One more time, One more chance 千家篇18 後朝



――おおい、
 若草のように柔らかな声が、心細げに呼んでいる。
――おおい。誰か。
 真っ白な霧の中、何かを求めて声は呼ぶ。
――誰か、・・・
 その姿は霧に紛れてよく見えず、彼が何を求めているのかを私は知らない。が、できることなら、不安を和らげてやれたらいいと思い、手を伸ばした。
 彼が何処にいるのかも分からないけれど、届いてくれと願いながら、私の掌は霧を掴む。

 何度繰り返しただろうか。
 ふと、左手に柔らかな掌が重なった。
――・・・あぁ、
 白い霧が僅かばかり薄くなり、彼の影を現した。

――貴方だったのですね。
・・・お前だったのだな。

 頑なに折り畳んで放っておいたはずの感情が、花の開くように解けてゆく。
 重なった掌の温かさを確かめるように指を絡めて、しっかり握る。二度と離れないように。
 ずっと、こうしたかった。
 こうしてお前と共に、もう一度・・・・・・――――。

* * * * *

 奇妙な夢だった。
 が、不思議と厭な気がしない。
 この夢を知っている、とすら感じる。おかしな話だが、いったい、いつ見た夢だったのか・・・。
 まだ醒めぬ頭で記憶をゆっくりと探しながら、腕の中にしっくり収まった温もりを引き寄せる。
・・・・・・温もり?
 独り寝の布団にはまだ湯湯婆を入れる時期でない。猫でも入ってきたか。にしては随分嵩があるようだが・・・
 瞼を上げると、やや寝乱れた黒い髪が目に入った。
 見慣れたようでいてまだ新鮮なそれは、どこかほっと胸を温める。
 そうだった。
「・・・京一郎。」
 声に載せず呟くと、起きていたらしく、京一郎は顔を上げて、頬を染めた。
「っおはよう、ございます・・・」
 ぼそぼそと口籠もりながら、私の胸に顔を埋めてしまう。
 昨夜のことを思い出したのだろう。後朝に照れる様子は殊の外愛らしい。
 乱れた髪を梳いて、撫で付けてやる。
「・・・あの、」
「ん?」
「いま、何時ですか?」
 枕元の時計を引き寄せる。
 随分と早起きをしてしまったようだ。あれだけ交わって、それなりに疲れたと思っていたのだが。
「私、そろそろ帰ります。」
「まだ始発が出たばかりの頃合だろう。朝食を摂っていけ。」
「無理です、だって、貴方のご両親もいるんでしょう?」
「会うのが厭なら、ここで食べればいい。」
「ベッドに座って、ですか?また溢したら・・・っ」
 何か思い出したらしく、耳まで真っ赤になる。面白い。
「客間も結局お借りしなかったんですよ。夜通し貴方の部屋に居たこと、・・・変に、思われたら、・・・どうするんです」
「朝まで語り明かした、で済む話だ。」
「私は貴方みたいに白々しくしていられる自信がありません!」
 言いながら京一郎はするりとベッドから抜け出し、手早く服を着てしまった。
 まだ名残惜しいが、確かにこの様子で会わせては、母が不審がる可能性がある。こういうことには、女の方がよく気が付くようだから、万一姉などに鉢合わせたら面倒だ。
「・・・分かった、駅まで送る。」
 手近にあった浴衣に薄物を羽織り、足音を忍ばせてそっと玄関を出る。
 まだ星の浮かぶ空を見上げると、枯葉の香りが鼻腔を冷やした。

 並んで歩くと、時折手先が触れる。
 触れるたび、京一郎の指先が微かに曲がり、離れる。
 何度目か。
 捉まえるように、指を絡めた。
 京一郎がはっとこちらを見る。
「なんだ。」
 小さく俯いた控え目の微笑は、満足しているということらしい。
「・・・いえ。」
 遠慮がちに握り返す指先が、温かい。
 京一郎、と囁くと、伊織さん、と返ってきた。

