One more time, One more chance 番外編 3



 東京にいる兄が引っ越すと聞いた当初、私は特段なにも思わなかった。
 彼が家を出て行ってからもう1年以上経つし、最低でもお盆とお正月には必ず帰ってくるから、向こうでどこに住んでいようと、私に関係のあることだとは思わなかったのだ。
 しかし、母の少し弾むような、それでいて少し心配そうな声はこう続けた。
「でも、大丈夫かしら。」
「なにが?」
「ルームシェア、なんですって。あの子人当たりは良いし協調性もあるから心配はないと思うけど、だって突然、他人と暮らすっていうのはねぇ・・・」
 意味がよく分からなかった。
 でも、漠然と、女だ、と思った。
「どういうこと?お兄さま、女の人と同棲するの?」
 きつい声で母を問い質すと、違うの、ずっと歳上の人よ、ふしだらな話じゃないの、と優しく諭すように言われた。
「どうだか。東京に行ってお兄さま、さっそく悪い女に引っかかったのね。そんなことじゃないかと心配してた。ちょっとぼうっとしてるとこあるし。私、お兄さまに電話する。」
 すると、父がゆっくりと私を呼んだ。
「櫻子。」
 恐る恐る振り返ると、父は目を閉じていた。
 こういう風に何か言う時、彼は逆らうことを許さない。というか、私たちは逆らえない。
 どっしりと根の生えた木のような父は、小事に目くじらを立てない。私や母と違って細々としたことにはよく気付かないけれど、大道を見る彼の示す導はいつだって正しい。・・・と兄はよく言っている。
 そして、父はまたゆっくりと目を開いて、私をじっと見据えた。
「お兄さまはもう大人なんだ。何が正しいか見極められない歳ではない。京一郎が選んだことなら、私たちはそれを見守るしかない。」
 まるで、おまえは子供なのだから余計なことを言うなと言われているみたいで悔しくって、私は口ごたえをした。
「だけど、まだ学生だわ。お父さまから仕送りをもらって生活しているんでしょう。」
「櫻子。」
 父の声が低くなった。私はぎくりとする。
「確かにおまえの言う通り、京一郎はまだ完全に自立してはいない。しかし、仕送りしたお金は就職したら少しずつ返す約束だ。今回の引越し費用も自分でやりくりするということだし、今月から仕送りの額も減らして欲しいと言ってきた。」
 そんなの分かっている。私は黙って唇を噛んだ。
「京一郎には、減らした分のお金でおまえに携帯電話を買ってやってくれないか、と言われた。」
「・・・えっ」
 携帯はずっと前から両親にねだり続けていたが、一向に許可を得られないでいた。理由は、必要ない、との理不尽な一言だけ。周りのみんなが持っているのに、私だけメールができなくて、部活の連絡もいつも仲の良い子から前日に電話してもらうか、翌日の朝に教えてもらうのがもっぱらだ。
 当然、友達から電話が掛かってくるのも居間にある固定電話。これじゃあ、ゆっくり話もできない。子供のときとは違って、親に聞かれたくないような話題だって私たちには沢山あるのに。
 私は、不便だから、みんなに迷惑だから、と説得を続けてきた。しかし古風な両親は、日がな一日友達と繋がり続けることなんてない、と一蹴。果ては用があるならうちの電話があるでしょう、だ。お話にならない。
 だから、兄がそんな私のことを思って申し出てくれたことに、ちょっと涙ぐみそうになった。
「櫻子。それでもおまえは、お兄さまを悪く言ったり、口を出したりするつもりなのかい?」
 私は、小さな声で言った。
「・・・ごめんなさい。」
 そっと父を見上げると、優しく微笑んでいた。母は、さ早くお風呂入りなさい、と私を急き立てた。すぐに携帯を買う話に持って行きたくないのが分かったけれど、父は口にしたことを撤回しないタイプの人間だから、私は大人しく部屋に着替えを取りに行った。

