私だけの。



 扉も叩かず乱暴に開き、広い執務室を見回す。
 刻限を過ぎた室内には、淡墨の漂ったような空気が満ちている。
 机上の洋燈がぼんやりと照らす各所を、睨みつけるように追ってゆく。
 暗色の軍服は薄暮に紛れる。加えて烏の濡れ羽の如き長髪のこの室の主人は、この時分まるで擬態でもしたかのように、闇と見分けづらくなるものだから。
 果たして彼は寛いだ様子で長椅子に身を預け、脚を組んでいた。
 手許には洋語で記された分厚い報告書を携え、軽く首を傾けて眺めているようだ。
 私はまた扉を叩きつけるように閉め、早足で彼の元へ近寄り、目も上げぬ細い顎を持ち上げて、打つけるようにくちづけた。
 がちん、と歯の当たる音がした。
 彼の下唇が切れた。
 血の味がしたけれど、構わない。
 舌を押し込み、歯列をなぞり、彼の髪ごと頭を掴んで、乱暴な接吻を続ける。
 彼は声も出さず、拒むこともせず、私に応えていた。

 どのくらいの間、そうしていただろう。
 私の息が落ち着いた頃、彼は唇を離し、私の髪を柔らかく梳いた。
「・・・なにか、あったか。」
 いつの間にか膝の上の報告書は脇へ寄せられている。彼は私の腰を手繰り寄せ、空いたそこへ載せた。
「・・・・・・特段、何も。」
 私のこの言葉遣い、態度、行動の全てが、この組織において有無を言わさずの折檻及び処罰の対象に当たるのだが、この室には私と彼以外、上官も下士官も居ない。
 彼は気にする様子もなく、喉の奥で小さく笑って、私の頬を掴み、下から覗き込んだ。
「ふぅん?」

 彼の私に対する特別扱いは依怙贔屓と一括りに出来るほど単純ではなく、はっきりとした利害が――尤も利益はほぼ一方的に彼の得ているものであるが――存在している。だから私に後ろめたいことなど何もない。私は真の意味で彼の単なる部下ではなく、彼も私に対等であることを許しているのだから。・・・無論、帝国陸軍の中枢を担う上級将校に青二才が斯様な振る舞いを許される現状に背筋が寒くなることは、時折あるけれど。

 しかし今日のような日は、優しくなどされたくなかった。
 判りやすく慰めの言葉や励ましの言葉を与えるような男ではない。けれど気紛れの所作は屡々、不意を突き私を揺るがす。

 今日は酷く気の塞ぐことがあった。
 目の前に、彼のことを良くも知らず、悪し様に言い触らす輩が居た。関係者であったなら、後ろ盾の彼の女を引き合いに脅して黙らせるのが常であるところ、この男は真にすめらぎの血筋であった。ために迂闊な振舞いが躊躇われ、私は沈黙するしかできなかった。

 こんな時、昔の私なら、ひとり部屋に籠って読書でもするか、木刀など振って気を紛らわしていたものだ。
 けれど今の私には、彼が居る。
 ひとり鬱鬱とする無駄も、草臥れるまで腕を振り回す手間も、その膚に触れる一瞬でまかなわれてしまう。
 父の訓戒だとか、母の労りだとか、妹の笑顔だとか、それら総ても、この温もりが包含してしまうものだから。
 私は怠けて、甘えてしまうのだ。

 薄ら笑みを浮かべる彼の青白い顔に、切れた唇から血が滲む。
 相手がいくら彼であるとて、乱暴に過ぎた行動であった。狼の戯れ合いではないというのに。
 不意に後悔と羞恥が込み上げ、私は痛痛しい唇に、そっと触れた。
「・・・・・・痛かった、ですか?」
「私の血を目当てに、唇を噛み切ったのだと思っていたが?」
「違います。」
「どうだか。」
 鼻で笑う彼の頬を掌で包み、唇の端を舐めたら、やはり血の味がした。

――あの男の身体に流れるのは我々と同じ血ではないのだろう。
 それはそうだ。彼がそのせいでどれだけの痛みや苦しみを、他の代わりに受けてきたことか。

――きっと、赤い色などしていないに違いない。
 それは違う。彼の血は、赤くて、温かくて、鉄の味しかしない。

「・・・痛い思いをさせて、ごめんなさい。」
「ふん。私の膚を切り刻むのはお前の専売特許ではないか。何を今更。」

――人当たりの良い振りをしているが、きっとあの男に心などないのだ。
 それも違う。彼がどれだけ人の死や死したものに心を痛めたことか。

「今日はそういうつもりじゃなかったんです。」
「では、どういうつもりだ。」
 私は彼の頬を撫でた。
 彼は血の色をした目を細め、機嫌の良い猫のように閉じた。
「伊織・・・・・・」
 私は彼の唇に、できるだけの優しさと慈しみを込めて、くちづけを施す。
 彼もまた、私のくちづけに優しさと慈しみを返しながら、応じる。
「本当は、こうしたかったんです。」
 唇を離さず、口の中で呟く。
「ひねくれ者め。おかげで怪我をしたぞ。」
 拗ねた囁きが返ってくる。
「ごめんなさい。」
「傷口が沁みる。」
「帰ったら、もっと、優しくしてあげますから。」
「その言葉、忘れるなよ。」

 こんな柔らかい接吻をできる人間なのだ。
 こんな風に優しく抱き返すことができる人間なのだ。
 血の流れる痛みを、誰よりよく知る人間なのだ。
 私の、千家伊織は。

 そう、言ってやりたかった。
 けれど彼は、そのようなこと望んではいないから。
 私が知っていればそれで構わぬと思っているようだから。
 私は。

 代わりに彼に、そう、伝えた。
 彼は、低く笑って言った。

「ふぅん。」

 私は、私だけの知る彼を、抱きしめた。

<了>   
  雰囲気SSですた。 ん、執務室に長椅子ってあったっけ・・・あああるってことでっ!!
  

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