One more time, One more chance 千家篇17 歓呼


「応接間がいいか。」
「いえ、本当にそんな、もう、本当に・・・!」
 京一郎はやたらと恐縮して、顔の前で手を激しく振った。何の用なのか知らないが、そんな様子も微笑ましい。
 電気の消えた居間の前を通ると、寝室へ向かうのだろう母とすれ違った。どうやら父はもう居ないようだ。
「あら、貴方のお友達だったの。」
「あぁ。」
「ぁ、ひ柊です!すみませんこんな夜遅くに!」
 機械のように勢いよく直角に腰を曲げたので、つい吹き出してしまった。
「今晩は。この間いらしていた方ね?伊織がお世話になりまして。」
「いえ!むしろ私の方が・・・あのすみません、本当に・・・すぐ帰ります」
「もう遅いし、よろしかったら泊まっていらしたら。客間のお布団、この間干したところだし。」
 母は、私もう寝るから好きにしてね、と洗面所へ入っていった。その機嫌の良さそうな、何か含んだような笑顔が、本当に姉とそっくりだ。何も勘付かれてはいないはず・・・だが・・・。
 京一郎はいよいよ私の背に隠れるようにして、つま先立ちでついて来る。
 まぁ母の了承を得られたので、これで時間を気にせず語らうことができる。幸い明日の午前中は特段の予定もない。はてさていったい京一郎は何をしに来たのやら。

 部屋に入り、辛うじて残っていた春摘みの葉で茶を淹れる。
「生憎この部屋では他人が寛ぐことを想定していないのでな。溢すなよ。」
 小さくなっていた京一郎は、ベッドに腰掛けても猫背のまま、唇を尖らしてカップを吹いた。
「それで、用件はなんだ。こんな時間に訪ねてくるとは、何かあったか。」
「いえ、だからさっきも言ったとおり、ただ近くを通りかかっただけなのに、お姉さんにつかまってしまって・・・。だから用なんて特段、何もありません・・・」
「ふぅん。」
 そういえば何故、姉も母も京一郎が私の知人だと気付いたのだろうか。先日部屋で待たせた際は、特段彼女らになにも告げなかったはずなのだが。見られていたのかな。

 気の早い秋の虫が、か細い声で鳴いている。
 思えば京一郎と夜に会うのは初めてだ。
 近くを通りかかったというが、こんな住宅地、用がなければ入り込むこともないはず。近所に友人の自宅でもあるのか・・・。
 両手でティーカップを抱える京一郎の頬は、薄ら赤らんでいる。
「お前・・・、飲み会の帰りか。」
「はい。・・・えっ、酒臭いですか?」
 慌てて腕の匂いを嗅いでいる。酒を飲んでも腕は臭くならんだろう。おかしな奴。
「んん・・・」
「ちょっと、嗅がないでくださいよ。」
 首元に顔を寄せると、京一郎は擽ったそうに首を竦めた。
「少し、臭うかな。」
 何の気なしに意地悪を言ってみると、思いの外傷付いたらしく、京一郎は身体を縮こまらせて私との間に距離を作った。
「・・・近付かないでください」
「なぜだ?」
 離れられた分だけ寄ると、あからさまに緊張した京一郎はぼそぼそと呟いた。
「・・・厭だから。」
「何が?」
 また小さくなって逃げるので、私も追いかける。
 楽しくなってきた。
「だから・・・、もう」
「うん?」
 壁際に追い詰められて、京一郎は首を竦め、俯いた。本気で嫌がっているわけではないようだが、それだけに頬を染めて身を捩る姿に情が煽られる。
 今は夜なのだし、多少の悪戯は多目に見てもらおうか。こんな時分に狼の巣を訪れる羊が愚かなのだ。
 私は京一郎の身体に覆い被さるようにして、ベッドに手をついた。
 耳まで赤くして、目をきつく閉じている。
「やだ、・・・て、言ってる、でしょう」
 か細い声で抵抗するのも、最早誘っているようにしか見えない。
「何が、厭なんだ。」
 ものはついでに、口付けてしまおうか。
 耳元に唇を寄せ、声を低めて囁く。
「なぁ、き・・・――」

