そして貴方は、また。 10 (最終話)


 髪を撫でる感触に、沈みかけていた意識が戻る。
 顔を横へ向けると、着物を肩から掛けた伊織がそっと微笑んだ。そう、最後の別れとなったあの時のように、優しく、情温かく。
 左腕を伸ばすと、伊織の頬に触れるはずの指先は、まるで影のように白い膚をすり抜けた。
「・・・・・・?」
 まだ私は、夢うつつなのだろうか。
 あるかなきかの私の掌に指を絡めて、伊織が囁いた。
「この手はどうした。」
 陽炎のようにゆらゆらと不安定な左手は、伊織の指の感触も、宙を舞う羽毛ほどしか伝えて来ない。
「これは、私の左手だろう。お前、いったい・・・」
 伊織は切なげに目を細める。
「・・・言ったでしょう?貴方の左手と差し替えたって。貴方のがあるから、要らなくなって、棄てたんです。」
 泣いたり啼いたりして、枯れてしまった私の声は掠れて途切れ途切れだったけれど、伝わったらしい。
 伊織は私の左手首を掴むと、唇で触れながら呟いた。
「・・・馬鹿なことを。」
 熱い息が、膚を湿らせた。

 先ほどまでは確かに私の体の一部であり、指先まで血が通い神経が巡っていたはずの掌は、まるでもう用済みと言わんばかりにその存在を失いつつあった。
 伊織の居ない十年の間、常に私の側に控え、時に叱咤し時に試し、時に心のよすがとなった左手。
 しかし私の心は不思議と波立つことなく、今宵の海のように静かに、伊織の左手との別れを受け入れられるように思われた。
 霞のように実体の薄れた、本来の私のそれより少しだけ細長く色白な左手は、明り取りから差し込む月の光に吸い込まれるように、少しずつ、消えていく。
 私と伊織は、それを、言葉なく見守っていた。

