One more time, One more chance 千家篇13 悋気


 抱き締めても、口付けても、京一郎は嫌がる素振を見せなかった。
 演目が終わり部屋の照明が点くまで、私の腕の中にいた。
 そんなことだから、締めがどのような内容であったかよく覚えていない。折角のプログラムだったが、うお座が見つけにくいということだけしか記憶に残らなかった。
 席を立った周りの客は、綺麗だったとか、面白かったとか、何かしら感想を言い合っていたが、我々は結局、出口まで一言も会話しなかった。
「・・・お前はどうやって来た?」
「バス、です。」
「私はタクシーを呼ぶが、途中まで乗っていくか?」
「いえ、寄るところがあるので。」
 京一郎は俯いたまま、こちらを向こうとしない。
・・・道理だ。
 私は彼の、いたって当たり前の求めに応じなかったのだから。
 待ち構えていたようにタクシーが目の前に停まる。
「では、な。」
「・・・はい」
 言葉少なに別れた。
 車内から振り返ると、京一郎はこちらを見ていたが、傘を傾けて顔を隠してしまった。

 もう少し、側に居たかった。
 どうにかできないかと、思った。
 しかし、何も思い浮かばなかった。
 京一郎に触れて、舞い上がっていたのかもしれない。
 胸中を知られ、拒絶されるのを恐れていたのかもしれない。
 動きの鈍い頭を抱えながら帰宅し、私は夜遅くまで大作の構想を考え続けた。
 考えながら、取り留めもない思考を脳内から追い出そうとしていた。

 あの時、京一郎はどうして拒まなかったのだろう。
 先日から、まるでこちらにそのような意味で好意があるかのような素振りが多いのは、気のせいだろうか。
 単に、私の自意識過剰なのか。

 結局、失うことを恐れて私は何も言わず、だから京一郎が何故大人しく抱かれていたのか、知ることができなかった。
 訊かずに知り得ぬことを考えても意味はない。
 何も考えたくない。
 その夜はひたすら、鉛筆を動かして明かした。

