One more time, One more chance 番外編 6



 櫻子は冷たい手の平で火照った頬を包んだ。
「お花畑じゃなくてお花摘みって言うんだったわ。・・・恥ずかしい・・・」
 意図が伝わらなかったらしく、千家は不思議そうな顔をしていた。
(だって、おトイレに行きたいとは言えないもの・・・)
 櫻子だって年頃の娘なのだ。直接的でない言葉を知っているつもりだったが、うっかり間違えてしまった。
 鏡の中の自分を凝視しながら、前髪を整える。小首を傾げて、やや上目遣いしてみる。
 大丈夫、可愛い。
 これなら彼の前に出ても大丈夫。
(・・・って、別に私は、伊織さんに気に入られようとしているわけじゃないもん。)
 そう。あくまで日頃兄が世話になっている相手への礼を重んじているだけであって、媚びるつもりではない。
(変な前髪で、ブサイクだと思われても癪だから、よ。)
 姿見の前に移動し、いつも母に言われているように、くるりと一回りする。
 スカート、捲れていない。
 髪の毛、問題ない。
 笑顔、完璧。
「よし。」
 小走りに軽食コーナーへ戻ると、京一郎がテーブルに戻ってきていた。奥に座る千家が、怪訝そうな顔をしている。京一郎の顔も見えてはいるが、こちらからは少し斜めの位置で、ほぼ背を向けている。
(何を話しているのかしら。)
 あまり元気に走ってもはしたないかな、と考え、櫻子は足取りを緩める。
 ふと、千家が微笑んだ。その顔がまるで、白く硬い蕾がふわりと綻ぶようで、甘い香りがここまで弾け飛んで来たような気すらして、目を奪われる。
 立ち止まる櫻子に気付かない様子の千家は、京一郎の肩に片手で触れた。
「・・・?」
 京一郎が少し顔を傾かせたので、頬に何かが着いていたのが分かった。
 そこに、千家の顔が近づく。
「ぇ・・・」
 形の良い唇が僅かに開き、肉色の舌が見えた。
「・・・・・・・っ!!!」
 一瞬のことだったけれど、確かに彼の舌は兄の頬に触れた。
 櫻子は両手で口を押えて立ち尽くす。
(いまのって、ほとんどキスみたいなもの・・・だよね・・・?)
 仰天して見つめる先の千家と目が合った。
 櫻子に気付いた彼は、目を細めた。
 目配せの意味が分からない。
 こちらへ見せ付けるように、京一郎の耳元になにか囁く。
 千家を向いた京一郎の顔は、こちらから見えない。
(お兄さま・・・?)
 京一郎は千家の腕にそっと触れた。
 彫像のような美しい顔が、再び兄に近づく・・・――。

「おや、お戻りか。」
 京一郎は慌てて千家の胸を押し返した。
 キスをしたのを、見られてしまっただろうか。
「ぁ、櫻子、あまおうミルクでいいんだよね、早く食べないと溶けちゃうよ。」
 早口で言いながらソフトクリームを渡す。椅子の上の荷物を除け、腰掛けながら、櫻子はそれを受け取った。
「うん、・・・ありがとう・・・」
 心なしか元気のない妹は、うっそりとソフトクリームを舐める。
 京一郎は千家を見やるが、さてな、と含み笑いされた。
「ちょっと、また何かしたんですか?」
 小声で尋ねても、さて、の一点張り。
「・・・櫻子、どうかした?」
 直接本人に訊いてみるが、俯いたまま首を振る。
「少し冷えてきたね、寒いかい?もうアイスはいらない?」
「大丈夫・・・」
 小さく言いながら顔を上げ、兄と目が合うと櫻子の頬は急に朱く染まった。なにか、見てはいけないものでも見てしまったかのように慌てて目を伏せ、コーンを齧る。
「櫻子、顔が赤いよ。具合が悪いの?」
「別に・・・」
 心配そうに覗き込む京一郎から櫻子は目を逸らす。
 その一瞬、千家がにやりと笑ったような気がした。
 ぎくりとしたように櫻子が動きを止める。
「伊織・・・?」
 今の笑みと、櫻子の反応が、気になる。
「無理しない方がいい。電車の時間まで、どのくらいある?」
 何もなかったかのように言う千家を不審げに見遣るも肩を竦められ、仕方なく京一郎は腕時計を確認する。
「もうそんなにないですね。そろそろ行こうか。櫻子、歩ける?」
「・・・大丈夫よ、お兄さま。行こ。」
 兄の手を取り、櫻子は立ち上がった。