 手先の無くなった私の左腕は、まるではじめからそこに何もなかったかのように、綺麗に閉じられ、滑らかになっていた。
「なぜ左腕を落としたのだ。」
 棒のような私の腕に触れて、伊織が恨めしそうに呟く。
「え?」
「これでは不具合だ。」
 言いながら、私の右の掌に、彼の右の掌を重ねた。確かにこれではうまく指を絡められない。隣に立っても、手をつなげない。
 しかし。
「何を言ってるんです。私の右腕に貴方の左手を継いだら、両手が左になってしまうじゃないですか。」
 軽く腕を押し返したら、仏頂面で鼻を鳴らした。
「・・・ふん。」
・・・まったく。変なところで稚気を見せるのは、変わらないな。
 なにやら懐かしい遣り取りに、思わず笑みがこぼれる。
「・・・・・・あ。」
 そこでやっと私は、彼の様子が再会してからと異なっていることに気づいた。
「貴方は、・・・私の、伊織なんですか?」
 伊織は目を細めて、悪戯っぽく笑う。
「お前の伊織、とは?」
「私のことを覚えているのか、と聞いてるんです。」
 紅い瞳を覗き込む。
「私が己の半身を忘れる筈がなかろう。」
 高慢な唇は、つい先程までしつこく私の名を問うていたことなど棚に上げて嘯く。
 けれど、私の知るよりずっと素直に、その瞳は優しく揺れた。
「・・・待たせたな、京一郎。」
 やっと、呼ばれた。
 極める直前に聞こえたような気もしていたが、気のせいかと思っていた。
「あぁ・・・・・・、」
 伊織。
 私が彼を呼ぶ声は、音にならなかった。
 ただ、ひたすら胸が熱くて。
 震えて言葉を結ばない私の唇を指でなぞって、それから伊織は唇を押し付けた。
 いくらしてもし足りない。
 互いの体温を確かめ合うように、何度も口付けた私たちは、唇が離れるたびにそれぞれの瞳を覗き込み、微笑んだ。
 完全に記憶を取り戻したと思われる伊織は、しかしかつての冷たいそれでなく、私がずっと求めていた穏やかで慈しみを含んだ微笑みを、惜しみなく与えてくれる。
 その瞳には、情人に注がれる類のそれだけでなく、師が弟子を愛するような、父が息子を愛でるような、温かななにかが湛えられているように見えた。
「ふふ。」
「・・・ん?」
 思わず、小さく笑みがこぼれた。
「なんだ。」
 ゆったりと私の髪を梳く伊織は、やはり私と同じ気持ちでいるのだと思った。
 すっかり心が開放されて、つい悪戯心が湧いた。
 この人は、現在の私のことを客観的に、どこまで知っているんだろう。
 少し、からかってみたくなったのだ。
「ねぇ、」
「ん。」
「お父――」
 口にした瞬間。
 鮮烈な、それでいて鈍く灰色の、刃物のような鉛のようなものが身体の中を支配して、私の喉からそれ以上の発音を奪った。
「どうした、京一郎。」
・・・そう。
 私はこの人の養子になった。そしてその財産、地位、階級の全てを受け継いで、この人に代わって軍事作戦を進めてきた。私の成した行いの大半について、彼の期待を裏切ることはなかったと言っていいと思う。
 ただひとつ、五行莫无と昴太后陛下の暗殺を除いて。
「・・・貴方は、私の現状について、どこまで理解しているんです・・・?」
 恐る恐る、訊ねる。
「私の左手を後生大事に持っていたということは、私の跡を継いだのだろう。・・・ああ、そうか。これまでの術式作戦の指導者は、お前だったのだな、京一郎。」
 私は頷く。そして、重い息を一度吐き出し、告げた。
「私は千家京一郎。貴方のすべてを受け継ぎ、そして、・・・貴方からすべてを奪った人間です。」
 伊織は首を傾げる。
「すべてを奪った?」
「新聞を見たでしょう?昴太后陛下は暗殺され、五行莫无が完遂された。私はいまや国賊として追われる身。今更邸に戻ったところで、猶予なく捕縛され、死罪は免れない。お家も取り潰しになるでしょう。やっと貴方を見つけたというのに、私は貴方を迎え入れるべき家、貴方の財産、地位、階級のすべてを失ってしまった・・・!」
 伊織を見つけ、再び彼と心通わすことができ、喜びに舞い上がっていた私は、逃れようのない現実に打ちひしがれた。
 私は、伊織に返すべきものを返せない。与えたいものを、与えられない。
「京一郎。」
「貴方に無理やり記憶を取り戻させて、なのに私は貴方になにも――」
「おい、京一郎。」
「いっそあのまま、貴方を見つけずに――」
 やれやれと呟いて、伊織は私の頤を掴んだ。
「・・・お前はそんなに激情家だったか?」
 指に力が込められる。頬がよじれそうだ。痛い。
「いおぃ・・・」
「私が己の地位や階級や財産に、そこまで執着しているように見えていたのなら、心外だな。」
 伊織は冷たく目を細める。こんな顔を見るのも久しぶりだと、どこか感慨深い。
「そうゆ、わけしゃ・・・」
「ふぅん? では訊く。」
「れ、いおぃ、いたい」
 私の主張を無視して伊織は質問――尋問を続ける。
「私が生きて行く上で必要なものを理解しているか?」
「あらたが?」
「そうだ。私の半身であるお前なら、容易く答えられよう。正しく解答できたら放してやる。」
「ぇぇ・・・」
 突然の質問に、私は答えに窮した。
 生きるのには、家が要る、金が要る。伊織のような家柄の人間には大なり小なりそれなりの人間との関係が必要だし、そうだ、軍人であるには、また社交界に出るにも健康であることは欠かせない。
 どんどん連想が膨らみ、頭が痛くなってきた。
「鍵をやろう。ひとつ、だ。」
「ひとつ・・・?」
「それさえあれば、問題ない。」
