One more time, One more chance 千家 5 拒絶



 彼の掌が私の掌に重なった。
 触れ合った膚の温もりが伝えるものは、呪いに苦しむ千家伊織を癒した柊京一郎の慈しみと、寸分たりとも違わない。
 離そうと思えばすぐにできたにもかかわらず、私はその手を離せずにいた。

 雨上がりの公園はいつの間にか戻ってきた落ちかけの太陽に照らされ、ところどころにできた水溜りが群青と橙に彩られている。
 ぐ、と手を握られた。
 彼に視線を向けると、焦点の合わない瞳からほろほろと涙が零れ始めた。
 いったいどうしたというのだろう。
 声をかけるべきか。
 いや、それより彼は何を見ている?
 京一郎、と危うく呼びそうになり、私は口を噤んだ。
 彼の名は京一郎ではないかもしれない。仮に名が合っていたとして、呼ぶことで私の記憶は消えてしまうかもしれない。現に相手を見る、見られるという条件は先日発生していたが、私の彼に関する記憶は消えていないのだから、あと残るは名を呼ぶことだけなのだ。
 囚われまいと決めたばかりではあるが、これだけ長年翻弄され続けて何かの拍子に忘れてしまうというのは、やはり腑に落ちない。私はもう少しだけ、この記憶を傍に留めておきたい。目の前のこの男を観察するためにも。
 しかしどこか異常な様子の彼をこのままにしておくこともできず、こちらも少し強く、手を握り返してみた。
 すると、ぼんやり宙を見ていた視線がゆっくりと上がり、私を見た。
「・・・大丈夫か?」
 はっとした彼は、私の手を握ったまま、もう片方の手の甲で慌てて涙を拭った。
「・・・はは。すみません、なんか。」
 取り繕うように笑う姿が痛ましくて、私は抱きしめてやりたいと思った。
「あの、なんだろう、誰かを助けられない夢を見ました。・・・立ったまま寝るか普通、と思いません?おかしいですよね。もう、なんだろ、いやだなぁ。」
 矢継ぎ早に捲し立てる彼は、明らかに動揺している。
 しかし夢とは何だ。様子はおかしかったが、転倒しかけて以来ずっと彼の目は開いたままだった。瞬きをしていたかすら怪しい。
「・・・君は寝てなどいなかったぞ。」
 私の言葉に、彼は息を飲む。
「あれは・・・・・・記憶?」
 首を傾げながら、彼はぶつぶつと呟いた。
「京一郎は・・・私の名だ・・・。」
――――・・・!
 囁くような声に、私は虚脱を感じた。
 やはり、そうだったのか。
 これは、やはり京一郎なのだ。
 そしてほぼ間違いなく、"あの"柊京一郎に連なる京一郎なのだ。
 しかし。
「・・・ねぇ、貴方は知っているんですか。」
 京一郎は縋るような目で私を見た。
「崖から落ちそうになっている人を、私は助けようとしていたんです。でもその人は、私が一緒に落ちてしまわないように、・・・腕、を、・・・自ら、斬って・・・」
 嗚咽が漏れそうになり、京一郎は手で口を押えた。何故そんな感情になるのか、理解できないという顔をしていた。
 彼は記憶をほとんど持っていない。
 なんの拍子に思い出したのか知らないが、きっといま語った私の死に際の記憶しか、彼には残っていないのだろう。
 彼は私と同じではない。
 私のように記憶に囚われているわけではない。
「さて。」
 私は瞳を細めた。
「なんのことやら、私には与り知らぬ話だ。」
 そう。"この"京一郎は、"あの"千家伊織と無関係だ。"この"私がそうであるように。
 だとすれば、私には、彼とこれ以上関わる理由がない。何のしがらみもない、赤の他人なのだから。
 私は私の手を握る指を解こうとした。しかし京一郎はそれを強く握り返した。
 小さく、だがわざと聞こえるように溜息を吐く。
 涙に少し赤く腫れた目を、京一郎は辛そうに伏せた。もう一人の私の死に際、崖に吊られたまま刀を抜いた時の、もう一人の京一郎の面影が重なる。
 あんな風に置いてゆかれて、さぞかし恨んだことだろう。可哀想に。その恨みだけがここにいる京一郎に遺されたのだろうか。記憶すら与えられず、千家伊織への恨みだけ切なく抱えて、彼は彷徨っているのだろうか。
「伊織。」
 ぎょっとした。
 突然、京一郎が私の名を呼んだ。
 彼は目を見開いた私を見て、不思議そうに瞬きした。
・・・あぁ。
・・・そうだ、分かっている、彼は私を呼んだのではない。
 いい加減にしないとまた余計なことを言ってしまいそうだ。
 私は左手を握る彼の指を解いた。
「外出の際は折畳み傘を携帯すべきだな。」
 どうでもいいことを呟きつつ背を向ける。
 早く帰ろう。次の講座の準備をしなければ。先週クリーニングに出した藍の洒落着を姉はもう回収してくれただろうか。あれが戻っていたなら、藤色の帯と合わせて・・・――
「待って!」
