そして貴方は、また。 4


 どういう意味だ。
 私の心中はことさら乱れ、発すべき言葉も浮かばない
「・・・・・・。」
「申し訳ありません、こんなことお話ししても仕方ないですね。何故だろう、ふと、貴方には伝えなくてはと思ってしまった。」
「・・・許さない」
 己の口から出た思わぬ音に、私は動揺した。
「・・・え?」
 いや。
 そんなことは許さない。・・・許さないのは当然なのだが。
 そうではなく、本当に伊織が記憶を失っているのなら、今度は私が伊織を取り戻さなければならない。千家伊織が柊京一郎をそうやって得たように、策を弄し慎重に確実に。仮に彼が誰かを想っているのだとすれば尚更、私の方へ絡め取らなければ。
 そのため、いまのは全くもって失言だった。
「・・・いや、何でもない。忘れろ。」
 伊織は不思議そうに私を見つめ、そして躊躇いがちに言った。
「・・・そうですね。もう、忘れた方がいいのかもしれない。」
 私は、己の眉間にこれまでにないほど深く皺が刻まれるのを感じた。
「何を言っている。」
「・・・私は、誰を想っていたのかわからない、・・・思い出せないんです。」
「・・・・・・。」
 またしても私は言葉を失う。
 そして同時に、そんな己に対して呆れる。
 鬼神とも呼ばれた知将・千家京一郎ともあろうものが、何を早っている。策を弄するにしても、こんなに彼の一挙一動に振り回されては、為す前に失敗に終わるだろう。

 引き戸の片側を開け放った小屋の外に見える、水平線。月の光を跳ね返してきらきらと輝く。
 それを見るとも無しに眺める伊織の横顔を、私は複雑に胸を締め付けられるような思いで眺める。
「何処にいるのか、どのような関係だったのか。想いは通じていたのか、片想いだったのか・・・。」
 その想いびととやらは、私のことなのだろうか。
 京一郎と自ら名乗るくらいなのだ、可能性が欠片もないということはなかろう。
 しかし、あれから十年も経つ。私はひたすら伊織の護国への想いだけを友に生きてきた。
 だが、彼はそうではなかったらしい。
 例えば、あの日一度記憶を失った伊織が京一郎と名乗り始めて、その後さらに記憶を失ったのだとしたら。彼が思い出せずにいるのは、伊織のではなく、"その前の""京一郎"だったときの想いびとかもしれない。
 それは私に対する背信と言えるだろうか。
 万一、この彼の想いびととやらが本当に他の誰かだったら。
・・・・・・恐らく、私は狂うのだろう。

 あぁ。
 死んだと思った命を拾い、もう逢うこと叶わぬと思っていた半身を見つけたというのに。
 何故こうも、心乱れなければならないのか。

 しかし一方で、思う。
 あの頃。伊織の微笑みに翻弄され、いつも彼の言葉の尾に耳をそばだて、彼の瞳の奥を見つめていたあの頃。私の想いびとが誰かと聞かれて、私は迷いなくその名を言えただろうか。
 身体が先に、そして追うように心が近づいていってはいたものの、はっきりと、想いが通じ合っていたかと聞かれたら、あの時点では確たる答えを出せたか自信がない。
 それに、私のこの身を焦がすような想いは、伊織を失ってから時を追うにつれ募っていったものだったから。
「・・・なんで、そんな顔するんです?」
 伊織は笑って私の眉を撫でた。
 その仕草は、私のものではない。伊織の、だ。
 しかし彼は、彼の甘い仮面にかつての私の笑顔を貼り付けている。無邪気そうな、いい子そうな。
・・・そう。伊織はよく、私が彼の気に入る行動を取った時、いい子だ、と言った。私はそれが、私の本意ではないことを揶揄されているように思い、また子ども扱いされているようでもあり、気に入らなかった。

 あぁ。
 やはり千家伊織は生きていた。
 やっと、逢えた。
 なのに。
 まるで柊京一郎のように振る舞う彼の姿を見るのは、辛い。
 なぜならば、私は後悔しているからだ。
 彼をあのような形で失うくらいだったら、もっと微笑みかければよかった。彼の言葉をいちいち捻くれて捉えずに、もっと素直に受け止めることだってできたはず。もっと自然に寄り添うこともできたに違いない。
 そうしていたら、私が傍に居たときには彼が決して見せようとしなかった、彼の悲しみや苦しみの数々を、少しでも癒せたかもしれなかったのに。彼の微笑みを、冷笑でも嘲笑でもない自然な笑顔を、見ることだってできたかもしれなかったのに。
 京一郎と名乗る伊織は、私が彼にしたかったように、慈愛をもって私に接してくる。
 それが優しく、私の心をしくしくと刺す。
「・・・止めないか。」
 掠れた声が出た。
 彼は私をじっと見つめ、そして私の顔にかかる前髪を除けながら、またそっと頬を撫でた。
「・・・そう、貴方が私の想いびとだったら良かったのに」
――そう、お前でもいいかもしれんな。
 かつて、死霊を扱うべく呪われた血など絶やしても構わないと言った伊織は、跡目の男子なら、と戯れ言めかして私を指した。そして結果的にその言葉どおり、私は彼の養子となった。
 いまの彼の言葉は、彼の行動は、いま記憶を失っている彼自身のものなのか、千家伊織の記憶の中の柊京一郎を模倣しているものなのか、それともかつて千家伊織自身が柊京一郎にそう望んでいたものなのか――・・・。
 知りようがない。
 無邪気なひと言が、その都度私を激しく揺さぶる。
 私は訝しげな顔をしていたのだろうか。それとも、絶望的な顔をしていたのだろうか。
 伊織は慎ましやかに瞳を伏せた。
「おかしなことを申しました。」
 あぁ。そうやってまた。
「ふん・・・お前は長いこと、誰とも知れぬ人間を想い続けてきたのだろう。それは、出会って間もない私のひと言で撤回する程度のものだったのか。」
 意地の悪い言葉が口を突いて出る。
「それで軽々しく想いびとが居ると口にするなど、片腹痛い。」
 伊織が言いそうな言葉を、私の口は紡ぐ。
・・・・・・しかし、本当に・・・?

 彼は何か言いたげに私を見たが、結局口を開くことなく、少しの沈黙の後、私の前を辞した。
  なんとか春になる前に終わらしたい。

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