One more time, One more chance 千家篇16 幕間:日常


 そろそろ袷を着ていても暑さを感じなくなってきた。
 最近は紅葉やら銀杏やらを使った作品の納品が増えてきて、いつの間にか夏が終わっていたのだと知る。
 午後の教室もひと段落し、お茶を淹れ替えていた姉が、そういえば、と声を掛けてきた。
「そろそろ私、伊織の彼女に会いたいんだけど。」
「・・・居ないと言ったはずだが。」
「居るでしょ、あんな風にしてまでNちゃんを振ったんだから。」
「居ない。」
 姉は不満そうに目を細めた。
 いくら文句を言われても、事実なのだから仕様がないではないか。
 女はいない。男であっても、・・・京一郎は恋人ではない。
 しばらくの間無言で茶を啜っていた姉は、煎餅を齧りながら呟いた。
「・・・え、もしかして片想い?」
 図星なだけに、仄かに苛立つ。
 顔色は変えなかったはずなのだが、彼女は卓越しに身を乗り出してきた。
「え、告白しないの?」
 心なしか嬉しそうなところが、なおのこと腹立たしい。
 面倒な追及を逃れるべく自室へ避難しようと立ち上がった時、姪が帰ってきた。
 姉夫婦の家は比較的近所にあるが、日中は教室があるため、幼稚園が終わると姪はここへ来る。平日は夕飯時まで母屋で過ごし、義兄の帰宅に合わせて彼らも帰ってゆくのが常だ。姉が教室にいる間は、母か、居れば父や私が姪の面倒を見ている。
 大抵誰かしらうちに居るというのも、"あの"私の境遇と根本的に異なる点のひとつだ。今の年齢の頃、既に親類縁者の殆どを失った私の家に居る者など、使用人か部下しかいなかった。仕事狂いだと嫌味を言われるほど忙しなく働いていたのは、寂寥を覚える暇を作らないためでもあった。

 姪は手を洗うとテレビを点け、私の膝の上によじ登った。
「今日は楽しかったか。」
 私や父の膝に来るときは大抵、機嫌の良いことが多い。何か嫌なことがあった日は、迷わず姉にしがみついている。
 彼女はスカートの皺を丁寧に伸ばしながら、こましゃくれた風に言った。
「ふつうかな。」
「ふぅん。普通か。」
「うん。」
 私を椅子にして得意げな姪は、足をはたはたと揺らしている。
 彼女に麦茶の入ったカップを渡すと、姉は私の背後に回って小声で囁いた。
「え、なんでよ」
「何が。」
「だから、なんで告白しないのよ。」
 まだその話が続いていたとは。つくづく女というものは他人事に喧しい。
「放っておいてくれないか。」
「だって気になるじゃない。で?」
「もうその話は終いだ。」
「その子が既婚者とか?・・・違うよね、彼氏いる・・・わけじゃないならいいじゃない、何を躊躇ってるの?いおらしくない。」
 こちらは一言も発していないのに、強引に会話を進めようとする。姉には昔から助けられてきたし、華道家としても尊敬しているが、こういうところだけは辟易する。
 私は姪を抱いて椅子に座らせ、居間を出ようとした。
「いおちゃん、いっちゃうの?」
「あぁ。」
「ごはんは?」
「一緒だ。」
「はーい。」
 確認だけして、姪は再びテレビを食い入るように見詰めた。食事に義兄が同席できないせいか、彼女は私と父の間で夕飯を摂るのが好きらしい。
 そのまま廊下に出ると、姉が追ってきた。
「ね、そうやって自分のことは内側に押し込めるの、良くないよ。」
「・・・・・・」
「その子を諦めて、貴方は冬枯れの野辺になれるの?」
 冬枯れ・・・和歌だったか。急に言われると思い出せないものだ。
「古今集の伊勢。こないだ薫くんが、いーちゃん先生が可愛い子連れてたって言ってたんだから。」
 姉は両手を腰に当てて仁王立ちをしているが、いまいち何が言いたいのか判然としない。
「何の話だ。」
「あの子の名字は伊勢でしょ、で思い出したの。冬枯れの野辺と我が身を思ひせば、って。貴方、枯れてすらないのに春も来ないとか思ってるの?」
「女の言うことは本当に理解できんな。はっきり言ってくれ。言いたいことはなんだ。」
 薄っすら解っただけに、苛立ち紛れについ嫌味が口をついた。それを聞き逃さず姉の眉が吊り上がる。
「なにそれ男尊女卑?」
「あぁ、分かった悪かった、もう行っていいか。」
 女との言い合いはこうしてお門違いの方向へ飛んで行くから閉口する。こういうときはさっさと白旗を上げて逃げるに限る。
「あ・の・ね!」
 姉は踵を返した私の胸ぐらを掴み、強引に彼女に目を合わさせた。
 溜息が出る。着付けが乱れるから、こういう乱暴なことはやめていただきたいのだが。
「私は貴方に笑ってて欲しいの。」
「・・・・・・」
「応援したいのよ。姉ってそういうものでしょ?伊織には、ほんとに、幸せになってほしいの。だからね。」
 姉はどこか泣きそうな顔をしていた。
「・・・だから、好きな人がいるのなら、ちゃんと、想いを伝えるの。玉砕したっていいの。言わないで後悔するなら、言って後悔したほうがいいの。・・・分かった?」
 愛する娘と夫に囲まれて幸せだなど毎日言っている人間が、まるで後悔したことでもあるような顔をして。結局いま幸福なら後悔しても構わないのでは、と屁理屈を返しそうになり、口を噤んだ。あんな顔をして言われたら、頷かざるを得ない。
「分かった。」
 ほっとしたように姉は微笑んで、私の頭をよしよしと撫でた。
 三十も過ぎて夫も子供もいるのに、大の男にそういうことをするか、と思わなくもないのだが、私はどうも家族に甘い。大人しく、姉が満足するまで腰を曲げて好きにさせていた。

