One more time, One more chance 千家篇19 不安


 京一郎の自宅は、湯島天神の近くにある小さなアパートだった。
 部屋に上がるなり、京一郎は振り向き様に抱きついてきた。可愛い奴だ。
 ツンデレというのはこういうものかと思っていると、そのうち肩が震えだし、小さく嗚咽の声が聞こえてきたものだから、流石の私も動揺した。
「京一郎、どうした。落ち着け。」
 何を言っても首を振るだけなので、背中をさすってみるが、落ち着くどころかそのうちしゃくり上げて咳き込み始めた。ついには膝から崩れ落ち、これは救急車を呼ぶべきかとスマホを取り出すと、叩くように取り上げられ、どこかへ隠されてしまった。
 女のヒステリーならとりあえず適当に謝りつつ褒め言葉など掛けておけばそのうち治まるが、京一郎の場合は理由がいまいち不明瞭なだけに、困惑する。まさか持病などではないのだろうが・・・・・・。
 喫茶店では私の愛が一過性のものなのでは、というようなことを言われたが、その割に自宅へ呼ぶなど、その行動と発言から真の意図が読み取れない。
 途方に暮れた私は仕方なく京一郎を抱きしめて、ぐずった姪にするように背中をそっと叩きながら、激情の去るのをひたすら待った。

 どのくらいそうしていただろうか。
 気付くと京一郎は脱力した様子で私の胸に頭を預け、黙って窓の外の木を眺めていた。
「・・・京一郎?」
 呼ぶと、のろのろと顔を上げ、弱々しく微笑んだ。
「・・・ごめんなさい。」
「何があった?」
「いえ、何も・・・」
「そんなわけがなかろう。言ってみろ。急にどうした。」
 頬を両手で持ち上げると、真っ赤な目が瞬いた。
「・・・変、なんです、私。」
「何が。」
「昨日、伊織さんに・・・告白して、伊織さんも好きだって、言ってくれて、嬉しかった・・・はず、なのに・・・」
「うん。」
「・・・明け方に、見たゆ・・・夢、」
「夢?」
「真っ白な、霧の、ような、ものが、立ち込めるところに、居るんです、けど、誰も居なくて、」
 私の見た夢に似ている。不思議な偶然もあるものだ。
 瞬きに促されて、京一郎の頬を涙が細く伝った。
「私は、誰かを、呼んでいるけれど、誰なのか、分からない・・・」
「・・・・・・。」
「でも、そのうち、誰かの手が私の手を握って、あぁ、会いたかったのは、この人だった、って思った・・・」
 そんなところまで似ているとは、偶然を通り越して多少気味が悪くなるくらいだ。が、私の場合、夢の中では心が温まるような気がし、目覚めは爽快だった。対して、京一郎のこの様子はなんだ。
「伊織さんだって、思った、けど、手・・・つ、ないでる、のに・・・」
 また唇が震え始める。
 私の夢は、あれが京一郎なのだと知ったところで終わったが、彼は違ったようだ。
 いや、そもそも同じ夢を見るなど不可思議なことが、起こるものだろうか。
 そして何故だか、私は胸の奥に罪悪感のようなものが微かに生まれるのを感じる。
「・・・手を、繋いでる貴方が、居なくて、・・・っ」
 京一郎は俯いて、私の両手を強く握った。
「起きたら、貴方は私の目の前に居た、から、夢のことなんて、気にすること、ない・・・て、・・・すぐ、に、忘れる・・・て・・・思おうと、したのに・・・っ」
 私は両腕を拘束されたまま、その唇に口付けた。
 下から見上げて、悲し気な息を飲み込んでしまうように、何度も。
 京一郎は確かめるように、私の唇を噛んだ。
「伊織さ・・・いお、伊織・・・」
 くちづけの合間に呼ぶ声はまるで、迷子の子供のように心細く、寂しく、頼りない。
 午後になってからの京一郎の様子がおかしかったのは、私の純情への疑惑ではなく、私の存在そのものへの不安が原因だった。
・・・・・・私が悪い。
 ここまで京一郎を怯えさせる要因に思い当たることなど何もない。が、それでも、私のせいなのだと、思った。
「悪かった、京一郎。」
「伊織さん・・・」
 理由もなく誰かに心から謝るなど、私らしくない。けれど私には、そうするだけの何かがある。根拠はない。けれど、確信めいた何か。私が京一郎にしたこと・・・・・・――。
「許せ。」
 京一郎は私の手を解くと、私の身体を抱きしめて、はらはらと涙を零しながら、囁いた。
「どこにも、行かないで。」
「分かっている。」
「置いていかないでください。」
「私がお前を手離すものか。」
「約束、ですよ。」
「約束だ。」

 また暫く無言で抱き合っていた。
 薄く開いた窓から、夏の終わる空気に紛れて、近所で夕飯の支度をする香りが忍び込んでくる。
「・・・・・・おかしいなあ。」
 京一郎がぽつりと呟いた。
「私、貴方に置いていかれたことなんてないはずなのに。」
「・・・そうだな。」
「・・・なのに、謝るんですね。貴方らしくないや。」
「・・・そうだな・・・。」
「ふふ。」
 どこか満足そうに笑って、京一郎は顔を上げた。
「今日の夜はお仕事、あるんですか?」
「いや、特別用はない。」
「じゃあ、うちで夕飯、食べていってください。カレー作りますから。」

