そして貴方は、また。 3


 十年以上経った。もう少しで一回り。彼も壮年と言って差し支えない年頃のはず。
 なのに伊織は。
 あの頃の美しさをそのままに、しかし歳不相応の重荷を二重にも三重にも背負っていたあの頃の威厳を失って、だからいまの私――しばしば実年齢より上に見られる私よりも少しだけ、幼く見えた・・・。

 彼の話を信用すると、こういうことになる。
 あのとき、(自ら腕を斬り)海へ落ちた伊織は、奇跡的に漁師の小舟に救助され、一命をとりとめた。
 しかし酷い失血により長いこと生死の合間を彷徨い、そして意識を取り戻したときには記憶を失っていた。
 そして先日。
 何者かによって同じように崖から転落した私は、またしても奇跡的に、その夜気まぐれで海に出ていた伊織に発見され、救助された。
 そして今に至る。

「伊織さま。ご気分は如何ですか。」
 伊織が夕食を持って現れた。
 彼は日中、近所の漁師の仕事を手伝い、日が暮れると居宅へ戻ってくる。腕が片方無いから主に女たちの手伝いをしているようだ。それにしたって肉体労働など、かの千家伊織が引き受けるはずがないのだが、いま一次産業の一端を担っているのが彼だと思うと、不思議なおかしみが湧いてくる。外に出ることが多いようなのに昔と変わらず白い膚は、少しだけ乾燥して、厚くなっているようだった。
 私の意識が戻ったとき枕元に居た漁師の娘は、日中伊織が戻れないときにやってきて、最低限世話を焼いてくれる。
 伊織と親しいようで、どうやら十年前、彼女が彼を助け、これまで援助してきたようだった。伊織に想いを寄せていることは明白だったが、当の本人はそれに気づいている様子を見せず、ただひたすら感謝と尊敬の念を彼女に注いでいるようだった。
 私はそれを、複雑な思いで見つめた。
 誰も、責められまい。
 しかし、記憶を失くしているとはいえ、私は伊織を見つけてしまったのだ。
 女だろうが男だろうが、渡すわけにはゆかない。
 私は彼と、彼は私と、生死をかけて契っているのだから。

 私のいる場所は小さな小屋で、つまりはそこに匿われている。ここは伊織の居宅でもあった。がらんとしていて、ほとんど物がない。文机代わりの木箱と、小さなちゃぶ台、それから布団が一組――これは今私が使用しているため、伊織は床に丹前を引いて休む。彼の家に、かつて彼が身に着けていたはずのものは見当たらなかった。
 伊織が私にあれこれ構うことを、漁師の女性は面白くなく思っているようで、彼女が私を見る目は冷ややかだ。しかし、伊織は己と同様にして命を拾った私に強く執着しているらしく、ゆえに彼女もまた、不服そうではあるが余計な詮索をせず、あからさまに訳ありな私を隠した。

「悪くない。京一郎。」
「はい。」
「こちらへ。得意の、異国の詩を聴かせてくれ。」
 記憶は失くしても、それまでに学んだ事柄は消えていないようで、彼は語学に堪能であるため、外国の書物などを翻訳して生計を立てているらしい。昼は肉体労働をして食事を分けてもらい、夜は頭脳労働により金銭を得て、左腕の治療にかかる借金を返しているそうだ。
 彼の仕事は直接誰かから依頼が来るわけではなく、一旦どこかの学校教師が引き受けたものを、さらに何人かの手を経て下請けしているようだ。翻訳が必要になるのは、時世柄、教育面より軍事面の方がはるかに多い。大部分が元をたどると軍部からの依頼であるようだ。気密性の高い文書は回ってきていないようだが、こんなところまで軍関係の書類が落ちていたと知って私は愕然とした。
 どういうわけで彼の特技が判明したのか、またどういう伝手で下請けの口を見つけたのかは不明だが、彼が軍人であることを見抜いた彼女が、軍からの依頼が多いこの仕事に他人を多く挟めることで、伊織の存在を隠していたのだと私は見ている。恐らくは、彼が記憶を取り戻してここを去って行くのを阻止するために。
 お陰で、今のいままで私は伊織の存在を感知することが出来なかったというわけだ。今でこそ親密な付き合いをしているようだが、彼女らが伊織の身柄を軍部に引き渡さなかったのは、十中八九、身に着けていたものを売り払ったからだろう。