* * * * *

 東京駅改札内に入り、土産物や弁当が並ぶ商店を眺めながら新幹線改札を目指す。
「そうだ、櫻子、お父さまとお母さまに何かお土産は買った?」
「あ・・・」
 京一郎に言われ、櫻子は気まずそうな顔をした。東京まで連れて来て泊めてくれたのは伯父だが、そもそもそれを許してくれた両親のおかげで今日一日遊びまわることができたのだ。自分ばかり派手に買い物をして、二人には手ぶらで帰るのは気が引ける。けれど、渋谷のビルで手持ちの小遣いをほとんど使い切ってしまい、残っているのはペットボトルを1本買える程度。
「お金、なくなっちゃった・・・」
 うなだれる妹の肩を、京一郎は優しく叩く。
「いいよ、私が何か買ってくる。ちょっと待ってて。伊織さん、櫻子とその辺りに居てください。」
 そして新幹線の改札前に千家と櫻子を待たせ、土産物店の並びへ走っていった。

「何か?」
 声を掛けられて、櫻子はびくりと肩を震わせた。ちらちらと盗み見ていたのを気付かれていたらしい。
「たかだか30分程度の間に、嫌われてしまったかな。」
 千家は肩を竦めてみせた。そんな仕草も、つくづく様になっている。
 目を逸らしながら、嫌い、というのとはきっと違うのだ、と櫻子は思う。
 だが、先程目にしてしまった彼と兄の親しげに過ぎる様子はあまりに衝撃的だった。それでいてひどく甘美で蠱惑的で、どこか背徳感すら感じながらも目が離せなかった。二人の間に流れる甘い空気に魅了された。
 到底、己が割り込める余地を感じなかった。しかし不思議と嫌ではないのだ。どころか、心が踊るような気すらするのだ。
 この感情が、憧れと言うべきものなのか、それとも別の何かであるのか、櫻子には判別をつけることができない。だから、少なくともあのとき見た光景が、見たとおりに受け取っていいものなのかどうか、見間違い或いは勘違いであるのか、はっきりさせたかった。
「・・・伊織さんは、・・・お兄さまと、どういう関係なんですか。」
 何と切り出そうか迷った挙句ダイレクトな質問が口から飛び出し、恐る恐る千家を見遣ると、気にする風はなくただ首を傾げられた。
「どういう、とは?彼とはルームパートナーだと自己紹介したつもりだったが。」
 その完璧な微笑を櫻子は怪しく感じる。そもそも声を掛けてきたのは向こうだ。こちらの意図はとうに伝わっているのではないだろうか。
「そういうのじゃないです。じゃなくて、だから・・・」
「だから?」
 千家は腕を組んで目を細めた。
「!」
(同じ顔だ・・・)
 あの時――京一郎に何事か囁きながらこちらへ目配せした時と同じ。
 彼はこちらの言わんとすることを理解している。素知らぬ振りをして抜け目ない。やはり彼と兄との間には何かある。
 櫻子は千家から一歩離れ、身構えた。
 しかし、父親以外の大人の男性と論争した経験など、櫻子にはない。京一郎とすらも、口喧嘩程度しかない。千家と出会ってまだ間もないが、一筋縄でいかない相手であることは、その余裕の態度から十二分に察せられる。
「だから、その・・・」
 たじろぎながらも、櫻子は必死に考える。何と言えば、千家は動揺を見せるだろうか。どのように突けば、あの状況の真実を暴き出すことができる?
(でも、何と言ったところでうまく躱されてしまいそう・・・)
 考えた挙句、己の小手先で勝てる相手ではないと判断した。
「伊織さん、明治神宮でお兄さまと・・・キ、スしてたでしょう?!」
 口にし慣れない単語に、つい噛んでしまったが、はっきり聞いてやった。さあどうする千家。櫻子は彫像のように整った顔を覗き込む。
――が。
「そうだったかな。」
 顔色一つ変えず、千家は涼しげに微笑んだ。
 やはりそう簡単にボロを出してはくれないか。
 一瞬怯んだ心を奮い立たせ、櫻子は畳みかける。
「お兄さまのほっぺ、・・・舐めたじゃない。私見たんですから。」
「よく覚えていないな。」
 糾弾したつもりだったが、千家は全く動じず、にやにやと笑っているだけ。
 櫻子は必死に食い下がる。
「・・・っ!ただのルームパートナーなら、あんなことしないでしょう?」
「ふぅん。」
「ふぅんって!だからどういうつもりって聞いてるんです!」
 つい声を荒らげると、小さく笑った千家は櫻子を正面から見据えた。丸裸にされたような気になって、また一歩、櫻子は後ずさる。
「どういうつもりとは?そもそも、ただのルームパートナーとは何だ?」
 穏やかな声が優しく問う。
 いきり立って応えようとした櫻子は、己が千家の問いに対する回答を持っていないことに気付き、動揺した。
「ぇ・・・だから、・・・変な・・・そう、変なことしないってことよ!」
「変なこと、とは?」
 何故言わせようとする?分かっているだろうに。
 櫻子は二人の熱いくちづけを思い出し、口元を両手で覆った。ドラマのラブシーンだって、内心落ち着いてみてなどいられない。背伸びしてませた振りをしていても、実際そう何度も気軽に口にできることではない。
「だから・・・」
 吸い込まれそうな紅い瞳に耐え切れず、目線を逸らす。
「キス・・・」
 前髪の上のあたりではっきりと囁かれ、顔が真っ赤になる。
「っ!!!」
「――したとして、それが、変なことなのか?」
 甘い声に屈しそうになり、必死に言い募る。
「・・・だっ、て・・・だって変だもん。男の人同士とか・・・」
 言いながら、櫻子の心の中に疑問が生まれる。二人の関係を問い詰めて、己は何がしたいのだろう。
 何故なら厭ではないのだ。二人の仲睦まじい様子を想うと、心が昂るのだ。むしろ、もっと見ていたいかもしれないような気すらするのだ。
「ふぅん?」
 くつくつと笑う声が、兄より低い男性の声が、膚の内側をくすぐるようで、櫻子は身じろぎする。
「では、女性が京一郎くんにキスをするなら、君は良いのか?」
 その言葉にどきりとした。
 渋谷の店にいたような、流行の服や化粧で飾り立てた女性たちに取り巻かれて、そのうちそんな一人の女性の腰を抱いて自分の前に現れる彼の様子が思い浮かんだ。
 そんな兄を、櫻子は見たくないと思った。
「そう言えば君には、群がる女たちから彼を守って欲しいと頼まれたのだったな。」
 千家の囁きは、眠気を誘うように櫻子の思考を縛る。
「私は京一郎に何か危害を加えたか?京一郎は嫌がっていたのか?京一郎が私のことを好ましく感じていないと、君は思うのか?」
 視線を上げて、紅い瞳を見つめる。
 どうだ、と訊いてくるその微笑に、京一郎を、櫻子を、陥れようとするような策略めいたものがあるようには感じられなかった。
「・・・思わない。」
 それは深い井戸のようで、澄んだ宝石のようで・・・――。
「櫻子さん。」
 瞳の不思議に吸い込まれそうになった櫻子は、名を呼ばれてはっとする。
 引切り無しに人が出入りする改札前の喧騒の中、千家は変わらず甘い声で囁いた。
「私はこれからも君との約束のとおり、京一郎を守ろう。ただし君にもひとつ約束して欲しい。」
「・・・なんですか?」
「私と――」