 それから二人で近隣のスーパーマーケットへ行って買い物をし、私はほとんどやったこともない炊事の手伝いをし、京一郎が主になって作ったカレーライスをおっかなびっくり盛り付け、火のない炬燵を囲み、テレビを見ながら食べた。
「お前、毎日こうして自炊しているのか。」
「できる日は。でも、お惣菜買って済ませることもあるし、ご飯と卵とか、ふりかけだけの日もありますよ。」
 驚いた。
 生まれてこの方実家を出たことのない私は、自宅では母か姉の用意した食事を当たり前のように食していた。幼い頃は姉と共に家事の手伝いをさせられたこともあった気がするが、小学高学年にもなると華道にのめり込んでいたから、手伝うという発想がなかったし、親からもそれを期待されなかった。そのため家事知識といえば、風呂を沸かすボタンか洗濯機のボタンを押す程度しか持ち合わせていない。湯を溜めても湯桶を洗ったことはないし、洗濯機が済ませた洗濯物の干し方を知らない。台所は何となく女の領域と思っていたから、コンロの火の点け方すら、先程京一郎がやるのを見て知った程だ。
 が、京一郎はそれを、東京へ出てから己一人でこなしているのだ。
「良くやるな。私には到底真似できん。」
「母から、男だからって家事もできないような朴念仁は許しません、って、厳しく仕込まれましたから。」
 うちは女性が強いので男は従うほかないんです、と、彼はどこか楽しそうに付け加えた。
「兄弟がいるのか?」
「妹が一人。ちょっと前までは私にべったりで可愛かったんですけど、最近は口が達者で参ります。」
「今日び、どこも男への風当たりは強い、か。」
「そのようです。」
 姉のことを思い出したのだが、京一郎も察したらしく、顔を見合わせて苦笑した。

 夕食を済ませたらすぐ帰ろうと思っていた。
 が、まだどこか不安定な京一郎はそれを嫌がり、私はそのまま京一郎の家で夜を明かした。
「ふふ。」
 布団の中で私の胸に顔を寄せて、京一郎は小さく笑う。
「伊織さんの匂い、なんだか懐かしい。」
 懐かしいか。なぜ私も彼もそう感じるのだろう。
――しかし、京一郎の不安への罪悪感を含め、それは思い出す必要のあることなのだろうか・・・・・・。
「おかしなことを言うな、お前は。こうして寝るのは、まだ二度目だぞ。」
 私は京一郎の前髪を指先でそっと除け、額にキスをした。
「そうなんですけど。」
 京一郎はまた小さく笑い、顔を上げて、私の唇にキスをした。
 貴方と居ると安心して眠くなってくる、と呟いているうちに、本当に寝てしまった。今日は早起きだったうえに随分と感情の起伏が激しかったし、長いこと泣いていたから力尽きたようだった。
 泊まっていく気のなかった私は、安らかな寝顔にほっとすると同時に、むくりと湧き上がった面倒な欲情を抱え、狭い布団でそっと寝返りを打った。

「彼氏が不安がる?」
 心から呆れたように、姉は口を曲げた。
「いつも一緒にいたい?依存するタイプってこと?」
「そうではないようだが・・・」
「ストーカーになる可能性は?早目に別れるよう言ってあげたら。」
 知人女性からの相談で、と前置きして意見を聞いてみたのだが。無意味だったと内心溜息をついた。無論、京一郎のことだ。依存やらストーカーやら、そのような単純な話ではない。私と彼の関係はただの恋人と一括りにできぬ、もっと何か深い繋がりがあるもの――。
「じゃなかったら、ちょっと恐いけどいっそ同棲してみるとか。それで束縛とかDVの兆候がありそうなら、やっぱその人は難ありだからやめておくべき。」
 成る程、同棲か。それは思いつかなかった。
「てかさ、男の人のこと私に訊いてどうするのよ。いおって女のあしらい得意なくせに、色恋ごとに疎いよね。のわりに相談されるって、やっぱ経験豊富だと思われてるんじゃないの?」
「やめてくれ。」
 私が女のあしらいに長けるとするなら、それは姉を筆頭とする家族と、門下生らのせいだ。私に初めて鋏を持たせたのは祖父だが、彼の亡き後師範を継ぎ指導したのは祖母と母であり、その下、姉や他の女生徒たちとずっと机を並べていたのだ、否応なく彼女らへの対応には器用にならざるを得なかった。
「なら、さっさと彼女紹介して。まさか付き合ってないなんて言わないよね。いい子はみんな結婚してる時期なんだから、ぼうっとしてると本当に取り逃がしちゃうよ?」
 私の世代も最後の結婚式ラッシュが終わるころだわ、と姉は肩を竦めた。
 彼女であれば、私の相手が京一郎だと言って、受け入れてくれるのだろうか。
・・・・・・馬鹿なことを。
 私と彼の関係は、私たちだけが知っていればいいこと。というより、まだ始まったばかりなのだ。
 とにかく不安定な京一郎を不安なまま放置するべきではない。なにより私は京一郎を失うわけにはゆかない。
「分かったよ。彼女には親身になって話をして、その男はやめて私に乗り換えるよう誘ってみよう。」
「ちょっと?貴方の彼女はどうなったの?」
「ご想像にお任せする。」
「いお!」
「そろそろ次の教室だろう、忙しいところ付き合わせて悪かったな。」
「そんな風だとね・・・」
 姉は腕を組んで斜め下から挑発するように言った。
「柊くんに、先越されちゃうわよ。」
 つい、笑ってしまった。

  あとちょっとなんですけど、管理人状態不良のため、これから更新が不定期になりそうであります・・・ッorz

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