* * * * *

 あれから数日して、私はいつもの喫茶店を訪れた。
 大抵こちらより早く来ている京一郎は、居なかった。
・・・来ないのだろうか。
 そういえば彼とは未だに連絡先を交換していない。
 これまで、来ないことはなかったが、時には都合が悪くなることもあるはずだ。だから、今日、仮に彼が来ずとも、特段の意味はないのかもしれない、きっと・・・。
・・・・・・否。今日来ないとしたならば、それはきっと、今後も来ないということだろう。あのような別れ方をしてしまったのだ。もし彼が来なければ・・・・・・――
「あっ!みーっけた!」
 弾むような声に、軽やかな足音。
 顔を上げるのと同時に、向かいに腰を下ろしたのは、姉の生徒の、伊勢薫だ。
「へっへー!ついにいーちゃん先生に奢ってもらう日が来ましたぁ!」
 なんだそれは。意味が分からない。
「・・・あれ?」
 覗き込んでくる薫を無視する。今日は馨は一緒ではないのだろうか。早くどこかへ連れて行って欲しい。
「わぁぁ・・・ご機嫌斜めだぁ。」
 苛々してきた。これ以上付き纏われても面倒なので席を移動する。二人掛けは今居た席しか空いていなかったので、窓際の4人掛けへ。
「ねぇ、無視しないでよぉ・・・落ち込んでるなら慰めてあげるからさぁ。 」
 薫は慌てて追いかけてくる。
 悪気がないのも、構って欲しいのもよく分かるが、いまはそういう気分ではない。というよりそもそも私は彼らとそこまで親しいつもりもない。姉には随分懐いているようだが。
「鬱なときって、僕と居ると元気になれるんだって!兄様が言ってた。だからね、伊織先生も僕にケーキを買ってくれたら、ちょっと晴れやかな気分になるんじゃない?」
 お前などより京一郎に買ってやる方がよほど気分が明るくなるだろう。などと言っても仕方ないか。
「・・・菓子を食えば少しは黙る気があるというのだな。」
「さっすが伊織先生!えっとねぇ今日はねぇ・・・」
 脅迫されたようなものだ。しかし、目の前で騒がれたおかげで、欝々とした気分が多少紛れたのも事実。まさかとは思うが馨の差し金ではないだろうな。
 周囲を見回すと、薫は唇に人差し指を当てた。
「しぃ~。兄様とは別行動なんだ。だから、奢ってくれるのは内緒ね!」
「まだ奢るとは言っていない。」
「僕の未来への投資ってことでオッケ。」
 返ってくる見込みのないものへ投資などするか。白い目で睨むこちらを尻目にウェイターを呼び寄せ、薫はケーキと焼き菓子と何か飲み物を注文した。
「おいしい~~!噂どおりだぁ。ねぇ、伊織先生はいっつもここでおやつ食べてるの?」
「菓子は頼まん。」
「ふーん・・・じゃ、これ美味しいから食べてみなって。ほら!」
 言いながら皿をこちらへ押し遣ってくる。どうせ支払いは私がするというのに、何なのだろうこの態度は。
 しかしこちらは茶一杯というのも何やら腹立たしく、小さなフォークを籠から取り出し、焼き菓子を口に運ぶ。
・・・思いのほか甘すぎず、悪くない。
「ね!美味しいでしょう?」
 嬉しそうに薫は笑う。
 何やら最近、勝手に向かいに座り、勝手に飲み食いされることが多い。だが、同じ押しつけがましいのでも、今日はそこまで気分が悪くない。純粋に薫の目当ては甘味であって私ではないからか。
「あれ・・・」
 ふと顔を上げ、薫は首を傾げた。
「ねぇ、あの人、伊織先生の知り合い?」
 振り向くと、彼の指差す先に居た人物はこちらに背を向けた。
・・・京一郎だ。
 来ないかもしれないと半ば諦めていたところだが、こちらに気付いていないのだろうか。
 しかし彼は他の席に座ろうとする様子もなく、入り口を向いた。このままだと出ていってしまう。
 慌てて立ち上がり、追いかける。
「おい」
 腕を掴むと、強く振り払われた。
「なんです」
 京一郎は視線をこちらへ向けず、他人行儀に返した。
「今日はまた随分不機嫌だな。」
「気のせいです」
 そっぽを向いたまま、冷たい声が返ってくる。どうやらやはり、先日のことを根に持っているようだ。
 どうするべきか。場所を変えた方がいいだろうか。
 テーブルに残した薫を見遣ると、呑気に大口を開けて菓子を頬張っている。
・・・そうだ。この際この二人を会せてみるのはどうだろう。記憶に関わる者同士が居合わせることにより何が起こるかは不明だが、滅多にない機会だ。
「少し付き合え。いま来たところなのだろう。」
「いえ、用を思い出したので帰ります。」
「紹介したい人間がいる。」
 弾かれたように顔を上げ、それから薫の方を見遣り、京一郎はこちらを恨みがましい目で睨んだ。
「・・・あの子、誰です。」
 問い質すような視線に、不貞腐れたような声。
 もしや、機嫌が悪いのは薫のせいか?先客の居ることが不満だと?
「それを今から説明しようと言っている。まずは席に着け。」
「・・・・・・不本意だ」
 小さな呟きに、確信した。京一郎は、私が他の人間と居たことに気を悪くしている。帰ろうとしたのは先日のことに立腹しているというより、私が薫と居たからのようだ。
 じわりと安堵に混ざり胸に湧くのは、歓びに似た感覚。
 京一郎が嫉妬したことが、嬉しい。
 程度は別にしても彼は私を求めている。それがこれほど頭の中に花を咲かせるものだとは。不甲斐ないだとか単純だとか、己を罵倒する言葉も浮かばぬほど、浮かれる。矜持がなんだという。
・・・あぁ、そう言えば、”あの”京一郎も、戯れに部下を近くに置いて見せつけてやったら随分と怒ったものだった。”あの”私も意地の悪いことをしたものだ。しかし流石にここであのような真似はできない。
 つい顔が緩んでしまうのをこらえつつ、私は手を伸べた。
「恨言なら後でいくらでも聞いてやるから、ほら。」
 京一郎は渋々といった体で手を取った。