* * * * *

「ごめん、レジが混んでて。あぁ良かった、間に合って。」
 息を切らしながら戻ってきた京一郎は、真顔で見つめ合う千家と櫻子の様子に、またしても首を傾げた。
「・・・どうしたの、二人とも・・・」
 京一郎に向き直ると、二人はそれぞれ、違った表情で笑った。
 櫻子は、なにかを期待するように瞳を輝かせて。
 千家は、どこか妖しく満足げに。
「お兄さま、今日一日付き合ってくれてありがとう。とっても楽しかった。」
 ここ一番の笑顔で礼を言われ、拍子抜けしながらも京一郎は微笑んだ。
「そう言ってもらえると、案内した甲斐があるよ。」
「また遊びに来てもいい?」
「もちろん。」
「やった!」
 小さくガッツポーズをして、櫻子は千家に向き直った。
「伊織さん、ふつつかな兄ですが、末永くよろしくお願いします。」
「こちらこそ。」
 二人の視線が曰く有り気に絡み合い、そして互いに微笑む。
「え、・・・櫻子?」
「じゃ、またね、お兄さま。」
 首を傾げる京一郎に一度ぎゅっと抱き着いてから踵を返し、櫻子は改札を抜ける。
 新幹線ホームへ続くエスカレーター前で櫻子が振り返ったとき、千家は京一郎の腰を強く抱き寄せた。不意のことに反応が遅れ、頬と頬がぴたりとつく。
「ちょっと伊織!」
 引き離そうとしながら京一郎が慌てて顔を上げると、櫻子はしっかりこちらを見ていた。顔を真っ赤にしながら、口を片手で押さえている。
 血の気が引くような気がしたのも束の間。
 エスカレータに乗りながら嬉しそうに親指を上に突き出す妹を、またしても京一郎は狐につままれたような顔で眺めたのだった。

<了>   
  ご読了お疲れ様でございました。 これが現状精いっぱいです、うぇぇん(´Д`;A  オマケは↓よりどうぞ!
  

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