 週末、携帯電話を買いに母と町に出た。
 本当はスマホが良かったんだけれど、結局ガラケーの、しかも機能が制限されているものしか与えられなかった。見た目も子供っぽいし、正直私の好みじゃない。
 それでも、手持ちのストラップを沢山つけ、100均で買ったビジューを両面テープでうまく貼り付けてみると、それなりに様になった。
 何より、やっとなんとか友達に追いつけたという安心が、中学に上がってから私を苛んでいた焦燥感を多少なりとも和らげた。

 家に帰ると、伯父が来ていた。母の兄で、東京で社長をしているお金持ちだ。
 伯父夫婦は、私のことを気に入っている。まだ子供がいないからか、お正月じゃなくてもお小遣いをくれることもあるし、伯母は私の好みを知っていて、流行っているメーカーの服を買ってくれたりもする。子供扱いしないで話を聞いてくれるから、私も彼らのことが好きだ。
「伯父さま!」
 呼んだら、太い眉をゆるゆるにして、嬉しそうに笑った。
「櫻子ちゃん、少し見ないうちに背が伸びたね。」
 いかにも親戚っぽい台詞で、この調子じゃ来年には私の背を越えてしまうかな、なんておかしなことを言う。
「伯父さまを越えたら可愛くなくなっちゃう。」
 可愛く膨れ面をしてみせると、それもそうだ、と皆が笑った。

 伯父はその夜、うちに泊まった。
 京一郎の様子はどうなんです、と母が聞くと、伯父はまた嬉しそうに、会うたびに男ぶりが上がっているよ、などと答えていた。
「でも、結構お歳なんでしょう、千家先生。」
「何を言っているんだい?まだせいぜい20代後半から30代前半といったところさ。」
 その言葉に食卓は一瞬騒然とした。
 母も父も、兄の同居人は老人だと思っていたようだった。伯父だけが空気を読まず、一芸で身を立てるのは並大抵のことじゃない、立派な人だよ、などとにこにこしていた。
 私は、やっぱり、と思った。
 母は動揺したように父を見たが、多少驚いた様子の父はそれでもやはり、息子を信じなさいというようにゆっくりと頷いた。
 これだから、うちの両親は兄に甘くていけない。
 私には女の子だからとか言って無駄に心配してくる癖に、兄になると任せておきなさい、だ。面白くない。全然承諾できない。
 これはやはり、私が視察してくるしかあるまい。いくら兄の口添えで携帯を手にすることができたとはいえ、大切な私の兄を、何処の馬の骨か知れない女の好きにさせるなんて駄目だ。そんなこと絶対に許すわけにはゆかないのだ。
「伯父さま、明日帰るんでしょう?私も一緒に行きたいなぁ。伯母さまにもずっと会ってないし。」
 私は両手を膝の上に置いて少し身を乗り出し、隣にいる伯父を見上げておねだりした。今までこれで彼が落ちなかったことはない。
「おや。櫻子ちゃんからそう言ってくるのは久しぶりだね。」
 伯父は嬉しそうに両手を広げる。
「ちょっと、急に迷惑じゃない?新幹線も取れるかわからないし。」
 母が申し訳なさそうに言う。
 伯父はすぐさまスマホで誰かと話をして、数分後には、隣り合わせの席で切符が取れたから問題ないと言った。私はにこにこしながら、心の中で、よし、と気合を入れた。

 翌日、伯父について東京に出た私は、兄にも会いたいと言ってみた。急に訪ねて居るか分からないけれど、と言いながらも、伯父は快く案内してくれた。
 私を連れてマンションの入り口まで来た彼は、慣れた手つきで部屋番号のボタンを押す。
「はい・・・あ、伯父さん、今開けますね。」
 インターホンから懐かしい兄の声がする。スピーカを通しているせいか、心なしか低めに聞こえる。
「京一郎くん、今日は私じゃないんだ。ほら。」
 そう言って伯父は私の背中をそっと押した。ちょっとだけどきどきしながら、私は黒いドームみたいな形のカメラの前に出る。
「・・・えっ、あれっ・・・えっ櫻子?!」
 兄は、明らかに動揺しているようだった。
「お兄さま、お久しぶり。遊びに来たわ。」
 にっこり笑ってみせると、なんだか弱気な声で、よく来たね、いま下に行くから待ってて、と言われた。
 これはいよいよおかしいぞ、と私の直感が告げる。
「じゃ、私はもう行かなければならないけれど、あとは京一郎くんに任せてもいいかな?」
 伯父が少し済まなさそうに私を見た。
「はい。夕飯前に、伯父さまのお家にお兄さまと一緒に行けばいいのよね。大丈夫、またあとで!」
 きゅ、と目を細めて手を振ると、伯父はとっても嬉しそうに黒い車の中から手を振った。