・・・・・・危なかった。
 つい、京一郎、と呼んでしまうところだった。
「伊織さん・・・?」
 完全に、雰囲気に飲まれていた。私ともあろうものが。
 あぁ、本当に。
・・・本当にこの、まだどこか乳臭い青年に骨抜きにされている。
 茶でも淹れ直そう。
 焦燥を隠しつつ身体を起こそうとした腕を、京一郎は掴んだ。
「・・・・・・伊織さん、いま・・・なんて、言おうとしたんです?」
 兎に角いまは一旦距離を置くべきだ。
「ねぇ・・・・・・・もしかして、」
 京一郎に触れさせたままにしてはいけない。うちまで来たことといい、今日はやけに積極的だから気を付けるべきだろう。
 私を掴む掌を剥がす。
 させまいと力を込めた京一郎の、若草のように爽やかなはずの声が、重く湿度を含んで私を捉えた。
「・・・呼ぼうと、したんじゃないんですか。」
・・・・・・言うな。
「私の――」
 言わせるものか。
「あ!」
 ベッドの上に仰向けになった京一郎の持つカップから紅茶が溢れる。
「早く拭かないと、」
 起き上がろうとする京一郎の腕を押さえつけたままカップを取り上げ、サイドテーブルに置く。
 首元に唇を寄せる。
「んっ・・・ぁ、や」
 思った以上に反応が良い。
 指の先で首筋をなぞり、鎖骨をくすぐってやる。
「ぁん、いぉ、・・・ぅ、ん・・・」
 快感を堪えるように身を捩って、京一郎は私の腕に縋る。
 警戒されていなかっただけに、”あの”京一郎よりも容易く落ちそうだ。
「んぁ、や、やだ!」
 この目。変わらないな。
 いくら口で抵抗したところで、いずれ強請るようになるというのに。
「何が、厭だ?・・・ほら」
 耳に息を吹き込むように囁き、耳朶を噛む。
「っあ!」
 京一郎は慌てて口元を押さえた。
 感じている様に、血が滾る。たまらない。
「やめ、・・・や、だあっ、・・・め、伊織さ・・・」
 潤んだ瞳で、掠れ声が囁くように呼んだ。
 喘ぎに紛れて己の名を口走られる心地良さよ。
 今日は本当に犯してしまうかもしれない。
「伊織・・・っさん・・・っ」
 だとしても、京一郎の名を呼ぶことだけはしないよう、気を付けなければ。
「何でっ・・・こんなこと――!」
「・・・っふ。お前が、誘ったのだろう?」
「やめて、ください」
 必死に眉を吊り上げて、涙目のくせに気丈に言う。
 それも、触れてしまえば脆く崩れてしまうのだろう。
 崩れて、乱れて、懇願するお前が見たい。京一郎・・・・・・。
「やだ・・・て、言ってる・・・んっ、のに・・・」
 あと少し。
 最早抵抗する腕に力は入っていない。
 既に身体は快楽を求め疼いて仕方ないところを、辛うじて残る理性だけで踏みとどまっている。
 腕を押さえつけるのをやめ、胸を伝って腹を、そして腿を撫でる。それだけで、京一郎の口からは小さな喘ぎが漏れる。
「ぁ貴方は・・・っ」
 鎖骨に舌を這わせ、甘く噛む。
 小さく息を飲んだ音に満足した私は、続いて震える吐息を聞いた。
 泣いたか。
 あまりに心地良くて。

「貴方は、私なんか求めてないくせに・・・!」

・・・その涙の混ざった吐き捨てるような声が、湧き上がる熱に冷水を浴びせた。
「・・・・・・なに?」
 顔を上げると、大きな瞳は悦びに濡れているのではなく、深い絶望を宿し、静かに涙を流していた。
「早く私に記憶を戻して貴方の京一郎を取り戻せばいいじゃないですか。記憶のない私は外側だけ同じの慰み者だとしか思ってなかったんだ、貴方は。」
 何を言っている。私は”あの”京一郎が欲しいわけではない。
 身代わりにされたと思って怒っているのなら、誤解を解きたい。
 私が口を開くと、京一郎は重ねるように叫んだ。
「貴方は臆病だ。何を後悔しているのか知らないけれど、”京一郎”に会うのが怖いんでしょう。だから親切ぶって私に記憶を戻さないように仕向けたんだ。」
 何故、そうなる。
 後悔しているのは”この”私ではない。
・・・いや、もし私が後悔しているのだとすれば、記憶の中のことではない。”この”京一郎に会ってしまったことだ。
 姉は古今集を持ち出して、容易に忘れることのできる相手ではないだろうと私を諭そうとした。
 しかし和歌を用いるのであれば、私には詠み人知らずのこの歌の方がしっくりくる。
――逢ひ見ずは恋しきこともなからまし・・・・・・

「私は、・・・私、は・・・・・・」

 会わぬが良かった。関わらぬが良かった。”あの”私が後悔しているからとて、まさか私自身が京一郎に溺れるなど思いもしなかったのだ。
 そして、得たくとも得られぬお前の名を呼んでしまったら、きっと私は今以上にお前を求めて苦しむに違いないから。
 もうこれ以上、後悔したくない。
 何故なら私は・・・・・・――――

