One more time, One more chance 千家 8 結縁


 夕焼け小焼けのメロディが公園のスピーカーから流れている。ブランコから勢い良く降りた子供は、もう一人の手を取り公園を去っていった。

 初めて会った時、もちろんそれは記憶の話だが、私は京一郎へ共に来いと言い手を差し伸べた。そしてその手をすり抜け、真正面から断ってきた京一郎を捕らえ、無理矢理私のものにした。彼はそれを自ら選んだ道なのだと己に言い聞かせているようだったが、それは私に蹂躙されたのではないという矜持を守るための、ほとんど方便だったと言っていい。
 その京一郎が、私の手を握って離さない。
 この状況をどう理解したらいい?
「・・・なんだ、それは。」
 私に対する多少の愛着も多大な恨み言も知らぬはずの彼を動かしているのは、いったい何なのだろう。
「まるで、求婚しているようだな。」
 揶揄うとまた、京一郎は少し狼狽えながら、そんなんじゃ、などと呟いた。しかし私の手は握ったまま。
「お前は、誰だ。」
 もう一度、私は訊いた。
 先の疑問に対する答え――私を求める理由を、恐らく彼は持たない。しかし持たないなりに、彼がどう理解しようとしているのか知りたかった。
「私は柊京一郎。帝大2年で、経済学部への進学を希望しています。いま住んでいるのは本郷に近いワンルームで、部活は・・・」
 馬鹿真面目に自己紹介を始めたので、つい吹き出してしまった。
 成る程。色々あってなお、彼は彼のことを、彼であるとしか理解していないようだ。
 笑われてむっとするところを見ると、何か謀ろうという意図もないのだろう。
「分かった。・・・では、私も同じように自己紹介しようか。」
 京一郎は少し考えてから、早口で言った。
「貴方は千家伊織さん。この辺りに住んでいて、華道の先生をやっていらっしゃるんでしょう?」
 華道のことは話したことがなかったはず。彼も彼なりに私のことを調べたようだ。
「よく知っているな。」
「・・・そして、私と同じ記憶を持っている。」
 つまりは彼も私と同じく、記憶の謎を解き明かしたいと考えているということか。
「・・・それで、お前は今後どうしたいのか。」
「ぁの・・・あの、私と、・・・・・友達になってくれませんか?」
 京一郎は躊躇うように、上目遣いでこちらを見た。
 友達?
 私と、お前が?
「友達・・・・・・。」
・・・考えたこともない。
 が、よくよく思えば、気の合う知り合いが友人となるのはいたって自然なこと。この京一郎と私の間に知り合いと言えるほどの親密さがあるのか、また気が合うのかどうか、疑問は残るものの、しかし無関係とは到底言えぬしがらみを持っていることは互いに承知済み。
「・・・年長の貴方にこんなことを言うのは厚かましい、でしょうか。」
 確かに、主従関係だった。かつては。
 しかし今ここにいる私達の間柄を称するものは、まだ何もない。
"あの"京一郎と出会って間もない頃、同じように私が友人となるよう求めていたら、何と答えたのだろう。少しは友好的だっただろうか。それとも、やはり嫌がられただろうか。
「成る程、な。ふふ。」
 五本刀の元頭領が私を暗殺しようとしたあの雨の夜以降だったなら、きっと気味悪がって言っただろう。
――何です、それは。質の悪い冗談はよしてください。
「友達か。・・・友達、ふぅん。」
 それを、お前から言うか。
 またつい、笑みが溢れる。
 気付くと京一郎は、しょんぼりと項垂れて、私の手に持つ花をうっそり眺めていた。私が反応しないため、色よい返事を期待できないとでも思ったか。
 こちらの気を知らないのだから、無理もない。不安そうな表情が不憫になる。
「よかろう。友達になろう。」
 努めて明るい声を出してみた。京一郎は跳ねるように顔を上げ、瞬きした。
「そんな風に言われるのは幼い頃以来だ。面白い。」
 私と京一郎の関係は、あの世界では血を交わすことにより始まった。彼の貞操、誇り、将来を、私が奪ったことが、最初であった。
 だから私は、彼と関わる機会を再び得ることのできたいま、今度は彼から奪うのではなく何か彼に与えることで始めたい。
 しかし私に与えられるものなどあるのだろうか。
 いますぐに渡せるもの・・・今日求めた花はアリウムか。しかしその花言葉は確か"悲しみ"だった気がする。
「いかんな。」
 私の得意とするのは花しかない。何か、新たな関係の始まりに相応しいものはないか。
 顔を上げて辺りを見回す。湿気混じりの空気に乗って甘い香りが鼻をくすぐり、振り向くと、公園に植えられた低木に、八重咲きのクチナシの花が俯くように咲いていた。
 そうだな、外国でダンスパーティーへ女を誘う時に差し出すとも聞くこれであれば。
――彼に喜びをもたらさんことを。
 花弁に傷のないものを選び、手持ちの和鋏で切り落とす。
 ちょうど京一郎は襟付きのシャツを着ていたので、その胸ポケットに挿した。
「これ・・・」
「クチナシだ。香りがいいだろう。」
 京一郎は小さく息を吸って微笑む。気に入ったようだ。目が合うと、照れたように睫毛を伏せた。
 さて。これからどうしようか。
 京一郎の申し出により彼と関わる建前ができた。が、どうしても、"あの"千家伊織の影響を強く受けている自覚がある以上、私から積極的に接触を持つ気にはなれない。となると、彼から私へ接触しやすい状況を作るのが早いだろう。流石にこの状況でうちへ入門しろと言うのも気が引ける。ならば。
「水曜、木曜の今くらいの時間だったら、大抵、坂の途中のカフェにいる。」
・・・元よりそういう習慣があったわけではないのだが、この際今後そうすることにしてみよう。
「え・・・?」
「会いたいなら、来ればいい。」
 どうだ、京一郎。来てくれるか。
「・・・じゃあ、明日も?」
「居る予定だ。」
「あの、いろいろな紅茶があって人気のお店ですよね?」
 京一郎は食い気味に声を弾ませた。
「よく知っているな。」
「明日、必ず行きます。」
 意志を感じる声に、つい頬が緩む。
"あの"京一郎の伯父との商談の帰り、警戒心剥き出しの彼を自宅へ送り届けながら、陸軍省へ出向かざるを得ないように仕向けたあの時とは大違い。
「これは命令ではないから、来ないのもお前の自由だ。」
――その場合、諸々の保証はしかねるがな。
 そう言ったら、彼は怒りと恐怖に顔を強張らせていたものだが。
「絶対行きます!約束します!」
 京一郎は重ねて、朗らかに宣言した。
 その曇りのない瞳はいったいいつまで私に向けられるのだろう。
 このように私が彼へ求めるものを、"あの"私も、やはり心のどこかで求めていたのだろうか。
「・・・・・・おかしなことだ。」
 空を紅色に染める落陽は、あの世界も今ここも、何も変わらないというのに・・・――。