 その夜も義兄は遅くなるようだった。私のように不安定な職の方が良いとは思わないが、折角最も無垢で愛らしいと言われる時期の娘と過ごせる時間が少ないというのも、いささか不憫になる。
 姪の方は常の事と弁えているらしい。風呂は私と入ると言って譲らないので渋々一緒に入ってやった。湯上がりの乳酸菌飲料を飲み干すと、彼女は私の膝を枕に目を閉じた。
「そろそろ帰るわ。」
「今日の煮物、タッパーに入れて冷蔵庫にあるけど。」
「ありがと。」
 姉は手早く冷蔵庫にある御菜をバッグに入れ、膝の上の姪を起こした。
「ほら、帰るよ。おじいちゃんとおじちゃんに、チューして。」
「ん・・・」
 姪は眠そうに父と私の頬にキスをした。ほぼ毎日の習慣なのだが、父は嬉しげに目尻を下げている。
 抱き上げた姉の胸にしがみつくようにして、彼女はまた目を閉じた。小さな背に薄手のブランケットを掛けてやると、姉は「頑張れよ、青年」と言って帰っていった。

 明日は例の喫茶店の日だ。
 どのような顔をして彼と会うべきか。
 私の中で最早明瞭に形作られたこの感情は、姉が指摘するまでもなく恋情であり、しかしそれは友人関係を望む京一郎にとり歓迎すべきものではない。加えて私は、京一郎への想いと"あの"我々の記憶を失わぬために、京一郎の名を呼ぶことはできない。たとえいくら彼がそれを望んだとしてもだ。
 そのうち京一郎は愛想を尽かして去ってしまうかもしれない。がそれは同時に彼が私を必要としないということだから、だとして寧ろ好都合なのかもしれない。私が不要であるのなら彼の傍に居る必要はなく、名を呼ばぬことに悩む必要が無くなる。もちろん、私自身はそうなることを望んではいないが。
・・・など悶々と考えている己が愚かしく、うんざりする。
 そもそも私は記憶に囚われまいとしていたはずで、京一郎に対する千家伊織の感情についても傍観していただけだった。というのに、ここ最近、あの体の裡から突き上がるような、"あの"私の京一郎を呼ぶ声が聞こえなくなっている。つまり私が己を偽る方便としていた、京一郎への想いは"あの"私によるものであり私自身のものではないという言い逃れも、通用しなくなってしまったわけだ。
 姉の言うように、想いを告げるくらいした方が楽になれるのだろうか。仮に京一郎から気味悪がられたとしても、それで彼の記憶を失うのであれば、私は後悔するどころかこれまで悩まされてきた憂いを無くし、いま以上に楽に生きて行けるのではないか。
・・・しかし万一、京一郎が私の想いに応えようとした場合、私は告白したにもかかわらず最悪彼への想いごと彼を忘れてしまうという事態に陥り兼ねない。そうなると、京一郎の私への懐き具合からして、きっと酷く彼を傷付けることになるだろう。それはどうしても、私の本意ではない。それだけは避けたい。可能性としては限りなくゼロに近いのだろうけれど・・・・・・。

 その夜、入浴と歯磨きを済ませると大抵眠ってしまっているはずの姪は何故かまだ起きており、父の膝の上で彼女の気に入りのテレビ番組について滔々と語っていた。いつもより長居したことに気付いた姉が、慌てて父から取り上げて帰宅したはずだったが、家を出て10分もしないうちに姪が居間へ戻ってきた。
「どうした、忘れ物か?」
「うぅん、いおちゃん、おきゃくさんだって。」
「客?こんな時間にか。」
「うん。はやくきて。」
 うちを尋ねてくる客なら、通常教室を通してアポイントメントを取ってくるはずだ。まして自宅で会う約束などまずしないのだが。母を見遣ると彼女も首を傾げたから心当たりがないらしい。
「はーやーくぅ」
 姪が急かすので、渋々腰を上げる。
「どんな人が来たんだ?」
「あのね、おにいさん。やさしそうなひと。」
「男?」
「うん。」
 誰だろう。全く思い当たらない。
 姪は嬉しそうに私の手を引いてぱたぱたと廊下を小走りに行く。こんな時間まで起きていて、明日はちゃんと幼稚園へ行けるのか心配になる。
 玄関では姉が待っていた。私の姿を認めると軽く振り向いて後ろにいる男を促した。
「ほら、入って。」
 気さくな口ぶりだ。知人だろうか。その割には中々入って来ようとしないのが不審だな。
 姉がもう一歩踏み出し、彼は慌てたように体を小さくする。その姿にまさかと目を疑う。
 果たして彼女の影に背を丸くして隠れていたのは、京一郎だった。
 あまりにも不意のことだったので、一瞬理解が遅れた。
「・・・どうした、こんな時間に。」
 京一郎は気まずそうに下を向いている。
「いえ、私は・・・」
「ほら、こんなところに立たせておかないで、中で話したら?」
 姉はなにやらしたり顔で妖しく微笑んでいる。勘の鋭い女だから、余計なお節介を焼かれる前に早くこの状況をなんとかしたい。
「はやくはいらないと、かぜひくよ?」
 姪までが口を出してくる。ここは大人しく従って、彼女らにはさっさと退散してもらうのが良さそうだ。
「・・・だそうだ。上がれ。茶くらい出してやる。」
 京一郎はぎこちなく玄関へ入ると、小さな声で「お邪魔します」と呟いた。

  家族に優しい伊織さん。

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