 生きるのに、それだけあればいいもの・・・?
「降参か?」
 そうだと言ったら、何をされるのだろう。破れかぶれに答えた。
「・・・・・・水。」
 吹き出す伊織。
 その拍子に顎を握りつぶしそうだった手の力が緩んで、やっと解放された。しかし何をそんなに笑うのか理解できない。私はひりひする頬をさすりつつ、苦しそうに笑う伊織を見上げた。
「っくっ、・・・まったく、・・・っお前は・・・っはっはっ」
「・・・何なんです、生きるのに必要なものって。」
 しかし伊織は、目に涙を浮かべてまだ笑い続けている。
「・・・・・・。はいはい、降参です、さっさと教えてください。」
 こんなに笑う彼を見るのも初めてだ。作為的でなく笑うことが出来たんですね貴方も、など嫌味を言ってやろうかとも思ったが、効果が無さそうだったのでやめた。
 私は諦めて、もういい、と小さく零し、目を閉じ背を向けた。
 しばらく、くすくすと笑う声が聞こえていたが、やがてそれも止む。
 静かになった背に、ふと温もりが与えられ、伊織の腕は私を抱き寄せる。
 思わず頬が綻ぶ。腕の中に収まる安心感なんて、あの頃は感じた覚えがないけれど、彼が、支配するだけでない添い方のできる人間であったことを改めて知って、私は伊織とまためぐり逢えたことを心から嬉しく思った。
 そして彼は、いつもの調子で高飛車に言いのけたのだ。
「お前だ、京一郎。」
「・・・・・・え?」
「私が生きてゆくのに、お前さえいれば、他に必要なものなどない、と言った。」
 なんの技巧も、なんの謀略もなく。
 不意に与えられた言葉に、私は不覚にも涙ぐみそうになった。
「っそれは、・・・ぁ貴方の呪いを軽減できますから。」
「そう、お前は私の抱き枕だからな。」
「何ですか、それ・・・」
 伊織は私の耳元に、冗談だ、と囁いた。
「私はどうやらもう、呪詛体ではないようだぞ。だからその意味でお前が必要なわけではない。」
「・・・・・・え?」
 思わず振り向いた。これは冗談ではない、と前置きして伊織は続ける。
「左腕を落とした際に、呪われた血の多くが流れたらしい。加えてお前の血が抗体となって作用したのだろうな、この十年余り、呪詛に苦しんだ覚えがない。お前は?これまでなにか影響があったか?」
 確かに呪詛と思しき鬱陶しさを感じることがしばしばあったが、陽の気が跳ね返したのだろう、かつての伊織ほどの影響はなかった。そう伝えると、そうか、と彼はほっとしたように微笑んだ。
「そして止めの五行莫无により術が無効化し、私と皇統を結ぶ経路は切れた。これと昴太后陛下の弑逆については、恐らく天司様が暗躍なさったと拝察する。となれば呪詛体の消滅は玉体御自ら甘受なさった措置であり、憚りながら心配申し上げるのも筋違い。」
 臣民としては許されざることを、記憶を取り戻した伊織は臆することなく口にする。確かに、そう考えるしかない状況ではあるが、開いた口の塞がらない私に、この男は晴れやかに笑ってみせた。
「お陰で、私はあの煩わしい苦痛から完全に解放されたらしい。」
 考えてみれば呪詛体の寿命は短く、だからこそ彼は生き急いでいた。さして己の命に執着していないようだった伊織の見せる、言葉どおり憑きものが落ちたような顔に、短い命と覚悟し彼が自らに課していた重圧がどれほどのものだったか推察され、私は素直に微笑み返せなかった。
「・・・貴方は、後継者としての私の失態を、責めないんですか。」
 ただの人間・千家伊織としては、呪詛や軍から解放されて、それで良いのかもしれない。けれど、彼はそもそも人である以前に軍人なのだ。国を護ることこそが、彼の生きる意味であったはず。私はそれを奪ってしまった。
「・・・そうだな。確かに、避けたい状況ではあった。」
 目を閉じる伊織。
 呪われた運命が定まってからの年月を思っているのだろうか。やはり彫像のように整った面差しから、何らかの感情を読み取ることは、私にはできない。
「だが、このお前が出し抜かれたのだ、仮に私が同じ立場にあっても、結果は変わらなかったのだろう。」
 伊織の口から出たのは、淡々とした静かな声だった。
・・・そんな風に慰めないでほしい。
 罪悪感に苛まれる私は居たたまれなくて、強く言い返す。
「いいえ・・・。いいえ、貴方が私の立場にあったら、こんなことにはならなかった。私が無力だったための失策です。」
「お前は私が選んだ唯一の半身であり後継者なのだ。記憶を失っていた間も、その働きは新聞などを通じて知っている。お前は私の期待以上に働いた。それで十分だ。」
「ですが、・・・貴方はそれでいいんですか?呪詛に、死霊に、大切な人たちを奪われた貴方の生きる目的が、果たせなくなってしまったんですよ。・・・私の、せいで・・・!」
 体を起こして伊織を見下ろし、肩を強く掴む。
 しかし薄笑みを浮かべたままの彼は、やはり静かに言った。
「京一郎、今日はもう遅い。寝るぞ。」
「っ何を!」
 ほら、来い、と伊織は両手を広げる。
「・・・貴方の大事な話をしてるんです。」
「当の本人が寝ると言っている。他人のお前がどうこう言う問題ではない。」
「私は貴方の半身です。そして、・・・む、息子です、・・・戸籍上。」
「あぁ、そうか。・・・成る程な。では我が嫡男に命じる。いますぐ、寝ろ。」
 伊織は私を引き倒して腕の中に収めると、薄い布団を被った。
 感情の遣りどころを失った私は、身を捩ったり伊織に背を向けたりして抵抗していたが、そのうちじわじわと出てきた疲れに負け、いつの間にか眠ってしまった。


