One more time, One more chance 千家 3 邂逅



 陸軍少将・千家伊織の柊京一郎に関する記憶は、外面からすればひとえに身勝手で残酷で、京一郎はただ手懐けられた上に勝手に死なれた被害者でしかない。
 千家伊織自身も、己を自嘲するように、そう考えていた。
 しかしながら私も千家伊織であり、ゆえに彼が一方で己の言動を人生を自嘲しながらも、他方で異なる感じ方をしていたことを知っている。
 護国と信じた方策を果たすため、その力を利用せんと京一郎を攫ったのは事実。初めそこにそれ以上の感情はなんら介在していないはずだった。しかしながら彼と関わるうち、さして興味もないと思っていた小生意気な青二才の持つ性質に加え、その言動、聡明さ、情深さに絆されていった。
 千家伊織が柊京一郎に求めたのはその並外れた異能力であり、他の部分、とりわけ千家伊織個人に対して得られる福利について期待などしていなかったが、関わりを通して京一郎が自ら彼に与えるようになったのは、紛れもなく心身の安らぎそのものであった。
 死に際に、腕を斬ってまで京一郎を生かした理由は、もちろん彼に己の後継者たる性能を認めていたからであったが、真の理由は異なると私は感じている。
 千家伊織という男、私自身であるからよく分かる。彼は己の心にすら、本心を映すまいとしており、だから記憶を得てもはっきりとそれは伝わらない。もしも他人が私のようにこの記憶を得ることができたとしても、彼の心を総て知ることは不可能であろう。
 だが私は彼であるから、容易に推察することができる。彼の暴かれたがらない真意を。
 つまり、あの時千家伊織が崖から落ちた理由は単純だ。柊京一郎を失うことを恐れたがためである。
 彼は幽霊の兵を生み出す力を与えられるのと引き換えに、一族郎党皆を失った。それはどうやら彼の意思とは関係のないところでなされた事のようだが、その辺りも記憶が抜け落ちていてよく分からない。
 だが彼の深い悲しみと自暴自棄は、概ね総てこの喪失に由来する。
 だからこそ彼には、京一郎を失うことだけは許容できなかった。人知れず多くの苦痛を味わってきた彼であったが、再び喪失の悲しみに打ちひしがれることだけは、耐えられなかったのだ。
 本来の目的を果たすことのみ考えたのなら、京一郎の身体を綱代わりにして這い上がるということも出来たはずなのに、それをしなかったのはそういう訳だったと私は考えている。
 遺された京一郎がその後千家伊織を継いだのか或いは敵に寝返ったのか殺されたのか、その辺りは私には知り得ない。しかし少なくとも、千切れそうな腕に悲鳴を上げながらも決して手を離すまいとしていたあの直後において、彼を失った京一郎がどのような心持ちでいたか、想いを馳せることはできる。
 結局のところ、千家伊織という男は身勝手そのものなのであった。

 そしてその身勝手は、千家伊織である私の感情すらも煽る。
 私の心はいつかどこかで死んだはずの千家伊織に引き摺られ、日を追うごとに京一郎を強く求めるようになってゆく。
 彼が私のように記憶を持ってこの世界の同時代に生きているのか、だとすればどこにいるのか、誰といるのか、知る術は全くない。
 私は誰とも知れぬ彼に焦がれ、切なく名を呟いては、虚しく溜息を吐くしかない。いくらやめようと思っても、忘れたいと願っても、他の人間を想おうとしても、私が千家伊織である以上、私である千家伊織の感情を否定することはできないのだった。

