One more time, One more chance 千家篇15 愚考


「・・・先程の薫という高校生だが、」
 諦念に促され口を開くと、京一郎は背筋を伸ばした。一言も聞き漏らすまいといった様子だ。
「あれは、私を心の底から憎んでいるはずだった。」
「憎んでいる・・・?」
 怪訝そうな顔色に、多少の苛立ちが垣間見える。今日の喫茶店でのことは、余程面白くなかったらしい。
「そんな、逆でしょう?」
「今は、な・・・。」
 そう。これほど懐かれるなど、”あの”千家伊織も予想だにしなかっただろう。しかしそれは、京一郎にも言えることだ。自ら望んで再び私に関わろうとするなど、考えただろうか。
 何故なら結局、”あの”我々の関係は、それを示す言葉の無いまま終わったのだから。
「お前は、以前私の記憶の話をしたことを覚えているか。」
「陸軍の話ですね。」
 もう、京一郎は笑わない。私は頷いて続けた。
「薫も、それからほら、そっくりな顔のがいたろう。あれは双子の兄の馨というのだが、二人とも陸軍将校だった。私とは敵対する将校の下にいた。」
 一旦言葉を区切り、様子を伺う。初めて接触した軍関係者は彼らであったはずだが、思い出さないか。
「お前はあれを見て、何か感じたか。」
 京一郎は首を横に振った。
「・・・そうか。私より先に、恐らくあの双子が、お前に接触していたはずなのだがな。」
「それはいつのことです?私には全然覚えがありませんが。」
「記憶の話だ。この世界でのことではない。」
 彼は困ったように首を傾げる。やはり心当たりがないらしい。
 では、刀の話をすればどうだろう。あの刀は郷里の家で古くから守ってきたものであったという。大切そうに持ち歩いていたくらいだ、何か思い出す切っ掛けになるだろうか。
「薫はお前の刀を、力を恐れていた。そしてお前はあれを治療していた男を殺した。」
「え・・・?」
「加えて私が崖から落ちる直前に、双子の上官は我々との交戦中、銃弾に斃れた。」
「そんな・・・」
 あとは知る通りだ。私が死んだ後については当然記憶がないが、私の下で彼が不本意ながらも感じていたであろう責任や使命を考えればきっと――。
「私の死後、恐らくお前はあいつらを何らかの形で排除しているはずだ。」
「嘘だ・・・!」
 強い拒絶に横を見遣ると、京一郎は青白い顔で目を見開いていた。
・・・・・・しくじった。
 そもそも彼は軍そのものに免疫がない。
 ましてや人を殺すなど、理由があっても許されることではないと考えている。現代に生きていれば当然のことだ。
 お前の殺したのは当時既に人ではなかった、と言ったところで到底常人に理解できる話ではない。
 いまここで言うべき話ではなかった。
「嘘だ、私が人を殺すなんて、・・・嘘だ・・・・・・」
 可哀想に、握る手が微かに震えている。
 今更だが否定してやるべきだろう。
「・・・そうだな。お前は誰も殺してなどいない。」
 私は京一郎の頬を両手で包んだ。
「人を殺したというのは嘘だ。・・・驚いたか。」
 言い訳がましいことは百も承知。目を細め、極力意地悪そうに笑う。なんてこと言うんですか、やめてくださいそういうの、心臓に悪い、等々文句が返ってくるのを期待する。こんなやり方に騙されるような人間でないことも分かっているが・・・・・・。
「ふ・・・酷い顔をして。他人の妄言に揺さぶられているようでは、これから先苦労するぞ。」
 義兄がぐずる姪をあやすときのように、髪をじっくり撫でてやる。
「ほら。むやみにお前を苛めた私に、恨み言はないのか。」
 子供扱いしないでください、はどうした?