「京一郎、起きろ。」
 名を呼ぶ懐かしい声に、私は夢うつつに応える。
「・・・ん、もう少し。」
 ふ、と落とされた笑みに、温かい気持ちが心を満たす。
「お前はそんなに朝寝坊だったか。」
「・・・だって、昨夜は貴方があんなに――」
 呟いて、目が覚めた。
 思わず飛び起きて、意地悪く微笑む伊織と目が合う。
「あんなに、なんだ?」
「・・・・・・」
 夢ではないのだ。私の伊織は、確かにここに居る。
 そっと頬に触れると、ちゅ、と音を立てて口付けられた。
「さて。では京一郎、さっさと顔を洗って着替えろ。出掛けるぞ。」
「え、何処へ?」
「歩きながら説明する。兎に角身支度だ、急げ。」
 急き立てられるままに着物を替え、小屋の外へ出た。朝ぼらけの空に星がちらほら見えている。私が眠っていたのはたかだか数時間のようだ。
「こんな時間にいったいどうしたというんです?」
「どうしたもこうしたも、此処にはもう居られないだろう。違うのか、お尋ね者。」

 まず伊織が私を連れて向かったのは、彼が懇意にしている漁師の頭の家だった。伊織の小屋よりはしっかりしており、何部屋かある造りだ。邸というほどでもないが、生垣もある、それなりの家屋。
 こんな時間に訪ねるなど正気かと思っていると、伊織は表玄関でなく裏手の納屋へ回った。
 少し離れたところで待っているよう言われ、いったいなぜ泥棒のような真似をと頭を傾げる。数分の後、伊織は布に包まれた何かを持って戻ってきた。
「お前のいまの軍階級は?」
 小声で訊かれ、面食らいながらも除籍されているがと前置きして答える。
「ふぅん、出世したな。」
 口の端を上げ、伊織は包みを解いた。
 大事に包まれ、納屋に隠してあったのは、血塗れの軍服だった。
「・・・これは・・・」
「ここの娘がこれだけ売らずに隠しているのを、知っていた。服の型は現在のものと変わってはいないな?」
 私のより少しだけ大きいそれは、左袖が破かれて無い。袖から胸のあたりにかけて、白の縁取りは血液で朱く、濃紺の生地はより黒く染まり、かさついている。
 私の伊織はここに居る。しかしあの時の光景が目にちらつき、私は思わず伊織の左腕を掴んだ。
 伊織はその襟に着いた階級章に、燐寸で火をつけた。
 少将を示す刺繍の赤い糸が黒く焦げ、徽章は少しずつ小さくなってゆく。ちろちろと燃え進む火は、仕立ての良いサアジにも煤色の穴を拡げる。
 私は横でそれを見つめながら、伊織は彼の象徴のようだった黒衣を燃やすことに抵抗がないのだろうか、などぼんやりと思った。
「・・・このくらいでいいか。」
 穴だらけになり、もはや元の寸法もよく分からなくなった軍服を雑に丸めて立ち上がったとき。
「京一郎。」
 鈴の鳴るような若い女の声がした。
 呼ばれたのが私ではないことは、すぐに分かった。
 彼女は伊織に駆け寄り、その袖を引く。
「厭よ、行かないで。」
 浴衣から伸びる細いうなじは鳥肌立ち、よく見ると突っ掛けも片足のみ。彼女が気配を察して何か羽織ることすらせずに飛び出してきたことは明白だった。
「君が長年世話してくれたことには、感謝している。」
 何の説明もせず、伊織はただ優しく言った。娘は激しく首を振る。
「そんなの要らない。行かないっていうなら、私のこと嫌っても憎んでもいいわ。だからお願い、置いてかないで。」
 伊織に縋り付く彼女は、恋をする女の顔をしていた。思えば郷里に残してきた私の妹も、あの女人ほどの年頃になるはずで、全く異なる顔立ちながら、幼い日の櫻子の面影を彼女に重ね、私は胸が重く苦しくなるような気がした。
 また一方で、それほどまで己を慕う異性との付き合いがありながら、誰と知れない想いびとを一途に追った伊織のひたむきさに心打たれ、しかし彼女にいつか押し切られていたかも知れないと考えると、冷や汗の滲むような心持ちがする。
「君とは一緒になれない。」
「どうして・・・!」
「言っていたはずだ、私には想いびとがいると。」
「その人のところに行くって言うの?」
「そうだ。」
 にべなくあしらわれ、漁師の娘は唇を噛んだ。
「頼まれていた仕事は、うちの卓袱台の上にある。後で確認して欲しい。では、達者でな。」
 伊織は彼女の手に触れることすらなく、つと離れた。
「・・・いい、んですか。」
 はらはらしながら見守っていた私は、つい訊いてしまう。伊織越しにそっと見遣ると、彼女はこちらを睨みつけているように見えた。
「良いも悪いも、ほかにどのような応対の仕方がある。」
 この女泣かせの男は、全く悪びれる様子もなく、まるで私の質問の意図が知れぬとばかり、優雅に首を傾げた。
「さぁ、行こう。」
 私を促した伊織の背へ、押し殺した声が追い縋った。
「通報してやる・・・!」
 伊織は振り向かない。私も歩を緩めはしない。
「あんたがお尋ね者だって、知ってるんだから。京一郎を誑かして連れてったって、言ってやるわ!」
 ”あんた”というのは私のことなのだろう。可憐な声は、呪いの言葉を叫べば叫ぶほど、悲愴さを増す。
 そう言えば、海に落ちてから復調するまでの間、たまに面倒を見てくれたことへの礼を言わなかった。だがもう時機を逸した。一刻も早くこの場を去らねばならない。
――そして、伊織が娘の言葉に応えることはなかった。