「私は貴方のことが好きなのに・・・。」

 喉を震わせて、京一郎が泣いていた。
 その声は、一瞬、己のものなのかと思った。
 そしてそれが京一郎の口から出た言葉だと理解したとき、私は考えるより先に、その名を呼んでいた。
「・・・・・・京一郎・・・・・・」
 身体中に熱く湧き上がってくる切なさと恋情と欲と恐怖に、みっともなくも腕が震えそうだ。
 京一郎は濡れたままの目を大きく見開いて、私を見つめている。
 愛しい。
 忘れたくない。
 失いたくない。
 私のものにしたい。
 もっと名を呼びたい。
 記憶を失くしたとしても、私は目の前に居る京一郎を忘れることも、京一郎に対する感情を失うことも、拒絶する。
 それが、”あの”京一郎の求める贖罪に応じないのが罪であるのなら、私は再び罪を重ねよう。
 たとえ赦されずとも、”この”京一郎と共に、もう一度、私は生きたい。
「お前には、敵わんな。今も、いつかも・・・」
 必然がここにあるとしたならば。
 私は京一郎と再び共に生きることがそれであると、信じたい。
 戦争も、呪いも、何もないこの世界で、今度こそ手を離さずに。
「伊織さん・・・?」
 私はそっと京一郎の両耳を塞いだ。
 私の仮説が正しければ、遅かれ早かれ記憶は間違いなく消える。その前にひとつだけ。
「・・・何?」
 ”あの”私の代わりに伝えてやろう。
 せめて、もう一つの世界で伝えられなかった言葉を、今度はこちらから。
「お前を、愛していた。」
 京一郎は、あどけない顔の力をふっと抜いて、私の髪を撫でた。
「・・・私もです。」
”あの”彼に、伝わったようだと分かった。
 記憶が消えてしまう前に、言うことが出来て良かった。
 私はもう一度、小さく京一郎の名を呼び、その唇に口付けた。
 京一郎が瞳を伏せるのにつられて私も目を閉じる。

 暗闇の中、あの記憶の様々な場面が、まるで写真のようにひらひらと漂っている。
 車の中で震えながら叫んでいる京一郎、執務室の書棚に目を輝かせている京一郎、恐怖に顔を引きつらせる京一郎、喜悦に啼く京一郎、あの夜、必死に手を伸ばす京一郎――・・・
”あの”私はあくまでも仕事人間だったはずだというのに、鮮やかな色彩に浮かぶ場面はどれも京一郎にかかわるものばかり。
 そしてその記憶たちは、どこかへ吸い込まれるようにゆっくりと消えてゆく。
 私はそれを、ただ黙って眺めている。
 背後から、黒い革手袋が伸びた。
 何処からか現れたもうひとつの革手袋が、それに指を絡める。

――ふふ。やっと、ですね。

 軍服を着ているが、”あの”京一郎のようだ。髪が伸び、腰まで垂れている。
 纏う外套は、擦り切れて傷んでいる。
 彼と指を絡ませたまま唇を重ねたのは、”あの”私だ。

――待ち草臥れましたよ。貴方、家族と幸せに生活していたら、随分と優柔不断になってしまったんですね。

 彼は私のことを言っているようだ。返す言葉も無い。
”あの”私は、ふん、と鼻で笑った。

――私もね、いっ時は我を忘れて貴方を求めたけれど、貴方の言葉で我に帰りました。この私はこの世界で自由に生きる権利があるのだから、確かに死んだ私が縛り付けていいものじゃない。

 あの公園でのことを言っているのだろう。

――でも同時にあの時、彼なら必ず、貴方を捕まえてくれると確信したんです。

――ねぇ、なんで黙ってるんです?

 彼は横に立つ情人の横腹を突いた。

――貴方、私を得る大義名分がないとか思って、この貴方に何も言えなかったんでしょう。理由として愛だとか恋だとか言うのが照れくさいから。

”あの”私は、言わずとも知れていることを敢えて言葉にする必要がなかっただけだ、など仏頂面で呟いた。

――ひねくれ者の貴方がたと比べて、こちらの世界の私は本当に初心で純粋で、お陰でどろどろとしていた私も随分と洗われましたよ。

 あぁ、もう消えてしまう、と彼は歌うように囁き、微笑んだ。
”あの”私は、私の肩をそっと叩くと、踵を返した。
 鏡に映ったようにそっくりな二人の後ろ姿が、手を繋いだまま並んで遠ざかってゆく。
 向かう先は光り輝いているように見える。
 一歩、また一歩と足を踏み出すたび、彼らの周りの風景は徐々に眩しく白くなり、視界から消えてゆく。
 完全にその姿が見えなくなる瞬間、少しだけ振り向いて、”あの”私が呟いた。
――贖罪など、不要だそうだ。

 瞼を上げると、京一郎が居た。
「京一郎。」
 呼ぶと、眩しそうに目を細め、京一郎は私の頬を引き寄せてキスをした。
「・・・伊織さん」
 想う相手に想われる喜びとは、こういうものなのだな。
 また先に言われてしまわぬよう、今度こそ告げる。
「お前が好きだ。」
 京一郎は一瞬顔を歪め、私の首を締めんばかりに抱きしめた。
「・・・好き。伊織さんが・・・・・・好きすぎて、どうしたらいいか分からない、くらい・・・」
 絞り出すような声に、身体が甘く痺れる。
「・・・お前という奴は。」
 あぁ。愛しい。愛おしくてたまらない。
「そういうときは、こうするものだ。」
 私は京一郎の両手に掌を重ねて指を絡め、深く、口付けた。


  

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