 しかし、救いを求めるような瞳は曇ったまま。頬をつまんで煽ってみたが、京一郎は悲しげに目を伏せた。
「貴方は・・・殺人者の私を恐れているんですか・・・?」
 本当に、余計なことを言ってしまった。
 唇から血の気が失せている。彼はそういう男だった。知っていたはずだというのに、気配りが足らなかった。
 口付けてやりたいが、そうもゆかぬので代わりに指の側面で触れた。生気を失くした唇は、渇いて冷たい。
「恐れる?私はお前を攫った人間だぞ。そんなわけがあるか。」
 大仰なほどに戯けた己の笑い声が、虚しかった。
 京一郎はもはや驚くことも嫌がることもせず、静かに私を見詰めた。
「・・・ではなぜ、私に記憶が戻るのを厭がるんです。すべてを思い出したら、・・・私は貴方を・・・殺、すんですか・・・?」
 記憶を取り戻した京一郎が私を殺すのだとしても、私が京一郎を忘れることと比べたら、はるかにましだ。
 それに記憶を戻してやりたくとも、私はその方法を知らない。どのみちそう言ったところで京一郎は信じないだろう。初めに私が記憶など放っておけと言ったのだから・・・。
「・・・お前は、いまさらそんなことはしない。多分、な。」
 そう。”あの”京一郎が私を憎んでいて、彼の人生を狂わせたことを贖うよう求めるのなら、彼は簡単に死ぬことなど許さないだろう。
 遠く訪れる今生の終わりまで、忘れることを許さず、その罪を背負わせるのだろう。逃がさないと言っていた。それがすべてなのだろう。
・・・・・・だからだ。
 だから私は”京一郎”に惹かれ、そして”京一郎”を忘れることができない。
 私が記憶に囚われているのは、”あの”千家伊織が”あの”柊京一郎を求めているからではなく、”あの”柊京一郎が”千家伊織”に、贖罪を求めているからなのかもしれない。
「ねぇ、教えてください。私と貴方は、いったいどういう関係だったんです?私も貴方を憎んでいたんですか?」
 京一郎は私の胸に縋って、辛そうに眉を顰めた。
 憎むのは辛いことだ。"あの"私も一時己の運命を憎んでいたことがあったが、それもすぐ疲れて止めた。”あの”京一郎が辛いから、この京一郎も苦し気に目を細める。
 私は京一郎の柔らかな髪を指で梳く。
「私はお前ではないから、お前が私をどう思っていたかなど知る由もないが、」
 私の個人的な希望的観測を伝えても意味がないから、私が死んできっと、優しいお前は泣いたのだろうとは言わない。
・・・ただ――。
「・・・私は、お前になら殺されていいと思っていた。」
 私の終焉は、京一郎によりもたらされるはずだった。その意味において、あのような終わり方であったことに、私は満足していた。
 京一郎は不機嫌そうな顔で俯いた。
 不満だろうが、この程度しか言えることはない。事実――とは言いづらいが、事実であろうこと以外について、本人でなければ知り得ぬものをあれこれ言っても仕方がないではないか。まして、その本人が知らぬことなど、他人の私になぜ知れよう。
「私は貴方を殺したいなんて、絶対に思わない。」
 顔を上げた京一郎は、泣きそうな顔をしていた。
「・・・絶対に。」
 窓から注ぐ夕暮れの柔らかな光が、彼の優しい顔立ちを照らす。まるで天使が憂えているようだなど、私は馬鹿なことを考える。
 そんな顔、させるつもりは無かったのだがな。
 差し出すように伸びた掌が、私の頬に触れた。
 京一郎の体温が私をまるで護ろうとしているように思えて、その目を、何故だか見ていられなかった。
 黙ったまま、彼は私の頬をそっと撫でた。
 優しく触れる手に己のそれを重ねると、まるで心の奥にある暖炉に――あればの話だ――火の灯ったような感覚がする。その灯りが、京一郎に伝えろと、私の背を押す。
「・・・薫の話だが、」
 京一郎の手のひらに顔を預けながら、私は薫と出会ってからこれまでのことを掻い摘んで説明した。
「――薫は記憶のすべてを失ったわけではない。恐らく上官だった館林のことはまだ覚えている。しかし馨や私の記憶は、どう消えたのかは知らないが、残ってはいないようだ。」
 静かに話を聞いていた京一郎は、しかし首を傾げた。
「でも、薫くんが貴方を憎く思っていたというなら、彼の関係者を、・・・殺した、私のことだって、憎くなかったはずがない。」
 殺した、と言ったとき、また声が震えた。
 本来、そのようなことができる人間ではなかった。私のせいで、変わってしまった。結局彼はそれを思い出してはいないが、知らせてしまった己の浅慮さが悔やまれる。
 しかし京一郎が先程のような動揺を再び見せることはなかった。私の語った内容を反芻し、彼なりに状況を把握しようとしているようだった。
「・・・ちょっと強引なんじゃないですか。無茶な理論だ。」
 順応性の高い男だった。加えて、頭も良かった。それは今も変わらない。
「そうだな。だがお前は私の下にいたから、私の記憶と併せてお前の情報も消えたと考えることもできる。そもそもサンプル自体が無いのだ。兄の馨にも、何らかの共通する記憶があったのかもしれないが、少なくとも今は消えているようだ。私は彼ら以外、記憶に関係する人間に会ったことがないから、検証のしようがない。」
「だとすればなぜ、薫くんを何度も呼んでいる伊織さんは、彼のことを憶えているんです?」
「私にとって薫は、そこまで強い感情を抱く相手ではなかった、というだけのことだろう。」
「・・・そんなの、可能性の一つに過ぎない。極論です。」
 然り。私自身完璧な理論だとは考えていない。
 しかし、これ以外にどう説明をつけることができる?
