One more time, One more chance 千家篇12 発露


 その日は朝から雨だった。
 細い雨粒が足元を濡らすので、自宅前からタクシーに乗る。
 プラネタリウムのある天文台は駅から離れていて、思っていたよりも地味な印象だ。多少約束より早く着いてしまった。京一郎はまだ居ないようだ。
 企画ものであるせいか、こんな天気でもぞくぞくと客が集まってくる。場所も設備も、商業施設に隣接しているプラネタリウムの方がよほど人気なのかと思っていたが。やはり、公営の安さが魅力なのだろうか。
 チケットは2枚とも京一郎に渡してしまっているから中で待つわけにもゆかず、軒下に身を寄せる。
 斜めに降る霧雨が、髪や膚を湿らせる。暑さの残る時期ではあるから寒くはないが、早く建物の中へ避難したい。
 そのうち、グレーにチェック柄の傘を差した京一郎が入口の坂を登ってくるのが見えた。こちらに気付くと駆けてくる。可愛い奴だ。
「すみません、待ちました?」
「いや。」
 細身のパンツにレイヤードのカットソー姿の京一郎の胸に、ポケットはなかった。流石に今日は花を持ってこないと踏んだのだろう。実際、今日の私は手ぶらだ。
「今日は着物じゃないんですね。」
 京一郎も私の洋服を物珍しそうに眺めた。
「さすがにこんな日にまで着ないさ。・・・そういうお前も、今日はいつもと少し違うな。」
「お洒落、してみました。・・・少しだけ。」
 男同士で着ているものをお互い監視し合うというのはなんとも不気味だ。そう告げると、京一郎ははにかみながら言った。
「だって、伊織さんと出掛けるの初めてなんですよ。だから・・・」
「・・・・・・ふぅん。」
・・・そういうものか。

 チケットの示す座席は二人掛けのソファ型で、他と独立した席だった。親子で座っている組が多い。
 暗がりで他人と隣同士にならずに済んだことに、この席を予約した姉を内心賞賛していると、京一郎が身を縮めるようにして耳打ちしてきた。
「なんだか、恥ずかしいですね。」
「何がだ。」
「だってカップルばかりですよ、ここ。」
 それはそうだろう。恋人たちは暗がりを好む。だから映画館やらお化け屋敷やらが流行るのだ。ここも例外ではない。もっとも、姉は教育目的で予約したつもりだったのだろうが。
「お前がどうしてもと言うから来たのだ。」
「それは、そうですが・・・」
 二人掛けの席に限らず、仲睦まじく手を握ったり肩を寄せ合ったりする男女をちらちらと見遣り、京一郎は居たたまれなさそうに小さくなった。
 何を恐縮する必要がある。私に来いと強請ったのはお前ではないか。そんなに、私が女でなくて不満か。
 不意に萌した衝動に任せ、私は京一郎の腰に腕を絡めた。
「いっそのこともっと恋人らしくしてみるか?」
「ちょ、何するんですか!」
 そのまま引き寄せる。意図せず唇が後ろ髪の生え際を掠め、京一郎は身を竦ませた。
「他の人たちが変に思いますって!」
 裏返りそうな声を抑えるのがたまらない。
「しっ。ほら、始まるようだぞ。」
 暗がりで二人掛けの席はこれほどに接近を許してしまうのだな。これまで向かい合わせのテーブルで満足していたが、こうも触れ合えるのならもっと早く映画でも誘っていればよかった。
 つい、忍び笑いが漏れる。
「あの人に見られます!」
 京一郎は気が気でない様子で司会を指差し、必死に私の脇腹を突いたり身体を捩ったりしている。
 本当はまだ離したくないのだが、こうまで暴れられると流石に注意されてしまうかもしれない。仕方なく解放してやると、京一郎は逃げるようにしてソファの端へ寄ってしまった。
「何なんですか突然、ほんとに、もう・・・」
 面白かった。
 これを、"あの"私は初対面でやったのかと思うと、改めて常軌を逸した男だったと呆れる。形振り構わぬとはいえ、数秒前まで刀を交えていた相手を抱き竦めるか、普通。
 一方の私は、冗談に見せ掛けてこの程度の戯れが精一杯だ。これ以上思いの儘触れることは、できない。
 私には、"あの"私と違って、失うわけにはゆかぬものが多過ぎる。言い換えれば、己自身を含め何も持たなかった"あの"私と比べ、この私は多くを持ち、過ぎたほど恵まれた境遇に居るということになる。
 だというのに、この空虚感はなんだ。満たされてないと感じるのは何故だろう。
 私の得たいのは・・・・・・。

