One more time, One more chance 千家 4 対話



 柊京一郎に酷似する青年と別れ、姉の手伝いを終えて自室に戻った私は、酷く苛立っていた。

 過去にこれほど己に失望したことなどあっただろうか。
 幼い頃、姉のヴァイオリンの発表会で伴奏をした時、突然頭の中が真っ白になって演奏を止めてしまったことがあった。姉はそのまま演奏を続け、途中から私も再び弾き始めることができたが、演奏終了後は酷く落ち込んだものだった。が、今日ほどではない。
 中学の頃、華道の賞を取った際、懇親の場で結構生意気なことを言って、年寄りにこてんぱんにされたことがある。あの時も、ムキになるほどの相手ではなかったと、己の青さに腹が立った。が、やはり今日ほどではなかった。

 なぜあの時もっと彼を調べなかったのか。会話の持って行きようで、いくらでもどのようにも聞き出せたはずだった。
 はっきり、彼に記憶が無いことを確認できたなら、こんなにも気になることなど無かったはず。
 曖昧なままに別れてしまったから、こうも悶々とし続けなければならない。私はこういう風に、もう一人の千家伊織の感情に左右されることを、最も腹立たしく感じていた。それを己の弱気により生じさせてしまったことが、口惜しくて仕方ない。
「・・・くそっ」
 苛立ちにまかせて机を叩く。
 別の世界の私が、皮肉に口元を歪め、嘲笑っているような気がした。

* * * * *

 その日の夕方には単発の講座が予定されていたのだが、出先から帰る途中、雨に降られてしまった。いつもの公園の脇を通ったとき、バケツをひっくり返したような土砂降りに見舞われ、急いで東屋へ逃げ込んだものの、全身がずぶ濡れになってしまった。
 折角気に入りの着物を着つけて出たというのに、これでは教室の前に着替えなければならない。
 肩の雨を払いながらこれが冬でなくてよかった、などと考えていると、背中から声がした。
「こんなすごい雨になるなんて、驚きました。」
 雨音に紛れて気づかなかったが、同じようにここへ避難してきた人間がいたようだ。
「本当に。天気予報は当てにならないものです。」
 振り返り、私は微笑が固まるのを感じた。
 そこに居たのは、まさに連日私を苛立たせている張本人であったから。
 彼もこちらを見て、驚いたように押し黙っていた。
「あぁ。また会いましたね。」
 表情を隠すのは得意だ。業界の大御所と呼ばれる保守的な連中とやり合うには、相手の倍以上狐狸にならざるを得ない。馬鹿馬鹿しいとは思うが、若い頃の教訓として私の得たつまらぬ特技だった。
 微笑んでみせると、彼ははにかみながら小さく、はい、と言った。
「大切なスマホは濡れませんでしたか。」
 言われて初めて気づいたらしく、慌てて鞄を掻き回し、板のような携帯電話を取り出す。何度かボタンを押して音が鳴ることを確認し、彼はほっとしたように溜め息を吐いた。
「大丈夫だったみたいです。」
 屈託のない笑みは、陸軍少将の記憶にあるそれと、なんら変わりない。確かに清々しい男なのだろうが、様子からしてまだ学生だろう。こんな年少の相手に熱を上げていたとは、あの冷酷な男にも可愛げがあったというものだ。・・・といっても、私のことなのだが。
「なかなか止みそうにないですね。」
 心地よい声に、私は頷いた。
 叩きつけるような雨音に掻き消され、その後も彼が何か言ったのかもしれないが、よく聞こえなかった。

