One more time, One more chance 千家篇20 花束(最終話)
私は実家を出て、京一郎と暮らすことに決めた。
あれから何度か京一郎と会い、日によっては夜を共にした。あの翌日のように酷く取り乱すことは以来今のところないが、やはりくちづけの合間に、行かないで、など呟くことがあり、決まってあとで無理に笑顔を作って謝ってくる。
自ら不安だとは言わぬが、彼が私を失うことを極端に恐れているのは明白で、恐らく京一郎の過去に何かあったこと、私がそれを想起させてしまうようであることは、お互い何と無しに了解していた。
これまでは側に居てもほとんど大した会話をしなかった我々は、想いを伝え合ってからはまるで久しぶりに再会した旧友のごとく、堰を切ったように色々な話をするようになった。生い立ちや家族、仕事や学校生活について、東京で懇意にしている彼の親戚のこと……。
聞けば彼の伯父の経営する会社は、私も参加する催しのスポンサーだった。意外なところで繋がりがあるものだ。
部屋を決めておおむねの手続きを済ませ、家族に家を出ることを伝えた夜、父親に呼び出された。彼も私もよく喋る方ではないので、改めて向かい合って座るとどうも居心地が悪い。
不仲というわけではない。私の家族は皆そうだが、特に父は幼少の頃から過保護のきらいがあり、恐らく今も、なにか要らぬ心配を伝えたくてうまく言葉にできないといったところだろう。そんなとき、意を汲んだ言葉をかけてやれないのが常だ。
「荷物はきちんと片付けるから、空いた部屋は物置にでもしてほしい」
言うと案の定、彼はぎょっとして呻いた。
「いつでも戻ってきていいんだ。そもそも私たちは出ていってほしいなど思っていない。」
だろうな。分かっている。
不満を隠さず、父は続ける。
「新しい建物なんだろう。シックハウス症候群やら隣人とのトラブルだとか、共同住宅は良い話を聞かない。」
「心配ないよ。」
「夕食どきの面子が減るのも、あの子が可哀想だ。」
姪まで引き合いに出してきた。
「こちらの手伝いをする日は寄る。」
「もしお前が独りで倒れでもしたら、ーー」
ついに本音が出たので、思わず声を上げて笑ってしまった。
「笑いごとではないんだ。」
父は恐ろしい予感に震えるかのように、私の肩を掴んだ。
「お前にまたなにかあったら、私はーー」
昔からの口癖だ。
だが、過去に何かあったことなどないのだ。事件や事故、怪我や病気を含めても、大きなものは一度も。隠しているのではない。母も姉も、同様に私を過剰に守ろうとしてきたが、よく聞くと決まってその不安の具体的な理由には行きつかない。
だからこの問答も、いつもの、ある意味ルーティンでしかない。
「ありがとう父さん。けれどいつまでも嫁入り前の娘のように扱われるのは居心地が悪い。そろそろ諦めてくれないか。」
「子供の心配に男も女もない。」
「30にもなって親離れできないと、同輩から陰口を叩かれているんだ。」
残念ながら事実である。おそらく耳にしたことがあるのだろう、父は口をつぐみ眉間に皺を寄せた。思春期も反抗期も過ぎた私は、そんな様子も愛しく思ってしまう。
結局、様子を見にきた母に説得されて、彼もついに子離れを承諾した。
引越しと作品の納品と家の手伝いとで、急に忙しくなった。
京一郎にも伝える必要があったが、どうせ承諾するだろうと後回しにしているうちに引越も終わり、気づいたら10日も会っていなかった。電話では平気だと強がっていたが、また不安定になっているかもしれない。とにかく急いで新居を見せることにした。
荷解きの終わらない殺風景な部屋は退屈だろうから、せめて花でも飾ろう。新生活、新居、新婚、結婚式……ウェディングブーケ。
浮かんだ連想につい苦笑した。京一郎に与えたら喜ぶだろうか。