 半刻ほど歩いた先には波荒い岩場があり、伊織はそこに先ほど焦がした軍服を投げ落とした。
「これで、千家京一郎は惨死したとして決着が着くだろう。」
「あの娘がなんて言うか分かりませんよ。」
「ふむ。確かに根回しが済むまでは、軍部の連中に見つかると厄介ではあるな。」
 顎に手をやって、伊織は私をしろしろと見た。
「お前、その髪はなにかこだわりがあるのか。」
「・・・いえ、世界中に旭日旗を立てるまでは切るまいと漠然と思っていただけで、もはや勝てない今は、特に・・・。」
「そうか。では切るぞ。時勢柄長髪は目立つからな。」
「え?」
 言うが早いか、伊織は私の髪を掴んで持ち上げると、小刀でばさりと切り落としてしまった。
「ちょっと、いきなりしますか、普通!」
「だが、要らぬのだろう?」
 そして手早く髪を布に包む。
「貴方ね、もう少しなんというか、・・・心の準備とか、あるでしょう?」
「つべこべ言っている場合か。我々は追われる立場なのだぞ。」
「それは、分かってますけど・・・」
 我々は、という言葉に、また私たちは二人きりで逃げるのだな、などと感慨を覚えていると、ぼうっとするな、と手を引かれた。

 ときに路地裏を、ときに川縁を、伊織は躊躇いなく進む。彼が己の足でこれほど歩き回るなど、かつての彼を知る者は思いもしないだろう。まるで帝都中の地理を知り尽くしているかのようだ。
「何処へ行くんですか?」
 私の問いに、伊織は黙って微笑んだ。

 途中、現在の各省の人事状況や、主だった政治家の立ち位置、彼の知己の現在の地位や立場などを幾つか訊かれた。私は知る限りのことを伝えたが、十分ではないように思われた。しかし彼はこれまで新聞などを通じて知った情勢と私の情報、それからどうやら翻訳の下請けを通じてちらほらと聞こえていた軍関係者や外交官、政治家の名を元に、頼るべき人間を導き出したようだった。