「・・・あの、」
 おずおずと、しかしはっきりと声を掛けられた。私が振り向くと、彼はまた視線を彷徨わせ、言葉を選ぶように続けた。
「変なことをお聞きするようですが、以前、どこかでお会いしたことがありましたか?」
 私はすぐに答えるべき言葉を見つけられなかった。
 そう質問するということは、少なくとも彼は私が誰であるか分かっていないということだろうか。となると、あの記憶を、彼は知らない・・・?
「ぁ、あの、この間ぶつかったのよりも前のことです」
 さぁ、どうする。
 先日と同じ轍は踏むまい。まずは小手調べといこうか。
「さて。仕事柄、そのように言われることは多いので、もしかしたら会ったことがあるのかもしれませんね。」
 嘘ではないのだが。彼は見るからにがっかりしたような顔をした。思ったことが顔に出るのも”あの”京一郎と同じだ。
 では、彼は私と何らかの繋がりがあることを期待していると取ってもいいのかどうか。
「なぜそのように思われたか、訊いても?」
 青年の顔はぱっと明るくなり、それからまた少し言い淀んで、探るように言った。
「・・・変に思わないでほしいのですが、聞いてもらえますか。」
「どうぞ。当分雨も止みそうにないことですし。」
 営業用の微笑を返すと、また一瞬目を逸らし、慌てて視線を戻してぎこちなく微笑んだ彼は空咳をした。
「あの、山崎まさよしの曲のことなんですけど、」
 促すつもりで黙っていたのだが、彼は急いで付け加えた。
「あ、この間ぶつかってしまったときに、私が聴いていた曲です。お好きだって、仰ってました・・・よね?」
 そういえばそう言ったかもしれない。
「あの曲を初めて聴いた時、中学だったんですけど、突然泣いてしまったんです、私。何か、すごく自分の過去の体験に重なるところがあるような気がして・・・、でも実際のところ私には思い当たるような出来事がないんです。」
・・・彼の言葉はいたって真摯だったが、私は急に白けた気分になった。
 これは見当外れだったのだろうか。
 彼は感情的な影響を受けやすい、ただの夢見がちな若者というだけなのではないか。薫の言葉を借りれば、中二病などと言っていた、それ。
「変、ですよね。でも、私はずっと、誰かを探し続けているような気がするんです。・・・それで、」
 外見が似ている人間など幾らでもいる。ドッペルゲンガーという言葉があるほどなのだ。
 聞いても仕方なかったか、と思い始めた時、彼の次の言葉は私の興味を引き戻した。
「この間貴方を見た時に、すっごく、懐かしく感じたんです。会ったこともないのに、やっと会えた、っていうか、貴方が行ってしまって、後悔の気持ちが強く湧いてきて・・・」
 やっと会えた?
 それは私も同じだ。攫いたいと思ったほどなのだから。
「でも理由が分からない・・・当然ですよね、初めて会ったんですから――だから、すごく漠然としていて、私も不思議には思うのですが、」
 彼はそこで言葉を止め、そっとこちらの様子を伺った。
 私は何と答えるべきか、また思案していた。
 彼の探している相手が仮に私であったとして、しかしほぼ間違いなく、彼の意識下に例の記憶は存在しないと考えていいだろう。
 私の記憶が戻ったきっかけには法則性を見つけられなかったため、どうすれば彼にも記憶を戻してやれるのか分からない。
 そもそも、彼があの柊京一郎である客観的証拠もないのだ。名でも聞けば良いのだろうが、偶然居合わせた他人にそうするほど私も愚かではない。やはり姉の教室にでも入るよう誘導してみるしかないか。体験教室だけでも氏名を知ることはできるから・・・――
「・・・なので、もしかして貴方と、例えば子供の頃に出会って、なにか この歌詞に似たような話でも聞いたことがあるのかもしれない、なんて勝手に思っていたのですが・・・」
 どうやら彼は、その歌詞に私を当てはめて考えてはいないようだ。
 ならば、きっかけを与えれば何か思い出すのだろうか?
 折しも雨が弱まってきた。私の直接知る話ではないのだが、静かに昔話をするには今が相応しいかもしれない。
「世界線、という考え方を知っていますか。」
 首を傾げた彼は、パラレルワールドと言い換えると理解したようだった。
 私は柊京一郎について触れずに、まず己が軍人として戦う記憶の話をした。
 突飛もない話だと思ったのだろう、彼は少し笑った。無理もない。我々は戦争の傷跡すらも知らない世代なのだ。
