One more time, One more chance 千家 6 出現



「千家先生、どうかされたんですか?」
 珍しく馨が声を掛けてきた。
 教室に千家は母、姉、私の3人居るのだが、彼は私を名字で呼ぶ。薫と違って、下の名を呼ぶのにどうやら照れがあるようだ。
「なんだ、突然。」
 馨とは廊下ですれ違った。普段どおり、姉の教室の生徒たちには大して愛想も使わず通り過ぎた、それだけなのだが。
「いえ、・・・何となく、お元気がないように見えましたので。」
「私はそんなにいつも元気はつらつとしていたかな。」
 そういうことでは、と彼は気まずそうに目を伏せた。
「ですが、差し出がましいとは思いますが、・・・」
「なんだ。」
「・・・寂しそう、だったから・・・」
"あの"伊勢馨であったなら、間違ってもこのように私に声を掛けてくることなどなかっただろう。彼は何にしても弟しか見ていないようだったし、少なくとも上官と友好な関係になかった私と業務以外の会話をするなど、まずあり得ないはずだった。
 おかしなことだ。
 子供に心の中を見透かされて、少し前の私だったら多少不愉快に感じてもいたのだろうが、今日は不思議と素直に受け入れることができた。
「そうか。」
 弱っているのだろう、柄にもなく。
 落ち込んでいるのだ、恐らくは。
「薫を呼んできます。あいつといると元気が出てきますから。」
「いや、――」
「なに話してんの?」
 断る間も無く、薫が現れた。
「どうしたのさ、二人とも辛気臭い顔して。・・・あ、ねえ伊織先生、この間、坂のところのカフェにいたでしょう。」
 早速わあわあと捲し立てる。
 数日前のことを言っているのだろう。見られていたとは気づかなかった。
「私が喫茶店に居て、何か問題でも?」
「問題大ありだよ。なんで僕達も連れてってくれないのさぁ」
「お前達を連れて出かける道理がどこにある。」
「いつも可愛がってくれてるじゃない。ねぇ僕ケーキ食べたいな。」
「お前達を可愛がった覚えなどない。」
「ちょっとぉ、それひどくない?ねぇ、兄さまぁ」
 弟に泣きつかれた馨は、どうです?と言わんばかりに肩を竦めて微笑んだ。
 煩いだけだ。そう目線で返すと、彼は丁寧に頭を下げ、弟を引っ張りながら帰っていった。
 どうも食えない。近い将来、面倒な奴になるだろう。そう言えば陸軍にいた彼もポーカーフェースが得意で、またともすれば、上官より冷静なこともあるようだった。

 私の名を呼んだ京一郎は、陸軍にいた私との記憶を失ったのだろうか。
 あれだけ強く拒絶しておきながら、結局私の状態は、これまでとなんら変わらない。どころか、京一郎が実在することを知りながら自ら関係を断ったわけであるから、つまり最悪だ。
 仮に同時代の日本に居たとしても手掛かりのない中、巡り会える可能性など期待したことすらなかった。まさに奇跡のような再会だったというのに。
 あれから私はもう一人の私の記憶に煩わされぬよう努めて仕事を増やし、余計なことを考えぬよう気を配った。
 しかし、道具の手入れをしているとき、移動の間、客が帰った瞬間、ふと気が緩むと体の中から強く溢れ出る京一郎を呼ぶ声は、彼と会う以前に増して強くなる一方。
 私は彼のことなど知らない、恋う道理などないのだと、いくら己に言い聞かせても詮無いだけ。
 常に何かに集中していなければならないというのは、思いの外気力と体力を消耗する。これまであまり他所では気を抜いていないつもりだったが、無意識のうち己は緊張にも緩急をつけていたのだと、どうでもいいことを知った。
 そんな時の馨の指摘だ。他人からあのように言われるとは、随分私も参っているらしい。
 気晴らしが必要なのだろう。
 どこかへ旅行にでも行こうか。
 薫が騒いでいた喫茶店は半年ほど前にできたばかりだが、置いている飲み物の仕入れにこだわりがあり、また長居できるのが気に入っている。
 そうだ、次の休みには、茶でも飲みながら旅の算段でもすることにしよう。

 早速空いたその日、いそいそと本屋で旅行雑誌を求め、癖でまた数本花を買い、私は目当ての喫茶店へ続く坂を上っていた。
 また雨が止んだばかりで、アスファルトが濡れている。街路樹から立ち昇る草と雨の香りに、私はふと足を止めた。
 このところ無理に忙しくしていた。
 そのせいか、花の選び方も花器の使い方も通り一遍になりがちで、作品に行き詰まりを感じていた。こんな時期に制作より教える仕事の方が多いのは、皮肉というべきか、幸いというべきか。
 こうして無為に街を眺めるのは、いったいいつ以来だろう。
 向かいの歩道で、若い男女がなにやら深刻な雰囲気で向き合っている。
 まだ日暮れ前だから、学生なのだろう。夏も目前に恋の駆け引きといったところか。初々しいことだ。
 つい口元が綻びかけ、その男の方の後ろ姿に見覚えがあることに気付いた。もちろん、見覚えのあるのは主に記憶の中で、だ。
 またつい、溜息が出る。
 結局、一度でも関わってしまうと容易に逃れることを許してはくれないということか。
 記憶からは解放されない。かといってもう一人の己に引き摺られて京一郎を求めても、きっと得ることは叶わない。
 何故なら私達は同性同士だ。何故なら私には彼を得る大義がない。攫って監禁するほどの向う見ずでもなければその罪を負う覚悟もない。
 何故なら私は、結句、――平和な時代に生まれのうのうと日々を過ごす、その程度の不甲斐ない男だからだ。かつてどこかで苦痛と悲哀に飲み込まれながらも大胆に生きた千家伊織では、ない・・・・・・。

