One more time, One more chance 番外編 4



 玄関チャイムが鳴った。
 櫻子が走って出て行くと、ドアの向こうにいた京一郎は、少し驚いたように笑った。
「おはよう。いま走って来ただろう。渋谷に行くの、そんなに楽しみだった?」
「おはよう、お兄さま・・・」
 言いながら櫻子は、そっと目線を動かして彼の後ろを探る。けれど、京一郎の他に誰かが居る様子はない。
 こっそり落胆しながら、行ってきまぁす、と声を張り上げた。
 無意識に左手を握る細い手を見つめて、京一郎はそっと微笑む。
「櫻子、なんだか元気がないね。」
「・・・そんなこと、ない。」
「昨日はよく眠れた?」
「うん。」
「今朝は、ちゃんとご飯食べた?」
「当然でしょう、私は子供じゃないんだから。」
 少しムッとして櫻子が顔を上げると、京一郎はごめん、そうだったね、と微笑んだ。
「でも、ちゃんと食事を摂らない大人もいますからね。」
 なによそれ、と面白くなさそうに顔を背ける櫻子の耳に、聞きなれない声が降る。
「誰のことだろうな。」
 どきりとして、思わず兄の手を強く握る。
「櫻子、」
 呼び掛けられて恐る恐る見上げると、少し困ったように笑う京一郎の向こうに、千家の姿があった。
「ぁ、」
「おはよう、櫻子さん。私も買い物にお供して構わないかな。」
 匂い立つような微笑に声が出なくて、櫻子は無言で頷いた。
「ほら、朝の挨拶は?」
「・・・おはよう、ございます。」
 小さな声でもごもご言うと、兄の腕にしがみつく。顔を隠すように長い腕に抱きついていると、千家はくすくすと笑った。
「本当にお兄さんが大好きなんだね。妬けるな。」
 櫻子が、腕に巻きつけた手をまた、きゅ、と強くする。
 千家の軽口に、京一郎は二人を交互に見つめて、小さく溜息を吐いた。

 目当てのショッピングビルを一度通り越し、ごちゃごちゃとした道を行く。道沿いに所狭しとビルが並び、路面店はカラフルで目が回りそうだ。
「お兄さまは、よく渋谷に来るの?」
 京一郎の腕をしっかり掴んだまま、櫻子はそっと訊いた。
「私はそんなに、かな。」
「でもなんだか慣れてるみたい。」
「一応乗り換えの駅だからね。大学の友達とはこの辺りで飲むことが多いんだ。」
「何を飲むの?」
 無垢な瞳に訊かれ、京一郎は少し躊躇った。
「ん・・・、お酒、とか?」
「ふぅ・・・ん?」
 何やら悪事がばれたような気まずい雰囲気に、思わず千家を見遣ると、我関せずという体でくすくす笑っている。
 最近何かと口を出してくる妹がまた何を言いだすのだろうと京一郎は身構えたが、櫻子は何も言わず物珍しそうに町並みを見回していた。