考えれば考えるほど、作らない理由がない気がしてくる。相変わらず時間に余裕はなかったが、自分の中で節目の作品となる予感に突き動かされ、ここ数年で一番頭を捻った。
イメージをスケッチしてみても、なかなか思い描くものに近づかない。本来ならひとりでじっくり考えるところだが、やむなく姉に意見を聞いてみることにした。
「こんな時にそんな難しい依頼受けたの?」
「依頼ではない。」
「じゃなんで?」
「自己研鑽。」
「いや、貴方ブーケ作るタイプじゃないでしょ。」
確かにこれまではそうだったが。
「技量を磨くに越したことはないだろう。」
「違いすぎ。しかも男性向けなんて、頼まれもしないのに作らない、キミは。」
勘繰る視線が鬱陶しい。いちいち理由など言うか。
「参考になった。あとは独りでやる。」
「あ、ちょっと……ねえいお、」
姉は躊躇いがちに目を伏せ、それもしかして、と言いかけて、何かに気付いたように顔を上げた。
「柊くんに……?」
やはり知られてしまった。彼女には隠しごとはできない。
が、考えてみれば隠す理由も無いような気がして、私は否定するのをやめた。
「流石、というべきか。」
「そっ……か、あぁ、そう……」
幼少時から弟を気にかけてきた姉は、その恋人が男だと知ってもなお、味方をするのだろうか。なんと言われようとも構わない。ある程度の言葉は想定済みだ。が、それでも否定的な反応が来るだろうことを覚悟して、私は彼女が口を開くのを待った。
「そっか、彼女じゃなかったんだ。……彼氏、か。」
その呼び方はどうも馴染まないような気がするものの、あまりに物分かりが良過ぎて拍子抜けした。驚かないのだろうか。気乗りしなかったとはいえ、彼女の友人と交際していたこともあったというのに。
「え?そういうことだよね。まさか柊くんが他の子と結婚するとか、そういうんじゃないよね?」
「違うよ。姉さん、意外に冷静だな。……怒らないのか。」
「なんで?」
「いや、……」
察しのいい彼女は戯けてみせた。
「そりゃあ流石に驚いたけど。でも貴方、性別で人を好きになるわけじゃないでしょう。」
自覚していたわけではないが、そうなのかもしれない。私の場合、"絶対的"でないと、誰であろうがどうにかなりたいという気は起きないらしい。
ひと回り近く年少で生まれも好みも違う、あの控え目な男のどこがと問われても具体的な答えはない。彼しかないという事実が、明白にあるだけ。
「いおに、ブーケ渡したいくらい好きな子がいるって、すごいことなんだよ。」
素直に認めるのがやはり癪で、私は首を傾げた。
「そうかな。」
「伊織。」
滲む涙を拭いながら彼女は私の背をぐっと押して、よかったと繰り返した。
母の手伝いの後に、教室でブーケを作った。父の膝に姪を預け、姉も手伝ってくれた。その後いつものように姪と風呂に入り、うっかり花を置いて帰ってしまった。
翌朝、約束の前に回収するため実家へ向かう途中、姉と京一郎に鉢合わせた。実家に呼ばれたと思い込んでいた京一郎は、新居のことを伝えると思った以上に驚いているようだった。
とにかく部屋を見せて安心させようと、すぐに電車に乗せたが、困惑した様子で落ち着きをなくしている。厭ではないようだから、恐らくは実家への説明に悩んでいるのだろう。考えれば私ですらすんなりとはゆかなかったのだし、まして成人したばかりとなれば尚更、親が心配するのも道理だ。
転居は性急だったか。
部屋に入ると、それなりに気に入った様子ではあったが、やはり棒立ちになっている。借りてきた猫のようだ。初めて実家に来たときはもっと楽しそうだった。ここに居るのは後にも先にも二人だけなのだし、必ず喜ぶと思ったのだが……。
「悪くはないだろう?」
つい焦れて、同意を促してしまった。
「とても、素敵だと思います、けど……」
これまで、近しい人間についてはさほど気を回したことがなかった。多少下手な対応をしたところで関係が深ければまず問題にならないし、相手にどう思われるかなど気にする必要がなかった。