「いつでも捜しているよ どっかに君の姿を」
 何気なく薫の口ずさんだその歌は、まるで私の心を代弁しているようだった。
 彼も私と同じように誰かを求めているのかと思いきや、少し違うらしいことも分かった。
「僕には兄様がいるから、それだけで十分。」
 どうやら彼にとって掛け替えのない人間は既に側にいるらしい。
 羨ましいことだ、と思わず呟くと、耳聡く聞きつけて彼は訳知り顏で言った。
「いつか伊織先生の前にもちゃんと現れるよ。焦らなくとも大丈夫、今はベンコンカの時代だから。」
 そして生意気を言うなと馨に叱られていた。
 晩婚と言えば最近妊娠の分かった姉の友人が、子の名をもう決めているらしく、それが別の世界における彼らの上官と同じになるらしいことを思い出した。それとなく話題にすると、薫に反応があった。
「あ、僕の知ってる人と同じ名前だ。」
 やはり、この名を知っていたか。彼は館林のことを覚えているようだ。
「同姓同名か。よくある名ではないと思うがな。」
「誰のこと?僕も知っている?」
 馨が問うと、薫は少し淋しそうに笑った。
「伊織先生の知らない人。僕だけの秘密だから、馨兄様も知らないよ。」
「なんだよ、それ。」
 秘密と言われて、馨は少し面白くなさそうに唇を噛んだ。
「前にちょっと話したとき妄想だって言ったの兄様じゃない。だからもう言わない。・・・でもね、とっても大切な人だったんだ・・・。」
 馨には、記憶がない。薫は記憶を馨と共有してはいないし、共有する可能性に思い当たってもいないようだ。

 私は考えた。
 もしかしたら、馨にももとは記憶があったのではないか。薫と記憶を共有していたこともあったのでは。
 しかし今は互いに記憶にかかわりのある人間だと認識しておらず、馨の方が消えている情報の量が多いようだ。
 だとすると、認識しなくなった原因は何だ。
 改めて、薫の様子が変化した一連のことを思い返してみる。
 相手を見る。
 相手に見られる。
 相手に話しかけられる。
 相手に話しかける。
 手を伸ばす。
 あぁ、そういえば薫は私の名をフルネームで呼んだのだったか。となると、話しかける、ではなく、名を呼ぶ、とした方が正確か。
 薫と馨の間にこれら一連のどれか、いや確実に全てが発生している。おそらく生まれたときからずっと一緒に居るはずだから、会話ができる程度に成長するまでの間には、二人の間の記憶が消えてしまったと考えていいだろう。
 館林については馨も薫も等しく慕っていたように思うが、馨の方は何かのついでに消えてしまったのだろうか。
 もし馨にも記憶があったのならば、千家伊織少将のことも知っていた時期があったことになる。私が初めて馨を見たときには、すでに彼は私を陸軍の千家とは認識していなかったから、条件のうち”相手に見られる”、”相手に話しかけられる”は却下できそうだ。となるとあとは、見る、名を呼ぶ、手を伸ばす、のどれか。
 このトリガーが一方的な手続きのみにより発動するのか、それとも双方的である必要があるのかは不明だ。これから生まれる館林開が陸軍にいた彼であるのなら、薫を会わせれば検証できそうだが、さて、そこまでする価値のあることなのか。
 そもそも記憶があることによるメリットは特に何もない。多少歴史に詳しくなるくらいだ。しかもその歴史は完全に我々の世界と一致してはいないから、むしろ紛らわしいためデメリットとしてもいいだろう。
 逆に不便な点は大きい。特に私の場合は、無駄に溢れる柊京一郎への想いに苛立って仕方がない。
 会ったこともない、いつ会えるとも知れない人間を想うのは辛い。
 まるで、生まれる前から婚姻が定められていて、出会う前に相手に死なれた寡婦のようだ。私はまた、薫に見咎められぬよう小さく溜息を吐いた。

