One more time, One more chance 千家 7 冀望



 京一郎の唇が触れた瞬間、私は何か赤黒いものに包まれたような感覚に襲われた。
 それはまさに己の中に持て余しているのと同類の、・・・いやそんな生易しいものではない。私が制御しあぐねているこの感情など軽く凌駕した、より重く、まるで地の底から湧き上がるような、熱。
 愛情と憎しみと、悲しみと寂しさと、それらが綯い交ぜになった何かが、呼ぶ。

――・・・・・・・・・・・・・・おり
――・・・・・・・いおり。
――見つけた・・・貴方ですね。
――私の伊織なんですね。
――あぁ・・・、やっと。やっとだ・・・・・・嬉しい、・・・嬉しい。
――伊織、伊織。・・・あぁ、私の伊織。
――辛かった、寂しかった。・・・恋しかった、貴方が、・・・・・・・。
――でも、もう、いいんです。・・・・・・二度と逃がさないんだから。
――さぁ、私の手を取って。伊織。
――・・・・・・さぁ。

 それはもう一つの世界の私が良く知る京一郎の声とも、少し違っていた。
 そして目の前の無垢な彼の声よりも、少し低く掠れて、艶めかしい。
 京一郎の声と己の声が混ざって一つになったような、そんな声が、私の心臓を掴むように囁く。

――伊織。貴方は私のものだ・・・。

 強い眩暈が襲ってくる。あの世界で幾度となく私を苦しめた、呪いのように苦く、快楽のように甘い・・・。

――・・・どうしたの、伊織。私と一緒に・・・さぁ。

――"・・・・・・いざや。"

「――っ!!」
 誘う声が禍々しい女の声と重なったような気がして、私は必死に京一郎の肩を押し返した。
 気付くと酷く汗をかいていた。
 確かに今日は蒸し暑い日だったかもしれないが、既に陽は傾き始めている。
 荒い息を整えながら、私は妖しく微笑む京一郎を睨んだ。
「お前は誰だ。」
 心臓を素手で触られているかのような、ざらざらとした感触が絶え間なく続く。その微細な違和感の一つ一つが、まるで性感の如く私の内側を煽る。

――私は貴方の京一郎です、伊織。貴方は私の伊織でしょう。

 妖しく心地良い声は、私を諭すように優しく笑った。
 違う。
 私は"お前"の伊織ではない。そしてお前も、"あの"私の京一郎ではない。
 京一郎。
 聞こえるか京一郎。
「お前は戦争のない世に生まれた。現代を、いまを生きているのだ。」

――そんなことどうでもいい。伊織、貴方だって、ずっと私を求めていたでしょう。知っているんだから。

 私は"お前"を求めはしない。
 京一郎。
 私の声が聞こえるか。
「私は帝国陸軍少将ではない。死霊を扱って戦争はしない。だからお前の力は必要ない。」

――でも、私の血がないと貴方は呪いに苦しめられてしまう。

「呪詛体でもない。お前の血がなくとも、呪いで死ぬことはない。」

――伊織、何を言っているの。何が言いたいの。

 京一郎は苦しげに眉を顰めた。
 恍惚の表情が歪み、その顔に恐れや怒りが現れては消え、時折背筋が凍るような恐ろしい形相が浮かぶ。
 薫と会った時にはこのようなことは起こらなかった。直接触れなかったから?それとも、くちづけが引き金となったのか?
 どうしたらいい。このままでは京一郎が狂ってしまう。何も知らなかったはずの、喪失や悲哀を知るはずもなかった彼が、私と出逢ったばかりにおかしくなってしまったとしたら。
・・・ここで私が名を呼んでやれば、何とかしてやれるのだろうか。
 私が、京一郎、と名を呼びさえしたなら、彼を苦しみから解き放つことができるのか?
「――私はお前を縛り付けない。だから、お前は私に関わらなくていい。」

・・・しかし私はそれでも、まだ記憶を手放すことをできずにいた。
 なぜなら、私の中に流れているはずの血、"あの"千家伊織は、沈黙しているのだ。
 こんな時にこそ、それこそ目の前の京一郎のように私の意識を奪って、どうにかなってしまったらいいのに。
 まるで私を試すように意地悪に、私の判断を冷ややかに見守るように。常々喧しいはずの私の中の感情は、静かに凪いでいる。
「伊織、さん・・・」
 喘ぐように、京一郎は私の名を呼んだ。
 そうだ、お前は己を手放してはいけない。
 他人の想いに、その身をむやみに預けるべきではない。