だが今、もししたら生まれて初めて、私は他人の一挙一動を注視していた。というより、彼の言動に私の喜怒哀楽が連動していると言った方が正しいか。
まさか断るなど、あるのだろうか。確信めいていたものが不意に揺らぐ。
私と共に居たいのだろう?違うのか、京一郎。
諾と言うよう仕向けることはできる。が、極力彼の自然な意志で選ばせたい。居てほしいと言えるなら容易い。できない己は不器用なのだと思い知った。
京一郎。
背から抱きしめてみた。
「わ、なんですか」
思えばこのところは本当に忙しかった。新居では共にいられると思って遣り過してきたのだ。会えない不満と、寂しさを。
目を覚ましたとき温もりが傍にないのは、もう耐えられない。
私なりに言葉を尽くして伝えたというのに。
「貴方、そんなに欲求不満なんですか。」
耳を赤くしながら振り返った目は床ばかり見て。
「厭か?」
目を合わせて欲しくて、キスをした。
「そうじゃない……けど、」
ーー命が繰り返すならば 何度も君のもとへ
ーー欲しいものなどもう何もない
ーー君のほかに大切なものなど
ふと脳裏に甦った歌詞が、背中を押した。
「お前と共に暮らしたい。……また。」
黒い瞳が私を映し、京一郎はもどかしそうな顔でゆっくり瞬きする。
くちづけが欲しいかと問うてやろうか考えていると、ふと首を傾げて呟いた。
「……私は、貴方と一緒に住んだことはないはずですが……。」
なにを当たり前のことをと言いかけ、先に己の口をついた言葉に違和感を覚えた。
そうだ。初めてなのに、また、というのはおかしい。
何故……?
「そういうときは、もう一度、って言うんですよ。」
「同じだろう。」
京一郎もおかしい。
「だけど、なぜだろう。初めての気がしない……」
揃ってどうも間が抜けている。
「同感だな。しかし理由がない。」
京一郎が寒そうに肩を抱いたので、窓を閉めた。
ソファに腰掛け、冗談を言い合いながら花束の包みを開く。
「わぁ……!可愛いですね。結婚式のお仕事ですか?」
気に入ったようだ。
賛辞には比較的慣れている方だと思っていたが、相手に向けて作ったものを本人から褒められるのがこれほど嬉しいとは。柄になく、照れてしまう。
「仕事ではなく、私事でこういうものを作ったのは、初めてだな。」
たとえばそれらしく差し出すことだってできたのに。鉛筆でも貸すように渡してしまった。
両手で受け取った京一郎は、ブーケをまじまじと眺め、
「伊織さん、これ――」
真正面から見てくるものだから、取り繕うこともできなくなり、私は目を逸らした。
奥ゆかしい彼は言葉にするのを躊躇って、こちらをじっと見つめている。少しだけ不安そうに。
視線が痛い。服を剥ぎ取られて、舐め回されているようだ。
「それで。」
分かっているのなら、お前が答えろ。
「どうするのだ。私のところへ来るのか、来ないのか。」
本気なのだと、改めて思い知る。彼の愛がなにより欲しいのは、私なのだ。
女あしらいは得意な方だった。京一郎の相手だってもっと上手くやれるはずなのに、今日に限って、姉に叱られた幼少時のような態度しか取れない。
いつの間にか私の袖を掴んでいた彼は、何か得心したように手を離して小さく笑った。
「……貴方って人は。」
なんだ。早く言え。
「仕方ないですね。」
京一郎は、花束からスズランを一本取り出した。
「どうせ、私が来ないなんて選択肢、貴方の中には無いんでしょう?」
当たり前だ。お前も大概、強情なのだ。私を焦らすなど百年早い。
「ねぇ、伊織さん、」
髪に挿す花の茎が耳を掠めて、思わず笑った。
「私の名前を、呼んで。」京一郎が私の頬を撫でながら囁く。
もう一度、この花のように笑うお前の傍に。何度生まれようと。
「愛している。京一郎。」
<了>