 伊織は少しだけ、しかし手を伸ばせば容易に触れられるほどの距離を置いて私の横に腰掛け、あの甘い声で異国の詩をうたう。
 彼の全てを受け継いで、私はあの膨大な蔵書も手に入れた。職務に追われて目を通す余裕などほとんど無い毎日ではあったが、特に彼の好んだ異国の言葉には興味を惹かれ、大学へ行くことができなくなった代わりとして、また実益も兼ねて独りで学んだから、多少は読み書きできる。しかし実際の発音を聴く機会には恵まれなかったため、彼の唇の紡ぎ出す音が何をうたっているのか、残念ながら私にはほとんど理解できなかった。
「いまの詩の意味は。」
「初夏の夕暮れ、花咲く平原にて、ほの香る空気に微睡む。星澄み輝き、薄闇ようよう遥けき空より降る――」

 私はそよ風のように囁く伊織の声を聴きながら、不思議な気持ちになる。
 彼は私を伊織さまと呼び、私は彼を京一郎と呼ぶ。
 互いに不必要に踏み込まず、それでいて不思議と近くにいることを厭わない。
 そして私は本来より少し低い声で高飛車に彼に言いつけ、本来威丈高だったはずの彼は記憶の中の彼より少しだけ高い声で、私の命に従う。
 ちぐはぐで、あべこべだ。
 望んでいたわけではないが、かつては全く逆だった。

 私は、あんなに、あんなに、あんなに、求めていた半身を見つけたというのに、喜びに素直に胸を高まらせることができず、また容易く手に入れられそうだというのに、彼を抱き寄せることができない。
「伊織さま?どうかしましたか。」
 伊織が私の顔を覗き込む。
「・・・なんだ。」
「なんだ、って・・・。お辛そうだから。・・・泣きそうな顔をしているようですよ。」
 ああ。
 朧げにも分かってしまうのだ。
 私がいま、どんな気持ちに苛まれているかを。
 だが彼は知らないのだ。
 その気持ちの所以を。
 ああ。
 こんなことなら。
 悲しいのか嬉しいのか、もうよくわからないこの感情ごと、どこかにやって欲しい。
 彼に巻き込まれ飲み込まれていったあの日々のように、激情の渦の中で、その名だけを呼んで。

「伊織さま。」
 伊織は、慰めるように私の頬に触れた。
 この手を、この感触を、私は何度、夢に見ただろう。
 彼の左手で我が身に触れ、いったい何度、偽りの触れ合いを求めただろう。
 それがいま、ここにあることが、信じられない。私はやはり、今際のきわで気が触れて、誰とも知れぬ男を伊織だと思い込んでいるだけなのではなかろうか。
 私は冷いやりとした伊織の手を取って、挑戦的な視線を向ける。
「そんなに、私のことが気になるか、京一郎。」
 かつて彼にそう言われた時、憎むべき人間を己が慮る筈がないという反発と、見透かされた居たたまれなさで、私は否定した。
 だが伊織は、少し考えるような仕草をすると、邪気のない声で言った。
「まだお身体が復調されていない方を慮るのは、臣民として当然のことです。」
 私は少しだけ、拍子抜けした。
 あぁ、でも。如何にもあの頃の若い私が言いそうな言葉だ。
「それに・・・、」
 少し顔を隠すように俯いて、伊織は続ける。
「なんだか貴方とは、初めて会ったような気がしない。」
 はっとした。
 私は気持ちの高まりを抑え、極力穏やかに尋ねる。
「・・・ほう。何故、そう思う。」
「わかりません。」
 彼は首を傾げて微笑んだ。
「根拠も無くそのようなことを言うなど、まるで口説き文句だな。」
 からかうような台詞。伊織が言いそうだから、言ってみる。
 もちろん実際私の心中は、そんな軽やかな状態ではない。
・・・のだが。
「・・・私には、想いびとが居るんです。」
 突然、かの口から飛び出したそれは、癒える予感に膨らみつつあった私の胸を、太い銛で抉るようだった。

  詩は、ユーゴーの『6月の夜』より。逐語訳ではないので悪しからずでござる。

NEXT NOVEL PREVIOUS