 気付くと照明が落とされ、目の前には星の海が広がっていた。
 まるで、あの日の空のようだ。
 京一郎を置いて”あの”私が死んだ、春先の夜。
 沈丁花の香りが、淡く漂っていた。
 あの時も京一郎は、厭だ、と言っていたな。
 よく、そう言われた。・・・私が、厭がることばかりしたからだ。
 為さねばならぬ大半が彼の嫌悪することであったということ、あの頃の私に嗜虐的な傾向があったというのもある。けれど私が、恐れることなく彼に心を明渡せなかったというのも、その理由として多分にあった。
 最期だけだ。私が京一郎を失うことへの恐れを棄て、何の謀略も思惑もなく、ただ素直に彼の名を呼ぶことができたのは。
 そしていま、”この”私はその名を声にすることが、できない・・・――――。

「伊織さん」

 囁く声に、一瞬、”あの”京一郎かと思った。
 馬鹿馬鹿しい。
 彼は私を"さん"付けでなど呼ばない。
 ここは、戦争の無い平和な先進国だ。
 私の横に居るのは、何も知らない、何も失わない、ただの、大学生の京一郎なのだ。

「なんだ。」
 暗闇に囁き返すと、もぞもぞと動いたのが分かった。何故だか笑ってしまう。
 私が震えているとでも思ったのだろうか。少し心配そうな声が、先ほどより近くから聞こえた。
「寒いですか?」
「・・・いや。」
 とは言ったものの、しっかり冷房が効いているここは思いの外涼しい。
「お前は?冷えるか。」
「いえ・・・」
 しかし冷えると感じたからそう言ったのだろう。流石に冗談を言っているわけでも睦み合うような雰囲気でもないから、また抱いてやるわけにもゆかないし、生憎今日は洋装だから、羽織を掛けてやることもできない。仕方ないので、辛うじて触れない程度まで寄って座った。
 仄かに体温を感じる。
 気付いた京一郎がこちらを見上げるのが分かった。
 肩を引き寄せたいと思ったが、自重した。

「ねぇ、伊織さん。」
 また、京一郎が囁く。
 こんなにお喋りをしている客がいると知ったら、今日のプログラムの企画者は泣くだろうな。
「うん?」
 京一郎は何か躊躇っているようで、何度か言い出そうと息を吸い、声を出さずに詰まることを繰り返した後、意を決したようにこちらを向いた・・・ようだった。
「どうして・・・私の名前を、呼んでくれないんですか。」
 心臓を掴まれたような気がした。
 気付いていたのか。
 何と答えるべきだろう。
 私自身明確な回答を持たない、あやふやで曖昧な理由なのだ、彼を呼ぶことができずにいるのは。
 名を呼ぶことで、あの記憶を失ってしまうかもしれない、というのがまずひとつ。
 あれだけ鬱陶しいと思っていたそれは、実存する京一郎に出会ったことで、目の前の世界をがらりと変えてしまった。興味本位で気になっていただけのはずの彼を、"あの"千家伊織の記憶のフィルターを通して見ることによる喜びは、これまで何の不満もなく生きてきた己の人生を陳腐なものであったと感じさせるほど大きかった。
 そしていま、私の感じる京一郎に対する想いが真に私のものでない以上、記憶を失ってしまったならば、この喜びもまた失われてしまうかもしれない、というのがもうひとつ。
 記憶を失うことにより、こうして私と再び関係を構築する機会を与えた京一郎を、あのNと同様、どうでもいいものだと認識するようになってしまうかもしれない。私は再び、京一郎の居ない世界を当然のものとして生きるようになるのかもしれない。或いは京一郎を失った喪失感だけ抱え、しかし何を失くしたのかも分からず生きてゆくことになるのかもしれない。
 もし、そう素直に話したなら、物分かりの良い京一郎は、納得はせずとも理解しようとするのだろう。しかし、そうなればそれですべてお仕舞いだ。私と彼の関係は、結局いつまでも、記憶というガラスを挟んでそれぞれの側から見詰め合っているだけで、真の意味で互いに触れ合うことなどできなくなってしまうのだろう。
「・・・呼んだことがなかったか。」
 失いたくない。
 真に己のものであると信じたくなるほど、この感情は私の裡に厳然として在る。
「ありません。」
 静かに、しかしはっきりと、京一郎は否定した。
 分かっている。けれど、もう、赦してほしい。
 私は一瞬、お前を欲するがためにお前を呼べないのだと言ってしまおうか考え、すぐに打ち消した。
 そのような道理があるか。馬鹿馬鹿しい。
 また私がいくら求めたところで、京一郎が同じように私を欲しているわけではない。たとえ私がかつてと同様京一郎を快楽の虜にしたところで、それだけで彼を繋ぎとめることなどできるはずもない。
 天命も宿命も存在しないこの世界で、もう一度彼が私と歩んでゆくためのよすがなど、どこにあるというのだろう。
「そうか。」
 私には、こう、相槌を打つのが精一杯だった。
 京一郎は、引き続き私が何か言うのを待っているようだった。