 早朝の道は、我々だけだ。朝に運動する人種はこのあたりにも存在するのだろうが、今朝に限って誰の姿も見えない。
 静かな街に二人きりで歩いていると、まるで夢の続きに居るような気がしてきて、あの夢は特段不吉なものではなかったのだが、らしくなく私は問うた。
「次は、いつ来る?」
「・・・・・・え?」
「また来るだろう?」
 京一郎は困ったように、繋いだ手を少し強く握った。
「・・・・・・来たい、です、・・・けど、伊織さんのお家は、家族の方がいらっしゃるから、・・・なんというか、あの・・・」
 成る程な、うちには来づらいか。
 確かに、この歳になって実家の居室に、しかも同性を頻繁に招くのは、いささか不自然かもしれない。
「ではお前の家に私が行く。一人暮らしだったな。」
「え、・・・あ、はい、でも、あの狭いですけど」
「お前と私が入る広さだけあれば十分だろう。」
「そう、ですね・・・」
 京一郎は小さくくしゃみをして、鼻を啜った。
「ね、連絡先交換しましょう?伊織さん携帯持ってます?」
「部屋に置いて来てしまったな。」
「じゃあ、私の、書きます。」
 駅に着くと、京一郎は鞄からメモ帳を取り出して、電話番号を書いてよこした。
「お家に帰ったら、ワン切りでいいんで掛けてくださいね。」
「分かった。」
 改札前で肌寒そうに両腕を抱えたから、着ていた羽織を掛けてやる。
「・・・ありがとう、ございます・・・」
 しばらく名残惜しそうに俯いていた京一郎だったが、意を決したように改札をくぐると急に振り向いて叫んだ。
「ワン切り!忘れないでくださいね!」

 自宅へ戻り、シャワーを浴びてもまだ多少朝食までは時間がありそうだったから、布団に寝転んだ。
 京一郎の香りが鼻先をくすぐる。まだ馴染み薄いはずなのに、不思議な懐かしさが込み上げる
 髪は、黒くて艶やかだった。運動をしているからか、身体は柔らかく、体力も随分あるようだった。
 昨夜の、薄目を開け頬を上気させて善がりながら私の名を呼ぶ様は、いま思い返しても身体の内側が震えるほど愛おしい。
 ベッドはこのままにしておきたいところだが、気を利かせた母などが触れないうちに、シーツも掛け布団も早目に洗って干すべきだろう。
 京一郎のことを思うとつい、口元が緩んでいるような気がする。これでは勘の良い誰かに何を言われるか分からない。
 私は身体を起こすと、経済書を書棚から取り出し、朝食に呼ばれるまで眺めていた。
 案の定、朝食の際には母から京一郎はどこへ行ったと訊かれたから、講義のため帰ったと伝えたら納得した。

 午前中の用事を終え、何気なく手帳を開き、今日が例の喫茶店の日であることを思い出した。
 駅ではまるで七夕の夜明けを嘆く織姫のごとき様子の京一郎だったが、結局日を待たず逢えるではないか。可愛い奴。
・・・いや、それを言ってしまうと、次はいつ来ると訊いた私こそ、余程女々しい。
 つい、溜息が出た。
 一回りも下の青二才に篭絡されるとは、私ともあろうものが。
 そんな己のことが、そこまで厭でもないのは不思議なものだな。
「・・・え、なに?」
 ぼうっとしていた。廊下ですれ違った姉が急に声をかけてくるから、ぎくりとした。
「なんだ。」
 姉は、不気味なものを見るような目でこちらを見た。
「いおが鼻歌とか、・・・」
 鼻歌など、歌っていない。多分。
「わ、キモチワル」
 失礼な。
「わー、きもちわるいー」
 繰り返しながら、彼女は両肩を抱いて足早に去っていった。
 余計な詮索をされなくて良かった。
 早めに出かけようと玄関の引き戸に手を掛けたとき、遠くから声が聞こえた。
「あ、ねぇ、昨日柊くんさあ、」
 面倒なので、ぴしゃりと扉を閉める。
「ちょっと、おーい!」
 くぐもった声を背に、私は機嫌よく坂を下りていった。