 現状発生しているこの状態を俯瞰的に把握している人間の居ない以上、不明点は推測で補うほかない。
 再び黙って何事か考えていた京一郎は、ふと不安そうな顔で呟いた。
「なぜ、私には、はっきりした記憶がないのでしょうか・・・」
「さぁな。或いはお前に記憶らしきものがあるというのが、そもそも勘違いなのではないのか。」
「そんなはずない・・・だって私は、漠然とではあるけれど、貴方に会う前から貴方のことを憶えていた。でも、貴方の名を呼んでも、貴方に関する記憶は消えない・・・」
「すでに消えているのか、そもそも初めから記憶などないのか。・・・まぁもう一人のお前もイレギュラーな存在だったからな。仮に私の推論が正しかった場合でも、或いはお前だけその範疇を超えているのかもしれん。」
 そう。”あの”世界において、京一郎の存在は私にとり、予想外の矛盾そのものだった。
 彼は私自身を補完し、癒し、護ったが、同時に彼は私の人生を終わらせる死神であるはずだった。そして私を憎もうが怨もうが、その役割さえ果たせば良いと思っていたはずが、私はその彼に絆されていった。彼を失わなかったことに安堵して逝くなど、彼を得ようと考えた時には微塵も思いもしなかった。
 呪われた”あの”私には、失うものなど二度と無いはずだったのに・・・・・・。
「私が大丈夫なら、伊織さんだって大丈夫かもしれません。」
 京一郎は重ねていた私の指に指を絡め、引き寄せて強く握った。
「それに私は、貴方の記憶の中の私ではない。貴方がそう言ったんですよ。記憶なんて、無くなってもいいじゃないですか。」
・・・・・・無くなったら、私の中から目の前のお前が消えるかもしれないのだとしても?
「・・・ねぇ、伊織さん。」
 京一郎は、懇願するように私を呼んだ。
 彼が私を求めるその原因はおそらく、無意識にある”あの”京一郎の、私に対する情念だ。公園で彼が纏っていた赤黒い雰囲気が、全てを物語っていたではないか。彼は”あの”私の死後、生命の節理だとか世界だとかを越えるほどの、恨みを募らせたのだろう。
 だとすれば、その京一郎を内に持つ”この”京一郎のために私ができるのは、傍に居てやることではないのか。
 たとえ彼が私のことを、私と同じように求めないのだとしても、彼を想い、彼のために傍に居ることが、私のできるすべてなのではないか。今度こそ私は、いつか京一郎の手により死ぬために、ここに居るのではないか。
 そのために私は京一郎のことを、"あの"千家伊織と柊京一郎のことを、記憶から消すわけにはゆかぬ。
・・・・・・だから。
 私は、京一郎の名を、呼ばない。

 応えない私を、京一郎は悲しげな瞳で見詰めていた。

  迷宮に迷い込んで愚かに悩む伊織さん。いい加減にしてくれ!

NEXT NOVEL PREVIOUS