「あ、ここだよ。」
 三人は京一郎の案内で、坂の途中にあるこぢんまりとした洋食屋に入る。
「オムライスがお勧めかな。伊織、さんもそれでいいですか?」
「任せる。」
 ずっと兄にしがみついていた櫻子は、さすがにテーブルに着くと腕を離したが、それでもやはり落ち着かなさそうに椅子を引いて、京一郎に寄った。
「・・・大人でもオムライス、食べるのね・・・」
「そりゃぁ、食べるよ。子供の食べ物だと思ってた?」
 京一郎が訊くと、櫻子は少し口を尖らせた。
「別に。ただ、ちょっと私に合わせたつもりかしら、って思っただけ。」
「櫻子、そんなことないよ?この間、同期の女の子たちが美味しいって連れてきてくれた店だから、おまえも気に入ってくれるかな、って思ったんだ。」
 家を離れて1年半、難しい年頃になった妹の扱いに慣れていない京一郎は、極力優しく、矜持を傷付けないように注意を払いながら言葉を選んだつもりだった。しかし、急に櫻子の態度は冷たくなる。
「女の子・・・?」
 あぁ、しくじった。
 そもそも昨日からの櫻子の不満は、京一郎の異性関係に対する不信感から来ているものだったというのに、ついぶり返させるような話題を提供してしまった。
 京一郎が救いを求めるように向かいに座る千家を見上げると、当人は悪戯を思いついた子供のように、怪しげな笑みを浮かべた。
「櫻子さん、京一郎くんは大学生だ。高校までとは勉強の仕方も違うのだろうし、学生同士で助け合うことが必要になる場面もあるだろう。そんなときに、男だ女だと言って付き合いを偏らせるのは勿体無いことではないかな?折角日本で一番良い学校にいるのだから。」
 優しく声をかけると、目を合わせるのが恥ずかしいのか、テーブルを見つめながら櫻子は反論する。
「それは、そうだと思いますけど、私は兄が心配なんです。」
「何が心配なのさ。」
「だから!お兄さまは優しいから、多分モテると思うけど、なんかいろいろ疎いから、変な女とかに騙されたりしないか、心配なの!」
「中学生に心配されるほどじゃないよ私は!」
「・・・ふ。」
「ちょっと伊織さん?どうしてそこで笑うんです」
 千家まで巻き込んで小競り合いが勃発しそうになったとき、料理が運ばれてきた。ひとまず休戦の雰囲気にほっとしながら、京一郎は編み籠からカトラリーを取り出して二人に渡す。
「私のは櫻子と違う味だから、欲しかったら分けるからね。」
 櫻子は無言で頷いた。
 程よく炊かれたチキンライスの上に、楕円形の美しいオムレツが乗る。ナイフで中心から切れ目を入れると、花が開くように半熟の卵が溢れ出し、土台になっていたチキンライスを包み込んだ。
「・・・美味しそう・・・!」
 目を輝かせて、櫻子はスプーンを口に運ぶ。
 その姿はまだ、己の知る小さな妹を思わせる愛らしさに溢れているようで、京一郎はこっそり微笑んだ。

「京一郎」
 目の前の皿に夢中になっていた櫻子は、急に兄を呼ぶ声にどきりとした。その声があまりにも柔らかく、しっとり甘くて、男性が男友達を呼ぶようなそれとは随分と異なるように思えたからだ。
 そっと見上げると、千家は口元を指さしている。横を見ると、しかし京一郎の口元は汚れてなどいない。
 櫻子と顔を見合わせて、京一郎は、あぁ、と笑った。
「櫻子、ちょっと動かないで。」
 小さな顎を片手で支え、口元をナフキンで優しく拭う。
「ふふ。なんだか、昔を思い出すね。」
 嬉しそうに世話を焼く兄を櫻子は恨めしそうに睨んだ。しかし指摘したのが千家であることを思い出し、顔が赤くなる。上目遣いでこっそり見ると、彼は気付いていないように付け合わせのサラダを口に運んでいた。
「・・・いつもは、こんなこと・・・ないもん。」
「そっか。」
 取って付けたような聞こえよがしの弁明に、京一郎はまた笑みを深くした。

 昼を済ませると、いよいよ櫻子お待ちかねの買い物だ。
「わぁ・・・!」
 テレビの中にしかないはずだった憧れのショッピングビルが目の前にある。いつか来る今日の日のために、友人とファッション雑誌を囲んでは、この店に行こうね、あの店でカフェラテ飲もうね、などと話したものだった。それが思い掛けずいま実現している。
「さぁ、まずどこに行きたい?」
 京一郎の問いに、櫻子ははしゃいだ声で答えた。
「下から全部!」

