなことを言っただろうかと思っていると、みるみるうちに曇ってゆく。
「ぁ・・・彼女、・・・さんと、行く予定、だったんですか・・・?」
 何を言っている。
 しかも、”彼女”という単語はここ最近最も聞きたくない言葉であるものだから、つい、声に険がまざってしまう。
「恋人ではない、子供だ。」
「・・・こ、・・・・・・ども・・・・・・」
 京一郎はまるで死霊でも見たような表情で黙り込んだ。
「・・・・・・おい」
 声を掛けると、びくりと肩を震わせる。様子がおかしい。
 私が口を開くのを遮るように、京一郎は表情なく言った。
「結婚、されてたんですね。伊織さん指輪してないから、知らなかった。」
「何を言っているのだ。」
 何故そうなる?
・・・あぁ、そうか。どうやら彼は子供と言ったのを、私自身の子だと勘違いしているようだ。
 しかし驚くようなことだろうか。私の年代なら、子持ちもそれほど珍しいことではない。
 面倒だがこの間撮った姉家族の写真でも見せてやるか。
 私はスマホを取り出し、写真を表示しようとした。が、最近変えたばかりなので、いまいちどこに写真が格納されているのか分からない。
 つい舌を打ちながら、色々と弄っていると、それらしいものが表示された。といっても写真は先日義兄がうちに来た際、姪からせがまれて撮った一枚しかないのだが。
「ほら。」
 見せてやると、京一郎は顔を強張らせたまま覗き込んだ。まるで、泣いているような顔をしている。
 何なのだ、いったい。
「・・・・・・可愛い、ですね。」
 本心ではないな、それは。
 叔父馬鹿と言われるかもしれないが、姪の見てくれはそれほど悪くないと思っているのだが・・・。いや、京一郎の性格を考えれば、ここはおべっかでも笑顔で褒めているところだろう。となると、いったい彼は何を考えている・・・?
「言っておくが私の子供ではないぞ。」
 私の言葉に、京一郎はあからさまに気まずそうな顔をした。
 そこで何故気まずくなる。
・・・こいつ、まさか。
 私は彼の顎を強く掴み、上向かせた。
 逸らそうとする目を正面から見据える。
 京一郎は喉を鳴らすように小さく息を吸った。今にも泣き出しそうだ。
「これは私の”姉と姪”だ。」
 理解できないといった顔で、潤んだ瞳が揺れる。
「よく見ろ、父親も写っているだろうが。こいつが私に見えるのか、お前は。」
 義兄は嫌いではない。心根の優しい、良い男だ。が、近年腹周りに着々と脂肪を蓄えつつある彼と見間違えられるのは、何やら癪である。
 スマホを差し出すと、京一郎はか細い声で言った。
「あの、消えてるみたいです・・・」
 苛々しながらも再び画面に写真を写してみせる。
 それをまじまじと眺め、やっと彼は理解したらしい。
「そうか、伊織さんのお姉さんと姪御さん・・・・・・あれ、じゃあ」
「お前、いま何を考えていたか言ってみろ。返答によってはただでは済まさんぞ。」
 先程は義兄が写っていることに気付いていなかったようだが、まさか私の妻の前夫或いは浮気相手の子などと思っていたのではあるまいな。
「いえ・・・何も。」
 口元はへの字だが、目が先程までと違って嬉しそうに細められる。
「なにをにやにやしている。薄気味悪い。」
「だって・・・貴方がパパなんて呼ばれていたら、似合わないと思ったので。」
「こちらの方が御免だ。」
 我慢できなくなったのか、くすくすと笑い始めたから面白くない。
 私が父親だとして何が悪い。子供ができたらきっと・・・・・・きっと、何だというのだろう。友人、知人で同年代の者の中には、既に子持ちもいるが、彼らのように子供を中心とした生活など、考えたこともない。
 まぁ、私などより京一郎の方がよほど子供と居るのが似合うのだろう。そんなことを考えながらふと見遣ると、京一郎の大きな瞳から、小さな粒が光って零れ落ちた。
「・・・・・・おい」
「何です。」
 多少険のある物言いとは裏腹に、ほろほろと、涙が零れ落ちる。
 さきほどから京一郎の心中が読めない。私が妻帯していないと知って、泣くか、普通。
「・・・泣くほど嬉しいのか、あれが私の妻子でなくて。」
 指で涙を拭い取ってやると、上目遣いで縋るようにこちらを見上げるものだから、困った。
 どうやら、本当に嬉しかったらしい。
「お前は思っていることが顔に出すぎだ・・・。」
 それは、私にそういう相手がいないということを、期待しているということなのか。
「私が結婚していたら、厭だったか?」
 たとえばそれは、そういう相手に、お前がなりたいということなのか。
「・・・なに、言ってるんですか。」
 京一郎は、鼻声で言った。
「私には彼女すらいないっていうのに、貴方に先を越されていなくて、ほっとしただけですよ。」
「ふぅん。」
 それは、粋がっていると取っていいのだろうか。
”あの”千家伊織であれば、「意地を張るな。私に愛してほしいのなら、そう言うがいい。」など言ったところかもしれないが。しかしその場合、彼は愛してやるなど言っただろうか。・・・いや、うまいこと誘導だけして、きっとはぐらかしたことだろう。肝心なところは、不器用な男だった。
――私は、どうなのだろう・・・・・・。

