One more time, One more chance 番外編 2
千家と暮らす部屋へ戻ると、彼は静かに紅茶を飲んでいた。
彼の横に腰掛け、ティコゼーを上げると、用意されていた空のカップに千家が茶を注いでくれる。
湯気の立つカップを両手で包みながら、京一郎は溜息をついた。
「憂鬱そうだな。妹と会うのは久しぶりだったのだろう?」
千家は赤い湯の揺れる京一郎のカップに、少しだけミルクを注ぐ。好みを完璧に把握した分量。
(さすがに母だってここまでは知らないだろう。)
一緒に暮らすようになって、まだほんの数週間なのだ。なのに、初めから知っていたかのように、千家は京一郎の好みを理解している。京一郎だって、千家が朝に弱いのをなぜだか知っているから、大切な用のある日は必ず早めに起こしてあげている。
今更、失うことなんて堪えられない。だから千家に良い相手なんて、現れてはならない。それがたとえ、妹だとしても。
京一郎は千家の肩に頭を預けながら、小さく呟いた。
「・・・私は、櫻子のものではありません。」
意図が掴めなかったのだろう。千家は京一郎の髪を指で梳きながら、小さく笑う。
「急に、どうした。」
「・・・だから、今日妹が来た時のこと。貴方が私を櫻子から借りるという言い方はおかしい、って言ってるんです。」
「ふぅん?」
相槌が熱い息に混ざって耳朶を撫ぜ、思わず京一郎の身体は硬くなる。
耳の後ろから首筋を柔らかな唇がなぞった。
「・・・は、・・・んぅ・・・ぉり」
京一郎の顎のあたりから見上げて、千家は意地悪そうに笑う。
「では、あの時、京一郎は私のものだからお前がとやかく言う筋合いなどない、とでも言えば良かったか?」
「そうじゃ、ないけ、ど」
そんなこと、言われたら困る。それこそ親に何と告げ口されるか分からないし、伯父にだって千家と暮らすことを反対されてしまうかもしれない。
京一郎はカップをテーブルに置き、千家の首に両腕を回して引き寄せた。
「・・・貴方の良い相手とか、私の彼女とか、そういうのも、厭だ。」
少しだけ、拗ねてみる。
千家は目を細めて、含み笑いをした。
「今日は随分と可愛らしいことを言う。須藤氏に勧められて酒でも飲んだか。」
「ふふ。ちょっとだけ。」
ねぇ、伊織。
声にならない掠れた音で京一郎は囁く。
「やっと、二人きり、ですね。」
いつもこの部屋には二人だけだろう。
千家も掠れた声で返す。
「一緒に住んでいても、貴方は不規則な仕事があって、私は大学があって・・・。毎日こうしてゆっくりできるわけじゃない。現に貴方が帰ってきたのは2日ぶりです。それに、」
今日は、少し騒がしかったでしょう?
京一郎は不満気に口を尖らしてみる。
「そうだな・・・」
千家は楽しそうに、突き出た唇を指でなぞる。男性の割に肌理細かく色白な人差し指を京一郎が前歯の先で噛むと、目を細めた。
だが、それも案外悪くない。
続いて聞こえた柔らかな声に、京一郎は満足して瞳を閉じた。
「伊織・・・」
ソファの下、ふわふわとしたラグの上にゆっくり押し倒される。
京一郎の顔に、千家の長い髪がさらさらと落ちる。
逆光の中、見つめる瞳が蕩ける。
「京一郎」
甘い声は胸を震わす。熱い唇が触れる。
(伊織がうちに居る日は毎晩こんな風だってこと、櫻子に知られるわけには行かないけど・・・)
少し唇を開いて舌先を舐め合い、また少し重なりを深くして舌を絡め合ううちに、いつの間にか夢中でお互いを貪り合っている。
京一郎は、千家に求められるのが好きだ。
どちらの方が愛情が深いだとかそういうことではなく、もちろん京一郎も千家と同じように彼を求めているのだが、初めて夜を共にしたその日まで何故だか千家が京一郎の名を呼ばなかったから、こうして求められるとどこか安心するのだ。
(本当は、ほかにも何か理由があるような気がするんだけれど・・・)
たとえば、ずっと長い間千家とこうなることを望んでいたような、そんな気がする。だが京一郎が千家と出会ったのはここ最近なのだ。だから、ずっと長い間というのはきっと思い違いだ・・・と思うことにしている。
「伊織。」
京一郎は腕を伸ばして千家の髪を撫でる。
千家も京一郎の髪に手を入れて、指先で頬と耳朶を愛撫する。
「もう・・・、どこにも行かないで。」
二人きりで睦み合うとき、必ず京一郎が口にする言葉だ。
もう、というのは何なのか。過去に千家が京一郎を置いてどこかへ行ってしまったことなどないはずなのに、何故そう言うのか、京一郎は分からない。けれど、言わずにはいられない。
千家は影になって黒い京一郎の瞳を覗き込む。
欲情からでなく潤んだ瞳に少しだけ済まなさそうに目を細め、安心させようとするように微笑む。
「・・・分かっている。どこにも行かない。」
そして、千家も尋ねない。彼だってその言葉の真意を理解してはいないはずなのだ。けれど、きっとどこか共通する思いがあるから、こう答える。
「いつまでも、お前の傍に。」
千家は京一郎の目尻に唇を寄せて、ほんの僅か滲む涙を掬い取る。
白い頬に触れて、京一郎はやっと微笑む。
ほっとしたように微笑みを返し、壊れ物を包み込むように、千家は京一郎を抱き締める。
「・・・私の、京一郎。」
抱かれながら満足そうに小さく笑って、それから今夜のように居間ではじまってしまった時、京一郎はこう付け加えるのだ。
「ねぇ、伊織。部屋に、行きましょう?」
