One more time, One more chance 千家篇14 憂懼


 少しの間、京一郎は顔を赤くして固まっていた。どうやら完全に混乱してしまったようである。
 ついでだから、いっそのこと本当に口付けてしまおうか。
 そう思ったとき、京一郎は目を据わらせ、抑揚のない声で言った。
「・・・それで。私を彼に引き合わせたのはどういうわけなんです?」
 どうにか冷静さを取り戻したらしいが、その澄まし顔も、再び徐々に赤くなってゆく。私も調子に乗り揺さぶり過ぎたようだ。このあたりにしておこう。
「・・・・・・そうだな、それを話さないと仕方がないのだが、」
 先程からスマホのバイブレーションが鳴っている。
「姉に呼び出されてしまった。私は一度帰らなくてはならない。」
「そう、ですか・・・」
 京一郎は見るからに萎れた。しみじみ、こういうところも心を掴んで離さない。
「なぁ。」
 私は若者らしい艶やかな頬を指の背で撫でる。
「・・・なんです。」
 京一郎は気まずそうに目を逸らした。
 そのまま指を滑らせ、少し尖った唇に触れて、大きな瞳を覗き込む。
「私と、離れがたいのだろう?」
「・・・ぁ」
 だから、その顔。
 期待しているのか。私が口付けるのを。
 京一郎はまたはっとすると、泣きそうな顔できゃんきゃんと喚いた。
「ぁ貴方が、私と、離れたく・・・ないんでしょう?・・・回りくどいことはやめてはっきり言ったらどうです・・・私と、一緒に居たい、・・・って・・・。」
 強気に言い始めたは良いが、風船の萎むように最後の言葉は聞き取れなかった。
「・・・お前は、この間は弱音を吐いていたと思えば急に強気になったりまた弱ったり、忙しいな。」
 本当に、この、強がりが癖になる。一人勝手に沈んでゆくものだから、掬ってやったときの嬉しそうな顔が欲しくなってしまう。
 今日はもともと手伝う予定がなかったのだから、姉の用は大したことではないだろう。
 ならば、京一郎をうちへ招いてみようか。どのような反応をするのだろう。
「私の部屋で待っているか?」
「・・・ぇ。」
「1時間ほどで用は済むと思う。多忙な帝大生殿が、それを長く感じるかは私には分からんが。」
「あ、の、それ、は・・・」
 そわそわしているのを気付かせぬようにか、京一郎は目を合わせない。
「まぁ、来たくないのならここで待っていてもいいし、これから用があるのなら、この話はまた次の機会だな。」
 しかしどうせ、本当は用などないのだろう?どうなのだ、京一郎。
「い!」
・・・"行きます"か?
「うん?」
 京一郎は緩む頬を抑えるように口をへの字に曲げ、渋顔を作った。
「・・・ってあげてもいいですよ。私の用は、後回しにして。」
 あくまで、用のある体は保つのだな。どこまでも強情なことだ。そこも、嫌いではない。
「ふぅん。それは助かる。」

 店を出て、緩い坂道をゆく。
 どこか機嫌の良い京一郎は、歩きながらきょろきょろと見回して微笑んだ。
「この辺りって、小物屋さんとか食べ物屋さんとか、いろいろあって楽しいですね。」
「うちの生徒、特に女性からは街に来るだけでわくわくするなど、よく言われるな。」
「肉まん、大きい・・・」
 有名店の前に立ち止まり、物欲しそうに呟いている。
「欲しいか。」
「いえ。今食べたら夕飯が入らなくなりますから。」
 しかしやはり気になるようで、私は食べたことがあるのか、とか、大きいのはどのくらいボリュームがあるのか、など、しきりに訊いて来る。煎餅好きだと記憶していたが、若いからこういうものも好きなのだろう。与えたら恐らく、嬉しそうに頬張るのだろうな。次の機会があれば、今日の埋め合わせも兼ねて買ってやろうと思った。

 自宅へ着き私室へ入ると、まず本棚に興味を持ったらしく、京一郎は小さく感嘆の声を漏らした。"あの"京一郎も、執務室や書斎に置いておくと楽しそうに本を眺めていたことを思い出す。
「気に入ったか。」
「はい・・・!沢山本をお持ちなんですね。そんな気はしていましたが。」
「私が戻るまで、ここで好きに過ごしていればいい。この棚に興味のある本がなければ、ほら。・・・まぁ、お前の大学の読書室には劣るだろうが、退屈はしないだろう。」
「・・・これを、読んでも・・・?」
 目をきらきらと輝かせ、奥の棚を覗き込む。本当に、彼は京一郎なのだな。当然なのだが。
「無論だ。休みたければ長椅子・・・」
 つい口から出た言葉に驚く。長椅子などこの狭い部屋にはない。"あの"私は好んで寛いでいたものだが、・・・。
「・・・はここには無かったな。私のベッドで休んでいても構わん。」
「・・・えっ」
 戻ってきて京一郎が寝ていたなら、それはそれで面白い。また帰したくなくなってしまうかもしれない。
「では、行ってくる。良い子でな。」
 目を瞬かせる京一郎の額を指先で突き、私は姉の待つ教室へ向かった。