「・・・伊織さんは行かないんですか。」
「その予定は無い。」
 チケットを渡してやると、京一郎は控え目に不服そうな顔をした。
「何でです。姪御さんと行く予定だったんでしょう?」
「姉が行くはずだった。私ではない。」
「折角だから一緒に行きましょうよ。」
 にこりと微笑んで身を乗り出してくるが、もとより私は行くつもりはなかったのだ。
「私は特段星に興味はない。」
「いいじゃないですか、楽しいですよ。」
「面倒だ。」
・・・面倒というよりは、困るのだ。
 共に居るところを万一あの女に見られたらと思うと、間違っても京一郎を伴ってどこかへ行こうという気にはなれない。先日の一件で一応は私のことを諦めたようだが、用心するに越したことはないだろう。なにせ、私は彼女のことを良く知らないのだ。だからこそ、言い当てられ、似た者同士と言われたことがここまで気になってしまう。
 それに彼女であれば気付いてしまうかもしれない。私の見ているのが京一郎であるということを。
 ここで会うことも本当ならやめておきたいくらいだが、変に場所を変えて遭遇してしまうことを考えれば、私のテリトリーであると相手も認識しているこの店を使う方がまだましだろう。
「ねぇ、伊織さんってば。」
「大学の仲間と行けばいいだろう。それほどまで私にこだわる理由はなんだ。」
「友人と出かけたいと思うのに、大仰な理由が必要ですか。」
 口の減らない奴だな。
 これ以上言い合っていても埒が明かない。私は無視を決め込んで、文庫本を開いた。
「・・・あ。分かった。伊織さん、暗いと眠くなっちゃうんでしょう。だから行きたくないんだ。」
 今度はそう来るか。だとして何が悪い。揶揄っているつもりか。
「馬鹿を言うな。」
「だったら問題ないですね、行きましょう。決まりです。」
「こんなにも熱烈に求愛されるとはな。」
 京一郎の苦手な言い回しを持ち出すと、やっと黙った。
 このやり方は自虐的だから、本当は好きではない。暗に「私のことが好きなのか」と訊き、それに対して「そんなわけない」と言い返させるのがお決まりで、つまり私は毎度、もう一人の私の感情を利用して恋愛ごっこをしている己を、自ら打ちのめしているわけである。同じことをしているのでも、ただ揶揄って楽しんでいた”あの”私とは違い、それなりの打撃となるわけだ。
”あの”私は少なくとも、”あの”京一郎に、愛を期待していたわけではない。仮に期待することがあったとして、それは彼にとり目的の二の次三の次であった。何故なら彼の生きる目的は護国であり、そのため得た京一郎であったのだから。
 であれば、”この”私はどうなのだろう。
”あの”千家伊織の記憶と感情を踏襲し、京一郎を求める快感に浸かっている。それを”恋愛ごっこ”と呼ぶのであれば、私は京一郎を・・・・・・愛したいのだろうか・・・。
「・・・伊織さんは、私と出かけるのがそんなに厭なんですか・・・?」
 掠れた声にはっとする。京一郎は、寂しそうな顔をして俯いていた。
 お願いだから、そんな顔をするな。
「・・・そういう態度を取られると調子が狂う。」
 先程までのように、多少生意気でも覇気を見せていてほしい。
「お前を苛めるのが楽しくないわけではないが、萎れたお前を見たいわけでもない。」
 京一郎は、首を傾げて唇を尖らせた。
「何ですか、それ。今のは意地悪だったんですか?」
 そういうことでもいいさ。文句を言っているくらいで丁度いい。
 やっと向こう気が戻ってきたと安心するや否や、京一郎は再度、「一緒にプラネタリウムに行きましょう」と、語気を強めて繰り返した。
 厭なわけではないのだ。特段行きたくないわけでも、星が嫌いというわけでもない。断る理由を言うのも、何やら億劫で、面倒になってしまった。
 仕方なく、現地に開演15分前に集合し、終わり次第即解散するという条件付きで、私は京一郎と、所謂デートに行くことになった。

  押し切った京一郎さん。

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