 翌日。
 昼過ぎ、結局まだ目を通していない旅行雑誌を手に喫茶店へ向かう。
 京一郎は来るだろうか。
 そう言えば連絡先を交換していなかった。まぁ、交換したところで何を連絡するわけでもないのだが、こういうとき落ち着かないものなのだと知った。
 少し路面より床の高いこの店の中からは、表通りを見下ろせる。彼がどちらからやって来るかは不明だというのに、しかも己は壁際の席にいるというのに、本を眺めながらもついつい外を気にしてしまう。
 ウェイターが注文した何杯目かの紅茶を卓に置いて去ったとき、背中から遠慮がちに声がした。
「こんにちは。」
 京一郎だ。
 振り向くと、控え目に微笑みながら、ここ座っていいですか、と言った。
「・・・本当に来るとはな。」
 私は不思議な感慨に浸っていた。
"あの"京一郎を攫った翌日、部下が彼に暴言を吐き、帰らせてしまった。あの時京一郎との間に介在した関係は肉体的な、しかも力により屈服させての繋がりでしかなく、また私としても彼を道具としてしか見ておらず、朝の寝間に部下を入れたことは失敗だったと珍しく後悔したものだった。
 いま考えれば、もっと上手くやれば良かったものをと思うが、"あの"私は焦っていたのだろう。二度も遊民や五本刀の邪魔にあった以上、下手を打つと五本刀の隠れ屋敷にでも匿われてしまう恐れもあった。
「お邪魔、でしたか・・・?」
 京一郎は不安そうに私の顔を覗き込んだ。
 違う。お前の家へ無理に上がり込んで連れ戻したこともあったというのに、お前がこうして、友好的な態度で来てくれたことに、私は・・・――。
「いや。何か頼むか。」
「あ、えっと・・・」
 京一郎の頼んだお茶は、苺やらハイビスカスやらが入った女が好みそうなもので、運ばれて来たカップからは甘だるい香りが立ち上っていた。
「おせんべい・・・」
「うん?」
「あ、いえ、何でも。」
 そう言えば館林隊襲撃の直前に、彼が湯島から着物など持って来た夕方、香ばしい香りの紙袋を抱えていた気がする。あれは、煎餅だったのだろうか。
・・・馬鹿馬鹿しい。私自身の記憶でもないというのに、懐かしがるなど。しかも相手はこちらのことなどほとんど覚えてなどいないというのに。
 気づくと雑誌を眺める体で京一郎を放置してしまっていた。彼は私が読書に夢中だと思ったのか、学術書を広げていた。大学の講義の予習だろう。
  今の彼が無事帝大へ通えているということでこんなにも胸が温かく感じるなど、思いもしなかった。"あの"千家伊織もきっと、彼を洋行させてやるという約束を果たせなかったことを、少なからず不本意に感じていたのだろう。
 自然と緩む頬を隠しながら、また私は雑誌に目を落とした。
「・・・伊織さん、あの」
 声を掛けられ顔を上げると、窓の外には薄ら夜の帳が下りていた。
「あぁ、もうこんな時間か。」
 京一郎の居る空間が心地良くて、時の過ぎるのを感じる間もなかった。
「はい、私はこれから予定があるので、そろそろ帰ります。・・・あの、」
「随分長居をしてしまったな。私も帰ろう。」
「あ、はい。・・・あの」
 先程から何か言いたげだが、どうも歯切れが悪い。
「なんだ。」
「いえ・・・あ、ここって別会計できましたっけ。」
「気にしなくていい。」
「そんなわけにはいきません。」
 そんなことを言いたいわけではないだろうに、おかしな奴。
 私は手持ちの花束からまた数本短く切って、彼の胸に挿した。
「あ、これ知ってます。ラベンダーですよね。」
 安眠に効果があるらしいと告げると、京一郎は興味深そうに嗅いで、微笑んだ。
 この花には、"お前を待っている"という意味がある。知らないだろうが。
「ではな。」
 京一郎は、胸ポケットを握りしめてはにかんだ。
「また来週、来ますね・・・!」