 では、死霊のことを持ち出したら、やはり彼は笑うのだろうか。もしそうだった場合、この青年は私の探している柊京一郎ではないと考えるべきなのだろう。
 こういうとき私は悠長な人間ではない。曖昧な可能性にいつまでも気を取られていられるほど、暇でもないのだ。
 少し笑いながら私は、幽霊を使って外国と戦うのだ、と付け加えた。
「幽霊?」
 顔を顰めるか、それとも更に笑うかと身構えて待っていたが、彼は真顔で沈黙した。
 この反応をどう取るべきか。
 もう少し、踏み込んで見る価値はあるのだろうか。
「そう。そして、それを実現させるために、一人の青年を犠牲にした。」
「犠牲・・・殺した・・・んですか。」
「いや。殺しはしない。ただ、巻き込んだ。国を護るために、どうしても彼の力が必要だったから。」
「・・・そして?」
 彼は私の顔を覗き込んだ。次の言葉を聞き漏らすまいとするように。
 もしかして、何か知っているのか、彼は。
 期待に胸が膨らむと同時に、頭の中でひとつの可能性に行き当たった。
 この若者はもしや、私と同じように、言葉の端から探っているのだろうか。私が"あの"千家伊織であるのかどうかを。
 そう考えたら、馬鹿馬鹿しくなった。
 何のために私はこんなことをしているのだろう。別の世界の千家伊織は既に死んでいる。私とは無関係だ。腹の探り合いは、古狸の大御所連中とだけで充分。己と関係のない人間のために、無駄な緊張を楽しんでいるほど私は暇ではない。
「それだけです。」
 言うと、彼は物足りなさそうな顔をした。
「え?」
「そういう記憶。夢や空想ではないと思う。」
 彼は私をじっと見つめた。その顔が、まだ語りを続けて欲しいと言っている。どうやら私はこの目に弱いらしい。止めようとした矢先、ついまた余計なことを口走ってしまった。
「何故なら私はそれを思い出すと、必ず後悔に苛まれるから。」
 聞き流して欲しかったのだが。
「その青年を巻き込んだことを、悔いているんですね。」
 僅かばかり幼さを残す柔らかな声は、少ない情報の中で必死に私をいたわろうとしていた。
 どうだろうか。何故なら悔いるべきなのはもう一人の千家伊織であって私ではない。
「記憶の中の感情は、一切後悔していない。悔いのない人生を送ったと思っているらしい。」
 彼は無垢な瞳で私を見た。
 意味を、理解していないな。
 彼は私を試しているわけではない。恐らく、真実、知らないのだ。
 だが彼は”あの”柊京一郎なのだと、根拠もなく私は確信していた。
 あの不思議な世界に居た私のことも、私の求めていた京一郎のことも知らない、京一郎。千家伊織と会っても、昔語りをすることも、再会を喜び合うこともできない。もっとも、あの二人であれば再会しても素直に喜ぶなどせずに、まずはお互い憎まれ口を叩き合うのかもしれないが。
 けれど・・・――――、
「・・・だが」
――――・・・私は、そんな彼でも愛おしいような気がした――。
「現実の私は、そうは思わない。」
・・・そう、この私自身の過去ではない。だというのに私は、あんな風に柊京一郎と別れたくはなかったと、思わずにいられない。彼と共に、穏やかな日々をささやかな幸せを探すことはできなかったのかと。本当はきっと、あの千家伊織もそれを求めていたのではないかと――。
「つまり・・・?」
 知りたがりの瞳が私の顔を覗き込む。
 もう、いい。
 私は彼を求めない。
 この彼はこの彼、そしてこの私はこの私なのだ。
 あの世界に生きた二人ではない。
 私は陸軍少将・千家伊織の記憶に囚われることを止めようと思った。
「あぁ、上がったようだ。」
 いつの間にか雨が止んでいる。
「それでは。」
 私は立ち上がり、彼に背を向けた。
 お前の柊京一郎は、この世界にはいなかったのだ。残念だったな、千家伊織。
 もう、この青年と会うことも無いだろう。
「待ってくだ――」
 背後で急に立ち上がる気配がするも、振り向くまいと思っていたのだが。
「――わっ!」
 叫び声に反射的に視線を向ける。
 濡れた床に足を滑らせこちらへ伸ばされた彼の手を、私はつい、取ってしまっていた。

  1話目の時は、サブタイトルをちょっとダサ目にしようと思ってたのに二字熟語がパターン化してきてしまったのでそのうち1話も直します(^_^;)
  悩む悩むひねくれ者。

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