傍で。
京一郎は、右下にある長い黒髪が時折揺れるのを、ぼんやりと眺めていた。
空気は冷やりと冷たく、背に当たる西日がほんの僅かだがぽかぽかと気持ちいい。そろそろ下着も重ねないと夕方の業務に差し障るな、などと考える。
暗い色の左手袋が英国製のカップを持ち上げ、日毎夜毎京一郎の膚を噛んだり舐めたり忙しい唇へ運んだ。
(あ・・・。)
カップの中は、空だった。
茶が無いぞなど小言を言われるかな、と京一郎は身構える。
艶やかな髪がひらめいて、彫像のような顔がこちらを向くかと期待したのだが。
左手袋はあたかも適量の茶が入っていたかのごとく、優雅にカップを受け皿へ戻した。
もちろん小言はない。
京一郎はそっと腰をかがめて、絹のような髪の隠す表情を窺ってみる。
やや俯きがちの顔は、垂れ下がる横髪に邪魔されて良く見えない。が、紅い瞳はじっと右手袋の捲る書類に注がれたまま、窺うこちらに気付く様子もない。
喉が渇いたと感じたから、茶器に手を伸ばしたはずなのだ。日常の動作であるから、きっと確かに水分を補給したに違いないと、無意識に己の行動を信用しているのだろう。
(だけど貴方がいくら信じていても、私は信用していない。)
意識的に彼の行う行動に抜け目はない。常に2手先3手先を読み、合理的な手段を選択する。
しかしながら、彼が無意識に行う彼自身を維持するための行動には抜けがありすぎる。
横に居て冷や冷やする。はらはらする。ひとりにするのが心配になる。
(まるで、2つ3つの子供を見ているようなんですよ。)
京一郎は、射干玉の髪をひと房掬って彼の左耳に掛けた。
しかしまだ、彼は紅い瞳を上げようとしない。
「千家中将殿。」
返事はない。
「千家・中将・殿。」
「・・・・・・ん」
長い睫毛は伏せたまま。
「伊織。」
ゆっくり、一音一音はっきりと、京一郎は呼びかける。
「・・・なんだ――――ん」
やっとこちらを向いた白い頬を右手で包んで、くちづけひとつ。
ちゅ、と音を立てて唇を離すと、蝋人形のようだった顔に、小さく花が咲く。
「少し、休憩しましょう?」
お茶を淹れますね、と言いながらカップに手を伸ばすと、長い腕が腰に絡みついて、京一郎はすとんと彼の膝の上に収まった。
「・・・そうだな。」
茶を飲み損なった唇をしっとりと膚に受けながら、考える。
(明日はもう少し早く声をかけようかな。)
京一郎は千家の手袋を外した。
<了>