・・・そうだ、或いは臙脂の麻に鼠色の柄物の帯でも良いかもしれない。今回の生徒は若い女性が多いと聞くし、少し派手目でも――
「!」
 背後から強く腕を引かれた。
「まだ何か。」
 極力嫌そうな態度で顔だけ振り向くと、一瞬傷ついたように怯んだ京一郎は、しかし再び腕を掴む手に力を入れた。逃さないと言わんばかりに。
「貴方は、私を知っているんでしょう?」
「知らない。」
 即答すると、彼はまた少し悲しそうに瞳を揺らし、そして強くかぶりを振った。
「嘘だ。」
「何を根拠に?」
「それは・・・」
 口では私に敵わないというのに、強情なところも変わらないな。まぁ、もうどうでもいいことだ。早く解放してくれ。
「人違いだろう。迷惑だ。」
「いいえ、私は貴方に会ったことがある。」
「どこで。」
「う・・・」
「話にならん。」
 憎たらしく鼻で笑ってやった。ここまで意地の悪い応対は、流石の千家伊織少将ですらしなかった。だがそれでも京一郎は引かない。
「でも!」
 なぜそこまで?
 よく考えているのか、お前は。
 お前が望んでいる千家伊織は、私ではないというのに。そもそもお前の望みは、お前ではない京一郎の望みだというのに。
「さぁ、帰ってくれ。近所で揉めるのは勘弁願いたい。」
「お願いです、私は貴方のことを知りたい。」
「私は知られたくない。」
「なぜ?」
 うんざりして私は深く溜め息をついた。
「見ず知らずの人間にここまで絡まれるとは、今日はとんだ厄日だな。」
「あぁ、もう!だから私は貴方のことが・・・」
 そこまで叫んで、急に京一郎は口を噤んだ。
 それはそうだろう。彼もまた、私と同様、もう一人の己の亡霊に踊らされているだけ。
 彼が私に対して抱く感情など、存在しないのだから。
「ぁ、いや・・・」
「・・・・・・」
 どうだ?何も思い浮かばないだろう?これ以上私と会話することに意味などない。いい加減諦めろ。
 またおずおずとこちらを見上げ、京一郎は恐る恐る口を開いた。
「貴方は、・・・その、伊織・・・さん、ですか・・・?」
 いったいどこまで記憶を手に入れたのやら。お前を知っている私ですら訊くのを躊躇ったというのに、流石若さ故の無鉄砲か。
 知らぬ存ぜぬを通しても良いが、また、嘘だなどと喚かれても敵わない。
「・・・いかにも、私の名は伊織だが。」
 不機嫌に低く返すと、飛びつくように彼は叫んだ。
「私は京一郎です!」
「知っている。」
 ああ、よく知っているさ。以前に会った時から、そうだと思っていた。だがそれがなんだというのだ。
「・・・いま、何て?」
「それで。」
 冷たく睨んでやると、悲しげに眉を八の字にしながら京一郎はもごもごと呟いた。
「だからあの、・・・さっきの話、貴方も知っているんでしょう?」
 知らないと言う隙を与えず、彼は顔を上げて言った。
「崖で私が助けようとしていたのは、貴方ですね?」
 私は答えなかった。
 改めて、知らない、と言えばそれでおしまいなのだが。記憶が戻らずもどかしく思う状況を重々理解しているだけに、このまま彼に不明瞭な記憶を持たせたまま別れを告げるのは、同種の人間として酷であるような気がした。
 真っ直ぐな澄んだ瞳を見ていられず、つい目を逸らすと、西日に照らされた雨上がりの地面に湿気た空気が立ち込めている。そういえば"あの"私は、京一郎と夏を過ごすことはできなかったのだと、ふと思う。
 あまりに短い付き合いだった。にもかかわらずこれほどまで印象強いのは、死に際の出会いだったからだろうか。
・・・・・・否、違うな。
 けれど。
「・・・だとして、それが何だというのだ。」
「え・・・」
 京一郎の瞳はまた、憂いに曇る。
 私は結局、彼を悲しませてばかりだな。
「お前が私を助けようとした。私は腕を斬って海に落ち、死んだ。だから?それが今ここに居る我々にどう関係がある?恨言でも言いたいのか?」
「そういうわけでは・・・」
 言い返す言葉を失った彼は、それでも、諦めないという意思を眼差しに込めた。
 私はその強い視線を、見返すことができない。
「お前は感じ過ぎる質なのだ。余計なことを思い出さず、今を生きればいい。」
 またつい、余計なことを口走ってしまった。
「え・・・それはどういう・・・」
「話すことは何もない、ということだ。ではな。」
 私は足早にその場を去る。
 諸々の挙句、前回と同様。
 情けない。
「また、会いに行きます、」
 結構だ、と小さく呟く。
「・・・伊織さん!」
 京一郎が私の名を呼んだ。
 私は、振り向かなかった。

  もう・・・意地っ張りすぎていやんなるこの人(´ω`,)

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