 エスカレーターでひとつ階を上がるたびに、櫻子は全ての店を回る。女の子たちの憧れの店だけあって、エスカレーターをぐるりと囲むように、服飾雑貨の店舗が並ぶ。
 初めのうちは横についてそれが似合うだとか、あれは下品だとかいろいろ口を出していた京一郎も、数回繰り返すうちに草臥れ果て、4階に着いたときにはついに通路のベンチにいる千家の隣でぐったりと項垂れた。
「女の子の買い物って大変だとは聞いていましたが、これほどとは思いませんでした・・・」
「私も昔、よく姉に付き合わされたな。主に荷物持ち役だったが。」
「お姉さんも、各階全部のお店を回っていたんですか?」
「いや、さすがにあれは、若さの為せる業だろう。」
「私もまだ若いつもりですが、あれには参りました。」
 苦笑すると、千家は微笑み、京一郎の頬に指の背で触れた。
「妹思いのお兄さまも、お疲れのようだな。」
 京一郎は頬を染めて、その指を掴んでそっと降ろす。
「伊織、そういうのは、ここでは。」
「そういうの、とは?」
 面白そうに顔を覗き込む千家から目を逸らし、小声で、分かってるくせに、と呟く。
 くすくすと笑いながら、千家は距離を作るように座り直した。
 そうされると何やら寂しくなって、京一郎は丸めて持っていたコートを二人の膝の上から掛ける。
「なんだ。」
 その下で千家の手を探り当て、手のひら同士を合わせて指を絡める。
「・・・・・・別に。」
 視線から逃れるように、妹の姿を追う。
「なぁ、京一郎。」
「なんです。」
 櫻子は大きなリボンのついたカットソーを胸に当てて、鏡とにらめっこしている。
 急に耳元に吐息を感じて、京一郎は思わず首を竦めた。
「・・・っ!!!」
 こんなところで何を、と振り向くと、紅い目を細めて千家は店の方を指差す。
 示す先では、櫻子が背の高い女性店員数名に囲まれている。たくさん服を持って来られて困っているようだ。流石におかしな事はないだろうが、ここは兄として助けに行かねばなるまい。
 立ち上がろうとした京一郎の手は、絡めたままの指に引っ張られ、コートが床へ落ちる。
「?伊織、離してください。」
「厭だ、と言ったら?」
「え・・・」
「私と妹、お前はどちらの希望を聞く?」
 まるで、仕事と私のどっちが大事なの、と詰め寄る我が儘な恋人のような言葉に、京一郎は一瞬困惑しかけた――が、すぐに千家の手を軽く叩いた。
「その手には乗りませんよ。」
「ふ・・・つまらん。」
 妙に機嫌の良い千家を背に、妹の元へと急ぐ。
 突然登場した兄の方へ、店員たちの興味は移った。櫻子の窮地は救えたものの、今度は京一郎がなんだかんだといじられ始める。
 臍を曲げた櫻子は、兄を放って千家の座るベンチへやってきた。隣に座ろうとして少し躊躇い、ぎりぎり一人座れないくらいの間を空けて腰掛ける。
「お兄さまを助けてあげなくていいのかな?」
 千家の問いに、櫻子は京一郎の方を睨みながら小さく答えた。
「・・・いいんです。」
「女性に囲まれてしまっているが?」
「知りません。」
 知らないと言いながら、しっかり目線は兄を捉えて離さない。
「・・・だが、面白くない、か。」
 囁くような甘い声に胸の奥を覗かれたような気がして、櫻子は膝丈のスカートをぎゅっと握った。
「・・・いつかは、・・・彼、女ができて、櫻子にも仲良くして欲しいな、なんて紹介してくるんだって、分かってます。でも、」
 胸に何かが込み上げてきそうになって、一度言葉を切る。こんなところでべそをかいていたら、また子供扱いされてしまう。
 昼に、優しく口元を拭いてくれたのは、千家の前では格好悪くて厭だと思ったけれど、本当は、少しだけ嬉しかった。まだ、小さな可愛い妹だと思っていると、守るべき存在として大切にしてくれているのだと、感じることができたから。
「・・・大学に合格して、おめでとうってゆっくり言っている暇もないうちに引越しの準備をして、行っちゃったんです、お兄さま。」
「・・・ふぅん。」
 千家の相槌は、とても興味深そうではないけれど、それでいて同意してくれているような温かさが含まれているようでもあり、櫻子は促されるように不思議と饒舌になった。
「東京の大学に行くんだって前からずっと言ってたし、分かってはいたことだけど、久し振りに会うたびに、お兄さまがどんどん大人の人っていうか、なんか遠くにいる人みたいな感じになっていっちゃって・・・」
 向こうの店の中で巻き髪の女性たちに囲まれた京一郎は、頭にリボンを乗せられたり、妹に買ってやれというのだろうか、ハートモチーフやチェック柄の鞄を持ってきて迫られたりして、困り顔でにこにこしている。
「私の・・・私だけの、京一郎お兄さまなのに・・・」
 膚に食い込みそうなくらい膝小僧を握りしめる手に、細くて長い指がそっと重なった。
 目に涙を溜めながら櫻子が顔を上げると、千家はまるで聖母のように柔和に微笑む。そして、小さな耳元に唇を寄せて、言った。
「・・・では、私が君のお兄さまを、護ってあげようか。」

  次回、千家さんのターン。
  

NEXT NOVEL PREVIOUS