 このような具合で、我々は週半ばの午後に会うようになった。といっても、ただ同じテーブルについて、各々読書や勉強をしているだけだ。
 私が居ると告げた日でなくとも、茶が気に入ったのか京一郎はしばしばこの喫茶店に来るようになった。
 偶然居合せると、何となしに相席し、お互い読書やら勉強やらしている。
 日頃、知人と会ったなら何かしら話題を提供し、会話を途切れさせぬよう気を遣うところだが、どうも京一郎相手だとそういう気にもならず、結果的にほとんどお互い無言で好きに過ごしていることが多い。
 京一郎は京一郎で、例の記憶について聞きたそうな視線を向けて来ることもあるが、私が知らぬふりを続けるのに諦めたのか、最近はあまり追求してこない。
 意外にも彼はこの静かな時間を気に入ったようで、飽きもせずせっせと毎週やって来る。通学路に立地しているわけでもないのに、よく通って来ると思う。
 京一郎との親睦を深めることを目的とするのなら、基本的には実利を優先する常の考え方からすれば、この過ごし方はまるで非効率だ。
 しかし私には目下のところ彼との関係をどうこうしようという気はなく、つまり目的など何もない。その時点でらしくないのだが、加えて、時折目が合うと控え目に微笑んだり、少しばかりの会話をぽつりぽつりと交わすなど、些細なことになにやら満たされた気になってしまう。
 情けないと言うのが正しい表現かは別にしても、しかし、このひとまわり近くも年少の男の、・・・言うなれば虜にされている自覚がある。
 それは、もう一人の私の潜在的な希望が満たされているためなのか、私自身が彼により喜びを得ているのか・・・。
「おかしなことだ。」
 この私が。
 そんなことを考えているときですら、京一郎の姿を思い浮かべると胸が躍るようで、私はひとり苦笑した。

  次回はとんでもない感じに。

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