 エレベーターホールからやってきた兄は、どことなくそわそわしていた。私はそっと、兄のシャツの裾を掴む。
「・・・お兄さま、私が来るの、やだった?」
 訊くと、全力で否定された。
「そんなことないよ!おまえに会えて嬉しいよ、櫻子。」
 そう言って、微笑んだ兄は私の髪を撫でた。
 そのやり方がなんだか変に様になっていて、私はまた不審を募らせた。
 兄を見上げると、やはりどこか緊張した面持ちで、どうかした?という風に見返された。私は、ううん、と可愛い笑顔を返した。

 兄の部屋に入って、さぁ全部白状させてやるぞ、という時に友達から電話があった。携帯に着信するのが初めてだったから、嬉しくて私はちょっとこなれた風に会話してみた。
 それを兄は、私が不良か何かになったと思ったらしく、すかさず小言を寄越そうとするので牽制しているうちに、兄が家を出てからこれまで少しずつ蓄積されていた、兄が居ない寂しさだとか、私から兄を奪った女への怒りだとか、なんだか幸せそうな兄への苛立ちだとかが急に身体中に溢れてきた。兄が驚いて弁解しようとするのが、さらに私の思いに火をつける。

 その人が現れたのは、とりあえず兄にこの感情を無性にぶつけたくなって立ち上がった時だった。
 まぁまぁ背も高いはずの兄を越す長身、艶のあるさらさらの髪、美しい顔立ちに、どきっとする不思議な微笑み。
 一瞬、女かと思ったけれど、その出で立ちと声から、男の人だと分かった。
 その後の会話で、彼こそが兄の同居人であり、私の想像していたようないやらしい間柄は存在しなかったことが分かった。
 兄が急にひとつ屋根の下で暮らし始めたのは、両親の思っていたような老齢の女性でも、私の思っていたような姑息な年増女でもなく、不思議な魅力を湛えた、美麗な男性だったのだ。

 伯父の家で伯母の手料理に舌鼓を打つと、名残惜しそうに引き留める伯父をやんわりとあしらい、兄は彼の居るマンションへ戻って行った。
 別れ際に、翌日約束している渋谷での買い物には彼も来るか訊くと、逆に、どうして、と訊かれた。確かに友達の妹の買い物に付き合うなんてと兄が疑問に思うのも自然だと思う。でも私は、あの人のことが気になるからと言う気にはならなかった。
 兄もそれ以上特段追及してこなかった。

 広くて明るいお風呂に浸かりながら、私はあの人のことを思い出していた。
 手の甲に、キスをされた。
 兄にだって、そんなことされたことない。
 もちろん、あれが恋愛感情によるものではなく、外人みたいな、挨拶的なものだというのは分かっている。
 だけど、だって、あんなこと今まで誰にもされたことないのだ。
 私がドキドキするのは当然なんだ。
 あの人はイケメンだし、優しそうだし、兄とも仲が良さそうだし、だからきっといい人だ。
 だから、また会いたいと思うのは変じゃないはずだ。
 あぁ、でも、みっともないところをたくさん見られてしまった。きっと、がさつな女だと思われたと思う。伯父の前にいるときみたいに、おとなしく可愛くしておけばよかった。

・・・兄は明日、彼を連れて来るだろうか。
 私のこと、彼はなにか言っていただろうか。
 そればかりが気になってつい兄に電話しそうになったけど、変に勘付かれても嫌なので、明日楽しみっ、とハートをたくさんあしらったメールを送るだけに留めて、私は客用の布団に潜り込んだのだった。

  櫻子ちゃん・・・。
  

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