 彼に手を引かれ辿り着いたのは、とある郊外の邸だった。
 田園の広がる中に佇む、控えめながらしっかりとした造りの日本家屋。
 戸を叩き、出てきた女中と伊織は一言二言言葉を交わす。一度奥へ引っ込んだ女中はすぐに戻ってくると、私たちを応接間へ通し、色の良い茶を出した。
 私たちの格好は、ひいき目に言ってもこんな立派な家に出入りできるものではない。なにせ私も伊織も、あの小屋にあった伊織の手持ちの普段着を着ているのだ。人を見た目で判断することを良しとはしたくないが、実際身だしなみというものは必要だ。正直、場にそぐわなくて恥ずかしい。
 しかし、かつて身に着けるものはどれも選んで上質だったはずの伊織はどこ吹く風と言った体で、まったく気にする様子がない。
 なにやら居たたまれなくて、私は小声で尋ねた。
「ここはいったいどちらのお邸なんです?」
「教えてやってもいいが、まぁ、見ていろ。」
 表札にあった姓には見覚えがなく、私には想像もつかない。
「そんなこと言って、お知り合いの家なんでしょう?どういう意図でここを訪ねたのか知りませんが、私だって失礼のないようにしなければ。ちゃんと教えてください。」
 ねえってば、と袖を引くと、伊織は私をじっと見つめた。
「京一郎。」
「・・・何です。」
「お前はかつて、国のために命を擲つことも厭わぬと、そう言ったな。」
 唐突な質問。この期に及んでまた私を試すのか、この人は。
「・・・言いましたよ。そのつもりでこれまでも生きてきました。貴方の分まで。」
 しかしそれがなんだ。いくらそう言ったところで、もはやそれを悪と断じた私への裁きが覆ることもなかろう。
 それに、もうこの国は勝てない。私たちの為そうとした護国は果たせない。旭日旗で世界を埋め尽くすどころか、これからの報復に耐えうる力もない。
 国が私たちを必要としないのなら、そう天が定めるのなら、自決するもよしと思った。伊織と共にならば、地獄へ行くことも厭わない。
 だが、逃げるなら逃げるで、ひとまずもっと遠くへ行けばよいものを。なぜこんなところで足のつきそうな相手を訪ねるのか。
 不満な気持ちが顔に現れたのだろうか。
 伊織は私の頬に触れた。
 こんなところで、と思った。
 しかし甘い声は私をいざなうのだ。
 また。
「そうか。ならば、これからもそうするがいい。私とともに、魁の刃となって。」
「・・・・・・伊織?」
 続けようとした質問は、襖の開く音に遮られる。
 現れたこの邸の主は、一瞬幽霊を見たような顔をして、それから小さく肩を震わせた。
「生きていて・・・・・・、くれたのか・・・・・・。」

* * * * *

 袷の着物をすべて仕舞った頃、『千家京一郎死す』との報を新聞の端の小さな記事に見つけた私は、胸の中に冷たい風の吹くような心持がいたしました。
 国の方針が今まで取ってきた策を撤回するのは止むを得ないとしても、それまでの功績をすべて悪事とし、問答無用に切り捨てるとは、あまりに情けのない仕打ちです。
 私の最後の主人が紙面に勇名を馳せなくなってから、戦況は悪化の一途をたどるばかり。これではいつ外国に攻め落とされ、恐ろしい侵略が始まるのかと、国中が不安に包まれています。
 今際の際に、京一郎様はいったい何を思われたのでしょう。
 こんなことを考えるのはいささかそぐわないのかもしれませんが、どうか私の二人の主人の魂が安らかにあってほしいと、こんな風に老いぼれてもまだ日々を暮らしている私は願ってやみません。