 しかし――、
 私は思った。
 とどのつまり、原因はどうあれ私は京一郎を欲してしまう。また同時に、彼には二度と、あれほどまで深く関わった人間を失わせるような、私の最期の夜の崖でのような顔をさせたくないとも思っている。
・・・であれば、彼に温かな愛情を与え、穏やかで優しい日々を過ごさせてやることができるなら、その相手は私でなくとも、私の小さな願いの一部は叶うと言えるのではないか。
 たとえばあのポニーテールの娘が、京一郎に幸せを与えてくれるのなら・・・――。
 ぼんやり眺めていると、京一郎の顔にその娘がキスをして、走り去って行った。彼は棒立ちになっていた。
 おやおや。彼女も随分と勇気を出したのだろうに。初心であるのも考えものだな。
 イヤホンを耳につけて歩き出そうとして、京一郎は急にこちらを振り向いた。
 どうして気づいたのだろう。肩口にセンサーでも付けているのだろうか。などくだらない冗談が思い浮かび、ひとり苦笑すると、京一郎の顔は見る見るうちに蒼褪めた。
「・・・伊織さん!」
 他人に見られてまずいと思うのは多少わかるが、なぜそこで私を呼ぶ?
 彼が誰と睦み合っていようが私には関係ないことだ。
 どうでもいいことだ。
 一歩踏み出して、何か蹴った。足元に、先程書店で買った本が落ちていた。拾いがてら歩を進める。
「伊織さん、待って!」
 後ろから声が追いかけてきた。
 なぜ。追うべきはポニーテールだろう。
 私は足早に坂を急ぐ。
「待って、ください、ってば・・・!」
 しかしながらさすがの若さか、比較的速い私の足に、彼は追いついてしまった。息を切らしながら。
「・・・今度は何の用だ。」
 こうして絡んでくることを心から厭わしく思えないことに苛立ちながら、睨み付ける。だが膝に手をつき肩で息をする彼にはこちらを見る余裕がないらしく、効果は無かった。
「ちょ、まって・・・水・・・」
 彼は目の前の公園の蛇口へふらふらと近付いたが、水圧が弱いらしく蛇口を捻ったり回したりしている。
 なにやら不憫になって、私は公園内の自販機から声を掛けた。
「ほら。何がいい。」
 訊くと一瞬躊躇いながらも水を所望されたので、ついでに自分の分も買った。
「すみません、100円、で足ります?」
「この程度学生から取れん」
「私が学生だと知っているんですね」
 適当に言っただけだ。しかし面倒なので黙っていた。
 ベンチの横に腰掛けた京一郎は、ほとんどペットボトルの中身を一度に飲み干した。彼が息を整えている間、私は向こうのブランコを眺めていた。
「・・・いつ、私に気づいたんです?」
 急に飛び出した自意識過剰とも取れる発言に、つい笑ってしまう。
「まるで私がお前のことを常に監視しているような言い草だな。」
「それほど己惚れちゃいません、けど、」
 京一郎は目の前の地面を見詰めながら、不貞腐れたように言った。
「・・・見たんでしょう?」
 誰が、何を、いつ、どこで。
 意地悪にはぐらかしてやっても良かったが、私はなぜか疲れていて、そんな気にもなれなかった。どうしたのだろう。今日は然程面倒な仕事もなく、あとは喫茶店で寛ぐだけのはずだったというのに。
 私は投げやりに言った。
「ポニーテールの女の子がお前にキスするところを?」
「誤解です!」
 京一郎は勢いよくこちらへ向きながら叫んだ。汗が飛んで顔に当たった。
「何が。」
 気怠さを覚えながら、私は彼を見た。
「だから、私はあの子となんでもありませんから!」
「ふぅん」
 その弁解の意図はなんだ。
「・・・しかし、」
 何でもないから、何だという。
「なぜ、それを私に?」
 笑ってやった。京一郎は、傷ついたように少し目を見開いた。
「・・・・・・え。」
「そんなにむきになって。わざわざそれを言うために、私を追いかけてきたのか。」
 図星だという顔をしている。
「年頃のお前が年頃の女と付き合って、何の問題がある。私がとやかく言うとでも?」
 京一郎はぼそぼそと、そういう訳では、などと口籠もった。
 それは、私としては、京一郎を欲している千家伊織としては、彼が他の人間のものになってしまうのは問題大有りだ。到底許容できない。あの世界の私なら、無理にでも奪い返すことだろう。
 しかし私は、”あの”千家伊織の希望に沿って彼を求めることは、止めたのだ。だから、もはや、なんの関わりもないこと。
「おかしな奴だな。」
 声が、寂しく掠れた。
 これが私のものにならないのなら。例えば彼女のものになるのなら。今日を限りにもう会わないのなら――。
 私は思った。
 もう少し彼と穏やかに関わってもよいのではないか。せめて彼が話している間だけでも、微笑みを湛えていてやれないだろうか。
 どこかの私が彼に与えられなかったものを、欠片だけでも与えた気になることくらい、許されるのではないだろうか。
 そう思うと、ささくれ立っていた心も多少ながら潤いを得たような気がした。
「お前の言いたいことは何だ。こうまで袖触れ合うも多生の縁。聞いてやってもいい。」
 ペットボトルを開けて私が水を飲むのを食い入るように見ていた京一郎は、目を合わせてやると少し頬を染めた。
・・・なんだその反応は。
 楽しい。
 彼がまるで"本当に"私に興味があるような気がしてしまう。
・・・手放したくなくなる。手に入れてすらいないのに。
 早くも私は、気紛れに彼に付き合ってやることにしたのを後悔し始めていた。
「私は、貴方と私の記憶について話したい。」
 耳に心地よい柔らかな声は、遠慮がちに、しかしはっきりと、言った。
 記憶が消えていない?彼はまだ、陸軍少将の千家伊織を憶えているのか。私の名を呼んだというのに?
 こちらの疑問をよそに、知りたがりの瞳は先日と変わらず私を頼ってきらきらと輝いた。
「・・・それは断る。」
「なんでですか。」
 しかも先日より心持ち強気になっている。一筋縄では答えぬと知ったからか。
「この間言ったはずだ。」
「記憶は余計なものですか。」
「あぁ、そうだ。」
「だけど、・・・」
 京一郎は、憂いと熱の籠もった瞳で私を見つめた。
「・・・私は貴方に会えた。」
 この男は分かっているのだろうか。
 そんな顔で他人を見たら、どうなるのか。
 そうでなくとも攫って監禁して手篭めにしてしまおうと考えるような人間が、ここに居るというのに。
「私は会いたくなかった。」
 そう、こんな思いをするのだと初めから知っていたのなら。
 これほどお前が私を揺さぶるなど、出会った当初は思いもしなかった。
 私でない私が死してなお想い続ける相手は本当に存在するのか、居るのであればどんな人間なのか、多少興味があった、それだけだ。
 加えて”あの”千家伊織の亡霊に振り回されないほどの意志の強さを持っていると、己を過信してもいたのだ。
 たった数度会話を交わしただけで、顔を見ただけで、これほど離れ難くなるなど、考えもつかなかった。
 会わなければ、こんなにも感情を左右されることはなかったはずだというのに。
 私は他人に己を煩わされるのが一番嫌いだというのに・・・。