 そんな時だった。
 その日は午前中の仕事のみで、以降姉や母の手伝いに振り回されることもなく半日ぽっかりと空いてしまった。作品制作もひと段落したことだし久しぶりに読書でもしようと、私は気に入りの喫茶店へ向かっていた。
 緩やかな坂道を下っていると、急に携帯が鳴り始めた。おそらく姉か母だろう。折角の休みにまた何を要求されるのだろうと、少しだけ気落ちしながら懐に手をやったところで、向かい側を歩いていた青年にぶつかった。
 携帯端末が地面へ転がる。数日前、義兄がスマホを落として画面が割れたと嘆いていたことを思い出した。
イヤホンが端末から抜け、スピーカーから音楽が漏れ出る。
――いつでも捜しているよ ・・・
 以前薫が口ずさんでいたあの曲だ。
「あぁ、すみません。画面が割れてしまっていないかな。」
 拾って渡すと、青年は済まなさそうに顔を上げ、――。
「いえ、大丈夫です、私がぼうっとしていたので。ありがとうございます。」
・・・心臓が止まるかと思った。
 青年の顔、声、物腰、総てを私は記憶している――否、記憶しているのは陸軍の千家伊織だ。
 彼が飽かず求め、恋い焦がれている相手は、柊京一郎は、目の前に佇む青年に違いない。
 それはまるで、砂場に紛れた塩の粒を探し出すに近い確率での邂逅だった。
 だがしかし、彼が"あの柊京一郎"であることを証明するものは何もない。私の学友たちのように、顔は似ているが記憶を持たない別人かもしれない。安易に声を掛けるべきではない。どころか"この私自身"と柊京一郎はそもそも無関係であり、彼が”あの京一郎”だからといってそれが何だというのだ。
 私は急に、記憶の中の私に己の行動を選ばされていることに反発を覚え、その場を去ることに決めた。
「そうですか。では、気をつけて。」
 彼を残して歩みを進める。一歩進むごとに、小さな後悔が少しずつ心の中に蟠る。
 翻弄されてなるものか。私は、運命に振り回されて死んだ私ではないのだ。私は他者でなく私自身の意思のみに基づいて、私の生を生きるのだ。
 そう心中高らかに宣言した――はずだったのだが。
「・・・ぁあの!」
 背から追ってきた声が、そんな私の強固な意志をいとも簡単に打ち砕いた。
 少し高く柔らかに響く青年のそれは、私の心を歓びに震わせ、誘惑する。
 陸軍少将千家の思惑通りになどなるものかと必死に思うも虚しく、弾む心を抑え平静を装って振り向いた。
「どうかしましたか。」
 目が合うと彼は慌てて逸らし、切なそうに眉を顰め、それからそっと上目遣いで見返した。何故彼はこんな顔を?彼にも私と同じ記憶があるのだろうか。
「ぁ、いえ・・・、あの・・・・・・。」
 あぁ、どうしよう。彼の目が何か期待に満ちているようにしか見えない。それは私と同じ期待なのか、全く見当外れのものなのか。
 今すぐにでも抱き竦めて連れ帰りたい衝動が、私の心をがたがたと揺さぶる。

―― 寂しさ紛らすだけなら 誰でもいいはずなのに
―― 星の落ちそうな夜だから 自分をいつわれない

 スピーカーから漏れる歌詞が、心を弱くする。
 このままここに居ては、私はこの青年に何をするか分からない。陸軍省の千家なら、迷いなく攫っていったのだろうが、生憎今ここに居る私にはそうまでする目的がない。大義がない。
 彼を連れ帰って思いの丈を告げて、何になる?
 下手すればただの犯罪者だ。
 私の肉親はいま健在で、それは恐らくもう一人の私に叶わなかった願いのひとつだ。あの千家伊織の思いに沿うのは若干癪だが、しかし彼もまた己であり、その己の願ったささやかな幸福を自ら壊す可能性のある行動を選ぶことなど私にはどうしてもできない。仮にそれが、最愛の人間を得ることであったとしても。
「・・・その曲、私も好きですよ。」
 何か言いたそうに躊躇っている彼に、私は敢えて障りのない会話を振った。
「あ、・・・え?山崎まさよし?」
「そう。」
 得意の微笑を浮かべたはずなのに、私の唇は余計な言葉を口走った。
「後悔と哀しみに苛まれるけれど。」
「・・・・・・」
 訝しむように見上げる視線を避け、慌てて目を伏せる。
「・・・まぁ、そう思う人が多いから、この曲は長く愛されているのだろうな。」
 もうやめよう。これ以上は何を言いだすか知れない。私らしくない。
 そもそも柊京一郎は私ではなく、別の世界の私の、唯一なのだ。"この私の"ではない。
 もう一度小さく口元に笑みを浮かべ、去ろうとした私に、青年は追いすがるように声を張り上げた。
「この辺りに、・・・お住まいなんですか?」
 お願いだ、もう解放してくれ。
「私ですか。ええ。教室がすぐそこなので。」
 そんなことを聞いてどうするつもりだ。華道教室に入会するのなら、母のクラスにして欲しい。姉のところはしょっちゅう手伝わされるから、入られでもしたら教室のたびに気になってしまうに違いない。
 折しも再び携帯電話が鳴り始めた。
「おやおや、急かされてしまったな。・・・では。」
 先ほどは面倒だと思った姉からの着信が助け舟に感じられるとは皮肉なものである。
 これ幸いと携帯を耳に当てながら、私は逃げるようにその場を後にしたのだった。

  悩ましいいーちゃん先生。
  

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