――厭だ、伊織。私を拒絶しないで。
――貴方はあんなに私を求めていたじゃないか。
――たくさんの人を殺して、私を無理矢理屈服させてまで手に入れたんじゃないか。

"あの"京一郎は、私の記憶にある彼とは異なっているように思われた。"あの"私の死後、何が起こったのか不明だが、彼は少なくともすぐには死ななかったのだろう。恐らくは千家伊織を想い愛憎を募らせながらも、生きたのだろう。
 それを思うと憐れで、胸が痛む。この期に及んで沈黙している千家伊織ほど、この千家伊織は冷酷になれない。
 しかしながら私が心を向けるべきは今を生ける人間であり、目の前の京一郎をこそ護らねばならない。
「記憶など求めるな。お前の持つ感情は、幻だ。」

――幻なんかじゃない。私は時を超えて、世界を超えて、貴方が居るここに、やっと来れたんだ。

 強く反論する声は、涙に濡れていた。
 なぜ、私は抱き締めてやれないのだろう。
 なぜ、"あの"私は、波立たない。
 京一郎は焦点を結ばぬ瞳をぼんやりとこちらへ向けている。その奥に、"あの"京一郎がいる。震える嗚咽が聞こえるような気がする。
 あぁ、そうだな、私にはお前の声が聞こえるさ。お前の想いを受け入れてやりたいとも思う。
 けれど・・・・・・。
「お前は記憶に頼らず、お前自身で、お前の生を選べ。」

――貴方は、私を選ばないの、伊織。
――私がやっと見つけた貴方は・・・・・・

 悲愴な声は、徐々に弱弱しくなっていく。
「記憶の中のお前は、死んだのだ。お前は初めからここには居ない。そしてお前の求める伊織は、私ではない。」

――・・・・・・・・・・・・―――――。

 私はあの世界の京一郎を振り切るように立ち上がった。
「・・・幻など放っておけ。お前は、お前自身の感情だけ見ていればいい。」

 ヒグラシの鳴く声が聞こえる。
 橙色の空はいつしか薄闇に混ざり、紙を千切ったような雲はぼやけて、涙を零した手紙のようだった。

 俯いていた京一郎が、ゆっくりと顔を上げた。
「伊織さん・・・」
"あの"京一郎では、なかった。
 私は腰をかがめ、彼の髪に触れた。
 少し面映ゆそうに一度目を伏せ、京一郎は微笑んだ。
 愛らしいな。
 正直、手放すのは惜しい。
 髪を梳いてそのまま頬に触れようとした手を、私は急いで引いた。危うく不審なまでに触れてしまうところだった。
 京一郎と私は出会って間もない。我々の間に関係など、まだ存在していない。ましてやここは公園だ。
 物欲しそうな視線から目を逸らす。
「伊織さん、」
 袖を引かれる。
 私はどのような顔をして彼を見ればいい?
「・・・私のためを思って、言ってくれたんですよね。」
 京一郎は、言葉に閊えながら、ゆっくりと訊いた。
「なぜ、そんなにしてくれるんです?」
 違う。
 お前のためなどと言えるほど、私に余裕はなかった。あれはほとんど、己に言い聞かせているようなものだ。
「貴方は、・・・もう一人の貴方と私の関係を後悔しているんですか?」
 後悔・・・。
 私はそう思っていた。京一郎を置いていったことを後悔しているはずだと。より良い関係を築けなかったことを、二人の幸せを求められなかったことを、きっと悔いているはずだと。
 しかし、血塗れの怨霊のようになってしまった京一郎を目の当たりにして出てこない千家伊織が何を考えているのか、もはや私には理解できない。彼を救えるのは私ではなくて、"あの"私しかいないはずだというのに。
「・・・どうでもいいことだ。」
 らしくもなく、拗ねたような声が出てしまった。京一郎は、掴んだ袖を、きゅ、と握った。
「ねぇ・・・」
 彼の声は、"あの"京一郎のそれよりやや幼く、しかし真摯だ。
「貴方は私を貴方から引き離そうとするけれど、それが私のためだというなら、私は貴方をもっと知りたくなる。・・・こういうのはおかしいんでしょうか?」
 私には答えることができない。もう一人の私の感情を見失ったいま、京一郎に向けられる気持ちが誰のものであるか、確たる自信を持って判じえない。
「・・・行かないで。」
 かといって、袖をつかむ手を振り払うことも、できない。
「お願いです。」
 そんな声を出さないでほしい。記憶と決別したいこの意志を揺るがせないでほしい。
・・・・・・だが私は、真に彼を拒みたいのか?
 それとも・・・・・・。
「記憶のことを除いても、私は、・・・いま私の目の前にいる貴方と、歩いてみたい。」
 京一郎の言葉が、私を揺さぶる。
 記憶も無いのになぜ私を求めるのだ。それは真に、お前の感情なのか。
「伊織さん。」
 囁くように呼んで、京一郎は袖ではなく私の手を握った。
 また"あの"京一郎が現れるだろうかと身構えたが、体の内側を焼くような感覚は生じない。
 触れ合う膚に感じるのは、痛みとも官能とも違う、譬えるならまるで、淡くはじけるような甘さだった。

  しゅわわわわわ。 

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