 私が渾身の力を振り絞って嫌悪されるよう努めているのをよそに、京一郎はどこか恍惚とした表情でこちらをぼんやり眺めていた。
 少し変だ、と感じた。
 確かにマイペースなところのある男ではあったが、会話の流れとして私は彼の言葉を否定し、拒絶したのだ。不愉快に思いこそすれ、このような甘い眼差しを向けるのは何か不自然だ。
 それに仮にも陸軍少将が見初めた賢明な"あの"京一郎が人前でここまで惚けるとも考えづらい。同一人物でないのは言うまでもないが、それにしても・・・。
 まさか流行りのゆとりというのがこれなのだろうか。華道教室で私の任されるクラスは基本的に対象は成人で、社会人や退職者を相手にすることが多く、ゆえに幅広く子供を相手にしている姉と違って最近の若者との接点がほとんどない。薫や馨は恐らくゆとりより後の世代だから比較対象とならないし、さて、どうしたものか。
 訝しむのが顔に出たのだろう。
 京一郎は、ふ、と柔らかく微笑んだ。
「もう、意地悪はやめにしてください。」
 京一郎は右手を私の左手の上にそっと重ねた。つい、握られた手を引きそうになり、踏み止まる。
 彼を見ると、私の胸に左手を置いて、まるで花の綻ぶように微笑んだ。
「・・・ずっと、」
 おかしい。
 "あの"京一郎であったとしても、このように触れてくるはずがない。私が死ぬ間際の頃になると流石にこちらから触れるのを拒むことはなかったが、向こうから積極的に触れてくるなどなかったはず。
 まして先ほどまでは目が合っただけで頬を染めていた人間が、まるで豹変でもしたかのように――
「・・・会いたかったよ、伊織。」
 甘い声で呼ぶと、京一郎は私の頬をすっと指でなぞり、顎を上向かせた。
 何を考えている?
 お前は一体何者だ?
 京一郎。
 呼ぶことができずにいる私の唇は、京一郎のそれに塞がれた。


  次回は京一郎篇と結構異なる感じになると思われます。

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