 白粉花の香りがむっと薫る初夏の夜、私は玄関に人の気配を感じて、そっと起き出しました。泥棒かな、とも思いましたが、どうやら忍び込む算段をしているわけではなさそうです。ともあれ、取られて困るものを持っているわけでもなく、もう恐ろしいことや悲しいことは十分味わったつもりの私は、相手を驚かさないように極力落ち着いた風に聞こえるよう声を出しました。
「こんな時分に、何か御用ですかな。」
 玄関に立っていたのは、二人の男でした。
「おや。気づかれてしまったな。」
「ふふ。そりゃあ、長年家を守っていたんですから、少しの異常も見逃すことはないのでしょう。」
 ひとりは夜目にも美しい髪を肩口で揃えた長身、もうひとりは丸刈りではないものの短く髪を揃えすらりとした体躯で、ただどちらも左の袖から手先が見えないのでした。年の頃は、少なく見積もっても三十路は超えていましょう。二人のやり取りを聞きますに、どうやら私を知っているようです。
「さて、どこかでお会いしましたかな。お二人とも。」
 促すと、目くばせしあった二人は、くすくす笑いながら言ったのです。
「食事は要らん、寝る。」
「茶だけでいい、茶請けは要らん。」
 懐かしい声でした。
 それだけで、彼らが何者であるか、私にはすぐにわかりました。
「あぁ・・・ご無事だったとは・・・。」
 嬉しさのあまり、私は力が抜けて、へなへなと座り込みそうになりました。それを、京一郎様が支えてくださいます。あの頃、瑞々しかった肌は、苦労なさったのでしょう、少しだけ骨ばっているようです。
「貴方も、お元気そうで何よりです。」
「私がいない間、京一郎の世話をしてくれたそうだな。遅くなったが礼を言う。」
 心なしか昔に比べて優しいお顔立ちになった伊織様は、私の記憶よりも健やかそうです。
 私はこのお二人をまた目にすることができたことに胸がいっぱいで、はい、としか口にできませんでした。
 京一郎様がお亡くなりになったという報道の裏で、お二人は、どうやら隠密に国内外を飛び回っていらっしゃるようでした。
 どのようにして再会なさったのか、もう追われることがないのか、お二人ともなぜ左の腕を失くしてしまったのか、そのあたりは私も存じ上げません。また、どの機関に所属しているのか、あるいは個人に雇われているのか、お聞きできませんでしたが、どちらも博学多才、奮励努力の人です。伊織様の達者な弁舌と豊富な言語知識、京一郎様の柔和な雰囲気をうまく活用して、一心同体となり活躍なさっていることは、少しの立ち話から察されました。
 私の家に立ち寄られたのは、折に触れて私の出した葉書を京一郎様が気にしてくださっていて、近くへいらした際にそういえば、と思い出してくださったとのことでした。
「執事冥利に尽きます。」
 私が言うと、お二人は微笑み、達者で、と言って出立なさいました。
「行っていらっしゃいませ。伊織様、京一郎様。」
 そう言って顔を上げたときには、もうお二人のお姿は私の見えるところにはありませんでした。まるで忍びの者のように、風のように消えてしまったので、いまのひとときは夢だったのかしら、とも思われました。
 しかし、最後にお二人へのお見送りの挨拶を口にしてから、肩に乗っていた重く悲しいものがすっと消えたような気がして、私の胸の中はじんわりと温かくなったのでした。

* * * * *

 私たちの訪ねた相手は元大物外交官で、その息子も政治に携わっており、現在も政界に影響のあるいわゆる要人だった。この密会により、あれよあれよという間に、私たちの立場は固まった。
 必要な物資が与えられ、私たちのことは暗号名で呼ばれることになった。

「貴方は術式作戦しか眼中にないのだと思っていました。」
「見くびられては困る。国を護るための手段を選ぶ余裕などないのだ。最も効果の見込める手段が術式だった、それだけだ。」
「それで今度は、密偵ですか。貴方がそういうことをするとはね。」

 伊織はその頭文字から「藍」、私は同じく「桂」。

「たとえこの戦争に負けるにしても、交渉の持って行き方次第で被害を縮小させることができる。そのためには情報収集が必要だが、人材が足りていない。これまでお前がうまくやってきたおかげで、五行莫无を計画した一部の連中以外は、予想通り腐抜けていたからな。」
「私と手に手を取り合って、どこぞの田舎にでも逃げてくれるのかと思ったのに。」
「ふん。そうして欲しかったのか。」
「いいえ。貴方のそのどこまでも国を思う考え方、嫌いじゃないですよ。」
「素直に好いていますとでも言えば、可愛げもあるというのに。」

 急いで決めたから、漢字に深い意味はない。けれど、どちらも「い」の発音で終わっていて、どちらも植物から取った字であるところが、実は気に入っている。

「言ってほしいんですか。甘えたなんですね、伊織。」
「・・・・・・・・・・。」
「ほら、そんな顔しないで、私の想いびと。」
「・・・馬鹿。」
「ふふふ。」

 伊織はもう、私を試しているわけではない。だって私たちの見る先は同じものだから。同じように欠けているけれど、互いに補い合って全うするよう、天から命を与えられているから。

「さぁ、京一郎。行こうか。」
「はい、伊織。」

 そして貴方は、また、私を連れてゆく。
 この国を護るため。
 私たちの、天命のため。

〈了〉
  ご読了お疲れさまでした。更新がたくさん遅れたにもかかわらず、最後まで読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございました!!!

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