 穏やかな声のナレーションが途切れ、スピーカーから波の音が流れ始める。
 寄せては返す規則的な水の音は、ひとり勝手にささくれ立ち、波立っていた胸中に沁み込んでゆくようだった。
 このまま眠ってしまってもいいかもしれない。横に居るのは幸い京一郎だけだ。演目が終わった際には散々揶揄われるだろうが、それも悪くない。・・・京一郎の楽しそうな声が聴けるのであれば。

――十二星座にも数えられている、うお座には三等星より明るい星がありません。そのため、他と比べると、少し見つけづらいのですが・・・
 折角転寝を始められそうだったのだが、再開した星座の説明により、阻まれてしまった。
「ねぇ、・・・伊織さん。」
 そして、京一郎も私を寝せてはくれない。
「なんだ。」
 再びの逡巡の後、柔らかい声が囁いた。
「私の名前を、呼んでください。」
――二尾の魚は、いつも互いの近くに居て、決して離れることはないのです。
 星座を結んでいた線が消える。
 まるで私と京一郎を繋ぐ糸が消えたように思えて、私は理由もなく焦燥を覚えながら言い継いだ。
「急に、どうした。」
「だって・・・」
 京一郎の声は頼りなく、心細そうに掠れた。
「・・・貴方といても、私は私がここに居るのかどうかすら、分からなくなってくるから・・・・・・」
 どういう意味だ。
 私が呼ぶことでお前が存在できると、・・・お前は私のことをそのように思っているということなのか。
 それともただ単に、この星空を構成するプログラムの雰囲気に飲まれているだけなのか。
「おかしなことを言うな、お前は。」
・・・後者だろう。私も何を期待しているのだか。己の浅ましさに失笑してしまう。
 しかし知っているか京一郎。言葉には責任が伴う。
 私は京一郎の肩を引き寄せ、胸に抱いた。
・・・お前が、まるで私を求めているようなことを言うから、悪いのだ。
 京一郎の髪に顔を埋めると、なぜだか懐かしい感じがした。
「心配などせずとも、お前は確かにここに居る。」
 顎を頭に載せる。息が耳にかかったのか、京一郎は私の腕にしがみついた。
 急に目の前が明るく光り、ドーム型のスクリーンいっぱいに燃え盛る炎が散らばる。
――尾を引いて高速で移動するこの大きな星は、彗星です。
 私は、抵抗もせず小動物のように腕の中に収まっている京一郎を見ていた。
――大気圏へ突入して消えてしまう流星とは異なり、自らを燃やしながらどことも知れない遠くへと突き進むほうき星は、まるで掛け替えのない誰かを探し求めて旅をしているようです。
 掛け替えのない誰かとは、私にとり、京一郎を措いて他にない。
 探し求め旅をしていたもう一人の私の魂は、彼にとって掛け替えのないもう一人の京一郎を見つけた。私が京一郎の名を呼んだなら、きっと彼らは再び相見えることができるのだろう。
 だがその代わり私は、掛け替えのない京一郎を失うのだろう。
・・・失いたくない。
 私は京一郎が欲しい。
 これは”あの”私ではなく、まぎれもなく”この”私の感情だ。
「お前が不安に思うなら、こうしていくらでも抱いてやる。」
 私は、私にとり掛け替えのない”この”京一郎を、想っている。
 京一郎の名を呼ぶことはしない。代わりに、京一郎を手放すこともしない。
・・・けれど京一郎は、私に求めるのだ。
「私は、貴方の・・・言葉が欲しい。」
 何と言えばいい?
 永遠の友情を誓うか?それとも、無償の愛が欲しいか?
 お前の名を呼ぶこと以外ならば、お前の望むとおり、何でもしよう。
「伊織さん・・・」
 だから、そんな風に、切なげな声を出さないでほしい。呼びたくなってしまう・・・。
 私は京一郎を縛るように抱いていた腕を解き、彼の頬を撫でた。
「ねぇ、・・・」
 京一郎は私の胸に縋り、懇願するように、伊織さん、と呼んだ。
 呼び返してやれない私は代わりに、その額へ、そっと口付けた。

  

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