 喫茶店に着くと、京一郎が先に来ていた。
 忙しなく入口と携帯電話を交互に眺めている。
 こちらと目が合うと、立ち上がりかけて頬を染め、気まずそうに腰を下ろす。
 席に着き、開口一番、いきなりなじられた。
「伊織さん何で電話してくれなかったんです?」
「電話?」
「ワン切り!してくださいって、言ったでしょう?」
 あぁ、今朝のメモのことか。
 帰宅したら忘れて放置していた。それに、どうせここで会うことが分かっていたから、もういいかと思ったのだが。
「良くないです!私、早く連絡したかったのに。」
 スマホ貸してください、と私の手から奪うと、京一郎はしばらく二つの電話を交互に操作していた。
「はい、できました。私の連絡先、アドレス帳の”ひ”のところに入ってますから。」
 屁理屈にはなるが、そこまで急いで連絡先を交換し合う必要があるのだろうか。これまでも、特段の連絡手段無く定期的に会っていたというのに。
「・・・今日は都合が悪かったのか?」
「いいえ。でも・・・」
 京一郎はどこか気まずそうに他所を向いた。
「でも?」
 促すと、紅茶を啜りながら小さく呟く。
「・・・・・・伊織さんは、映画とか、観ますか?」
「まぁ、人並みにはな。」
「昔観た作品に、厳格な家の女の子を自分のものにしようと、同じ学校の男が手を尽くすという場面があって、」
「ほう。」
「彼の様々なアプローチの果て、ダンスパーティーの夜に、結ばれるんですが、・・・」
 言いづらそうに京一郎は押し黙る。
「・・・えと、その」
「うん。」
「・・・・・・事が、終わっ・・・たら、彼はその女の子への興味が冷めてしまうんです。あんなに求めていたというのに。」
「ふぅん。」
 ありがちな設定ではあるが、観たことがあったような気がする。その家の娘が全員自殺する話だったか。
「それが?」
「・・・いや、だから・・・」
 京一郎は、何やら怯えたように、それでいて恨めしそうに、こちらを見上げた。
「・・・伊織、さん・・・も、そうだったら、とか・・・思って・・・・・・」
「何故そうなる。」
「だって・・・だって私、初めてだったんですよ!・・・でも伊織さんは、慣れてる・・・みたいだったし・・・電話するって言ったのにしてくれなかったら、不安になるに決まってるじゃないですか!」
 京一郎はきゃんきゃんと喚いた。といってもここは公の場なので、あくまで小声ではあるが。
「つまりなんだ。お前は私に抱かれた挙句捨てられるのではないかと、やきもきしていたというわけか。」
「・・・っ!」
 京一郎は顔を真っ赤にして、こちらを睨んだ。今にも、責任を取れなど言い出しそうな様相だ。
 まるで生娘だな。まぁ実際さして変わらないか。
 頬杖をついて覗き込むと、引き結んだ唇が尖った。
「電話しなかったことは謝る。それでは不満か?」
「・・・・・・むぅ」
「だがお前は私の純情を疑うと?」
「そ・・・じゃ、ないですけど、」
 その不満顔が愛おしくて、もっと苛めたい気に駆られる。
 が、それは別にここでなくてもいいか。
 テーブルの上に握りしめた手を持ち上げて引き寄せる。京一郎は不満顔のままそれを眺める。
「昨日のお前は、とても良かった。」
「っな、・・・・・・なに、を・・・っ!」
 そのまま指先を咥えようとしたのだが、勢いよく引っ込められてしまった。
「京一郎。」
「・・・っかっ・・・」
「京一郎?」
 動揺した様子で立ち上がった京一郎の椅子が、後ろの席にぶつかった。
「すみませんっ!」
 元気良く振り向きざまに謝ったが、そもそもその席には誰も座っていない。その勢いでこちらへ向き直り、京一郎は声を抑えて叫んだ。
「帰るっ!」
「落ち着け。」
「厭だ、帰るっ!」
「京一郎。」
 腕を掴むと、びくりと肩を震わせた。
「私はいま来たばかりなのだが。」
「・・・知らない」
「今日、私はお前に会いに来たのだが。」
「・・・・・・うぅ・・・だって」
「お前は私と会いたくなかったのか?」
「違います・・・」
 揶揄いすぎたのがまずかったようだ。つい、苛めるか揶揄うかしてしまうのは私の悪い癖だ。京一郎以外には、そのような気になることはないが、どうも己には小学生男児のような性癖があるようだと、いま気付いた。
「ならば京一郎、もう少しここに居ろ。」
「・・・・・・ねぇ、伊織さん、」
「ん?」
 京一郎は立ったままそっぽを向いて、囁くように言った。
「うち、・・・・・・来ます?」


  ・・・っはいスイマセンっ!オマケ、考えてますんで、一応・・・! ただのラブコメっぽくなってきて一安心。いつ終わるんだか。

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