 私が京一郎を連れて席へ戻ると、警戒したのか薫は窓につくほど椅子の端へ寄った。
「彼は伊勢くん。私の姉の生徒だ。」
 京一郎を座らせ、まずは向かいで不審げにこちらを見ている薫を紹介する。
「生徒・・・あぁ、お華の教室の。」
「薫、彼は私の友人の柊くんだ。」
 京一郎、とはやはり言えなかった。しかし、もし薫に京一郎の記憶が残っているのであれば、姓だけでも思い当たるはずだ。
「彼を知っているか、薫。」
 薫は首を横に振った。
 やはり、駄目か。”あの”京一郎は”あの”私の下にいたから、私に関する記憶と共に、消えてしまったのだろうか。
 薫は京一郎をじっと観察していたが、突然思いついたように口を開いた。
「ねえ。・・・柊くんって、伊織先生のネンユー?」
 突飛もない質問。一言目にその発想とは恐れ入る。
「どこで覚えた、そんな言葉。」
「うふふ。」
 高校生同士がやれ誰が誰を好きだとか、誰はもうどこまで進んだとか、そのような話をする調子で、薫は含み笑いをしている。
 これは見当違いだったようだ。彼は京一郎を全く知らない。そして、京一郎も同様のようだ。不審げな眼差しをこちらへ送ってくる。
「最近の高校生は随分古びた言葉を使うのだな。」
「で、当たった?ねえねえ、伊織先生ってば!」
 テーブルに覆い被さるようにして、薫はこちらを見上げ、しつこく訊いてくる。
「なぜ、そう思う。」
「えー、だってぇ。伊織先生、柊くんが来てからなんだか機嫌良いしぃ。さっきだって手ぇつないで来たしぃ。」
 当然だ。京一郎と薫とでは、重要度合に差があり過ぎる。
「伊織先生は、こういうおぼこいタイプが好みなのぉ?」
「お前の方が余程乳臭いくせに、よく言うな。」
 薫はテーブルの上に伸びたまま、今度は京一郎を見上げながら、口の横についたクリームを舐めた。不気味に思ったのだろうか。京一郎は私の着物の袖をそっと掴んだ。
「へぇ。柊くんもまんざらじゃないみたい。なんだよ、つまんないなぁ。」
 京一郎はやはり薫がお気に召さなかったようだ。困惑した様子でテーブルの上を見詰めている。二人を会わせることによる成果は期待出来なさそうだ。これ以上京一郎に機嫌を損ねられても困ることだし、薫にはいい加減退席願うことにしよう。
「そろそろ教室の時間ではないのか、薫。」
「このフィナンシェ全部食べたら、お邪魔者は退散しますよーだ。ちぇぇっ。あーあ、やりてえなー。」
 さっさと行け。京一郎との時間を無駄にしたくない。思春期の子供の戯言に付き合っているほどこちらは暇ではないのだ。
「ずるいなぁ伊織先生、可愛い子をキープしてるんだ。もう僕なんでもいいから欲しいー。あ、兄様をネンテーにしちゃおうかな。」
「こら薫!」
 背後から叱責の声がした。馨だ。良いところに来た。
「聞こえたぞ。なんてことを言っているんだお前。」
「あは!見つかっちゃった。」
「千家先生、いつもすみません。」
 馨はすまなさそうに頭を下げ、薫を引っ張っていった。機会があれば、彼には薫より良い菓子を奢ってやろう。
 にこにこと笑いながら去っていく双子を、京一郎は呆然として見ていた。

「騒がしいのがやっと行ったな。」
「貴方の連れでしょう。」
 不満そうに口を尖らすので、薫が残した焼菓子を食べるかと訊いてみる。
「いりません。」
 流石にそれはまずかったか。
「何をむくれている。」
 あやすつもりで髪を撫でると、上目遣いで睨まれた。可愛らしいことだ。
「私が他の男といたのが、そんなに不満か。」
 京一郎は黙っている。否定は、しないようだ。
 そして私の横に座ったまま一口茶をすすり、小さく呟いた。
「ネンユー?とかネンテー、とか言ってましたけど、いったい何のことです?」
・・・そこか。
 成る程、話について行けなかったのもご不満というわけだな。それも道理。
「知りたいか。」
「・・・別に。」
 さて。すぐ教えてやらずにもう暫くぷりぷりさせてみても良いのだが。
 京一郎はどこかそわそわとしながら、涼し気な顔でカップを口へ運んでいる。
 いや、やめておこう。これで彼の矜持を傷付け、本当に帰られてしまっては困る。今日はまだろくに会話もしていないのだから。
「あれは、要するに男色の相手という意味だ。」
「ダン・・・ショク・・・・・・」
 皿の上の焼き菓子を見詰めながら、京一郎は復唱する。理解はしたようだ。
「男子校に通っているらしいから、欲求不満なのだろう。」
「だからって、そんな・・・なんで私と貴方が、そういう・・・」
「さて、な。」
 皿を睨んだまま、ゆっくり、頬が朱に染まってゆく。
 そっとこちらを伺うように見上げる表情の、なんとも愛らしいことよ。
 欲をそそられる。
「お前・・・」
「・・・・・・ぇ?」
 その、顔だ。
「・・・抱いて欲しそうな顔をしている。」
「っな・・・!」
 京一郎はついに真っ赤になり、口を開けたり閉めたりした。
「何をっ、言ってるんです!」
 本当に面白い奴だな。揶揄い甲斐があるというものだ。
「そもそもですね、仮にそういう関係だとして、なんで私が、・・・抱いてほしいとかその、・・・女役なんです?」
 指摘するのはそこか。仮にでも、そういう関係であることについては否定しないのか。
 今日の京一郎はいつになく、私の戯言を拒まない。それは、都合良く解釈していいということなのだろうか。
「そんなこと言う貴方こそ、本当は私に抱かれたいんじゃないんですか。」
 噛み付くように、半ば泣きそうな顔で言う。
 しっかりしているようで、こういうところが隙だらけなのだ。
 京一郎。お前は知らないようだが、千家伊織は付け入る隙を逃さない。
・・・・・・ほら。今だってそんな目をして。
 煽る方が、いけないのだ。
 私は口付けんばかりの距離まで顔を近づけ、京一郎の髪を弄びながら囁いた。
「そうかもしれん。」

  ムーミンのどのお話か忘れましたけど、スナフキンが居なくてふさぎ込んでたムーミンに、誰かが「ミイにキスしたら気が晴れるんじゃないかしら。」と提案するくだりがあったと思いますが(そしてそうしても結局気は晴れなかったという)、伊織さんがふさぎ込んでるときは、京一郎くんにキスしたら絶対一瞬で元気になると思うんですよねー。

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