――お前は、これから私の家で暮らすのだ。
千家からそう言われたとき、京一郎は伯父や両親に何と説明すればいいか、頭を悩ませた。
そして結局うまい言い訳を考えつくこともないうちに伯父と会う機会があったので、まずは友人の話なのだがと前置いて、ルームシェアをどう思うかと聞いてみた。すると、こともなげに彼は言ったのだ。
「あぁ、千家先生のことだろう?ご本人から聞いているよ。いやぁ、いまをときめく先生に気に入られて、しかも部屋まで提供してもらえるなんてね。本当に人との出会いとは不思議なものだなぁ。折角の機会だからいろいろ教わるといい。勉学とスポーツだけじゃなく、芸術も人生を豊かにするからね。そういえば妙子もアレンジメントを習っているんだっけ。」
そのうち絶対サインをねだられるよ、懸けてもいい、と彼はウィンクして見せた。
驚いて千家を知っているのか尋ねると、仕事の関係でもともと面識があったのだという。
「それにあのマンションは私の会社の持ち物だからね。君を借りることを許してもらうお礼にと、エントランスに飾る花を作ってくれたんだよ。」
そんな話、初めて聞いた。伯父は上機嫌で続ける。
お陰で玄関が明るくなったと住人からの評判が良くてね。しかも千家先生の作というプレミア付きだ。それもこれも京一郎くん、君のお陰さ。感謝しているよ。そうそう、妙子には伝えておいたから、後で軽く電話しておきなさい。反対されることはないから、安心していいよ。寮生活の贅沢版といったところだと言ったら、贅沢は息子の為にならない、なんて言っていたけれど。
呆気にとられて、京一郎は、はぁ、と答えることしかできなかった。
千家はいつの間に根回ししていたのだろう。しかも彼を通じて両親の了解までも得てしまっているとは。そういえば、いつだかに伯父が会社経営をしているという話題になった際、聞かれて名を教えたような気もする。あのときは、知っているなどという話はなかったと思うのだが・・・。
それだけ京一郎と暮らしたかったということだろうか。そう思うと、何やら嬉し恥ずかしでくすぐったい気がした。
朝、軽くシャワーを浴びてトーストを焼きながら京一郎がお茶を入れていると、のそりと千家が起きてきた。
「おはようございます。今日は早いですね。」
「昨夜はお前がいたからな。よく眠れた。」
カウンターキッチンを覗き込み、ジャムだけ薄めに、と注文をつけながら浴室の方へ歩いていく。
京一郎は水にさらしていたレタスをちぎり、半分に切ったプチトマトと一緒に小さなボウルに盛り付け、ドレッシングを添える。
真っ赤な缶から茶葉をティーポットに入れてお湯を注いでいると、少しぼうっとした様子で千家が戻ってきた。
「あ、また!」
京一郎は肩にバスタオルをかけたままソファへ身を沈める彼に駆け寄り、髪を包むようにタオルを手繰り寄せて、両手で軽く掴む。たっぷり水を含んだ長い髪の毛からじわじわと水が浸み込み、あっという間にタオルは濡れてしまう。
「もう・・・お風呂上がる前に何度か絞ってって、前も言ったのに・・・」
「朝から小言は、勘弁願いたい・・・」
また眠ってしまいそうなふわふわした声で、京一郎に髪の世話を任せたまま千家は目を閉じる。タオルの下のシャツまで濡れて湿っているというのに、気持ち悪くないのだろうか。
「ちょっと!いま朝食の準備ができたところなんですから寝ないでください。ね、いーおーり!」
長くて多い髪を手早くタオルドライして、乾いた別のタオルを肩にかけ直してから、京一郎は千家の両腕を引っ張って立たせる。
「はいすっきり目の覚めるダージリン!飲んで、伊織!」
カウンターチェアに座らされ、カップを持たされてそのままぼんやり口元に運んだ千家は、急に不機嫌そうに目を見開いた。
「・・・・・・!」
「伊織?」
呻きに似た溜め息に、京一郎が顔を覗き込むと、むっつり口を閉じている。味がおかしかっただろうかと、京一郎も淹れたての紅茶をふぅふぅ吹きながら飲んでみた。朝用に少し濃い目だけれど、我ながら良い塩梅の出加減だ。
となると。
「もしかして・・・舌を火傷、したんですか?」
返事をしないのは肯定ということだろう。面白くなさそうにトマトを口に入れている。少しでも冷やそうというつもりらしい。
「・・・自業自得ですよ。私は寝ないでって言ったんですから。いただきます。」
京一郎は手を合わせ、サラダにドレッシングをかける。今日はフライドオニオンなど硬い素材を入れなくてよかったな、などと考えながら横目で見ると、千家はトースト片手にまた片目を細めて不機嫌感を露わにしている。
小さく溜息を吐いて、京一郎は千家の手から齧りかけのトーストを取り上げた。
「当たると痛いんでしょう?それは私が食べますから。」
冷蔵庫を開けてヨーグルトを取り出し、ガラスの器によそって、トーストに塗ったのと同じジャムをひと匙落とす。
「はい。これなら冷たいし、少しはましだと思いますよ。」
「・・・・・・」
千家は黙って受け取ると、無表情で匙を口に運んだ。
今度は顔を顰めることもなく、黙々と食べている。
うん、ちょっと機嫌直ったみたいだな。
こっそり笑って、京一郎は歯型のついたトーストに齧りついた。
旅行に行って、部屋とか大浴場にあるドライヤーの風力が弱いと、長髪の人間はかなり困るものです。大正時代に毎日伊織さんの髪の毛をタオルドライしてた京一郎さんの努力と忍耐力には頭が上がりませんです。