* * * * *

 用を済ませて部屋へ戻ると、果たして京一郎はベッドの中には居なかった。
 机の前に座っている。読書でもしているのだろう、そう思いながら近付く。
 うっそりした様子の京一郎は、どうやって見つけたのか地球儀を机に置き、左手で弄っていた。
 あれは、どうして手に入れたのかよく憶えていないものだ。気付いたら私のものだった。どこか骨董具店で求めたのか、誰かから譲られたのか。
 あの地球儀を取り出しては、私もよく利き腕の左手で触れていた。まさにいま、京一郎がしているように。
 加えてそれは、”あの”千家伊織が、軍部の執務室に居て机に向かっているときの癖のようなものだった。もっとも、その地球儀は私のものとは違って傷だらけで、日本以外の国名が消されていたのだが。
 京一郎は恍惚とした表情で龍の形の島国を撫で、私の名を小さく呟いた。
 甘く優しい囁きからは、哀しみ、慈しみ、恨み、絶望の綯い交ぜになった、強い情念が滲み出るようだ。
 湧き上がる既視感に不安が高まる。
 あれは公園でキスをされた時だ。
 あの時も京一郎は、どこか定まらない視線を微笑みに乗せて、私を呼んだ。
 薫に会わせたことによる影響が現れたのだろうか。
"私の"京一郎は、どこかへ行ってしまうのだろうか・・・。
 そう考えると、胸の底が重く冷えるような気がした。
・・・厭だ。
 そのようなこと、許すわけにはゆかない。
 私は京一郎の肩を掴んだ。
「あ・・・」
 京一郎がはっとして振り返る。
 その瞳は先程の妖しさを隠し、健康的に私の姿を映した。
「お帰りなさい。・・・もう、教室はいいんですか?」
「お前は・・・誰だ。」
 訊かずにはいられない。
 京一郎は怪訝そうに首を傾げた。
「・・・またですか?何を心配してるんです。」
「これをどこから持ち出した。」
「あぁ、勝手にすみません。本棚の奥に見えたので、気になって。」
 本当にそれだけの理由か?何かもっと、別の理由があるのではないのだろうか。例えば未知の力のようなものに引かれた、或いは呼び寄せられた、とか。
・・・例えば、"あの"京一郎がそうさせた、とか。
 しかし京一郎は、素直に悪びれ、再び、勝手に触ってすみません、と呟いた。
「・・・大切なもの、だったんですね・・・?」
 その様子から、他意はないらしいと知れた。地球儀も偶然見つけたようだし、先程の呟きにも深い意味は無いのかもしれない。どうも最近、仕様も無いことを勘繰ってしまう。
 私はベッドに腰掛け、横に座るよう促した。
 うちには応接室があるため、この部屋の家具の配置は他人の居場所を考慮していない。長椅子どころか、机の前にしか椅子はない。姉や姪も、ここに来た時はベッドに腰掛ける。
 京一郎は少し躊躇いながらも、隣にそっと腰を下ろした。

 薫の話は、すべきではないのだろうか。余計な情報が刺激となり、"あの"京一郎が覚醒してしまうようなことはないだろうか。その場合、私の中のもう一人の私も引き摺り出され、この私もこの京一郎も、最悪、消えてしまうのだろうか。

 京一郎は済まなそうに私の顔色を窺っている。

・・・・・・否。一部ではあれ記憶を持つ彼が、同じ記憶を持つ私と出会った以上、そして結局私が彼と関わることに甘んじてしまった以上、いつかは何らかの形で、京一郎も新たな記憶を得ることになるのだろう。
 であれば私が今ここで京一郎へ語ることはもはや、必然なのではないか。
 同様に、京一郎と出会ったことも、"あの"千家伊織の感情に抗い切れなかったことも、そして私自身が"この"京一郎へ心惹かれたことも。
 在るわけがないとこれまで思っていた天命や宿命は、当人からは使命感という意志を奪い、ただ”必然”という形にその姿を変え、この世界に厳然として在るものなのかもしれない・・・・・・。

  動きのない回でしたが、どうか懲りずに次回も読んでいただければ・・・!

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