そして貴方は、また。 5


 冷たくもなく暖かいというほどでもない。薄らと甘い香りの混ざる風を吸い込んで、私はあの夜を思い出す。

 心地よい風。春の訪れへの憧れを本能的に掻き立てる、喜びの風。
 郷里より一足早く春の兆し漂う帝都を訪れた、まだ学生だった私は、氷のように美しい軍人と、血を分け生涯を誓った。そして私のものであるはずの彼は、私にその左腕だけを残して、死んだ。
 新しい生活に心を躍らせたのも、彼に全てを奪われ絶望したのも、彼と共にあると決めたのも、そして彼を失ったのも、この甘い風の中だった。

 伊織を失ってから私は、春が来るとできるだけ外出を控え、邸に篭った。換気のためでも私の部屋の窓を開けることを禁じ、私の部屋に近い廊下の窓も、閉め切らせた――これは家頼の頭を毎度悩ませていたようだが――。どうしても外に出なければならぬ用のあるときは、顔を隠すくらい厚く襟巻きを巻いて、襟の高い外套を纏った。
 記憶と嗅覚に深い結びつきがあるとは、誰から聞いたのだったか。無意識に始まった習慣だったが、だとすれば私のこの悪癖にもやはり一理あったわけだ。
 とにかく私はこの、意に反して心を浮き立たせ、それでいて切なく胸を締め付ける香りに向かい合う勇気がなく、この十年余は春の訪れと無縁に過ごしてきた。幸い、引き継いだ伊織の地位は常に職務のことで私の頭を埋め尽くしてくれたから、あまり季節の移ろいなど気にする余裕もなかったけれど、やはりふとした瞬間に溢れ出る想いは私の感情処理能を容易く凌駕してしまうものだから、邸の使用人が変わるたび、春の扱いだけは遺漏無きよう自ら言い付けた。

 それほど避けて来た春の息吹を、私は久しぶりに感じている。この隙間だらけの小屋にいては、もはやどう足掻いても逃れようがなかったのだ。
 あれほど恐れていた感情の暴走については、少なくとも今は心配せずともいいらしい。再び死に損なった末めぐり逢った伊織の存在ゆえか。

「気持ち良いですね。」
 中食を持って現れた伊織は、私の隣に腰を下ろす。昼の仕事がひと段落したらしい。朝は私が寝ている間に出てしまっていたから、今日顔を合わすのは初めてだ。
 昨日、意地の悪いことを言った。
 だから、私は少し居心地が悪い。
「この香りは、好かん。」
「どうしてです?」
「・・・思い出したくないことを、思い出すから。」
 本当に?
・・・・・・否。
 想い出の世界だけに生きることができたのなら、その方が良かった。
 思い出したくないわけではない。あの日の少し前、ほんの僅かではあったが、私たちは確かに、穏やかで安らかな時間を共有していた。
 春の香りは、伊織を失った哀しみだけでなく、伊織と過ごした須臾の安息も記憶している。
 けれど、優しい記憶は、否が応でも彼の居ない現実を知らしめる。だから私は思い出さないようにしていた。
「・・・かつて春に、なにか辛いことが?」
「そう・・・だな。」
 曖昧に応える。伊織との記憶は、辛いだけなのではない。そう、言うべきだろうかと、私はうっそり考える。
 伊織は私を優しく見つめて、そっと呟いた。
「そうですか。」
 紛れ込む風に、花の香りと潮の香りが混ざり合う。
 ここは、しかし彼との記憶の中でもより辛い方を思い出させる。彼の腕の中で目覚めた朝や、彼の長い睫毛を膝の上からこっそり眺めた居間でのひとときではなく、あの壮絶な夜を。
 思わず零れた溜め息。
 伊織は横に居る。けれど、記憶がない。私を、あの日々を、覚えてはいない。
 貴方にまた出会えたのに、私の心は、癒されない・・・・・・。
 それ以上溜息を漏らさせまいとするかのように私の唇に触れた伊織は、幸せが逃げるらしいから、と言った。
「それでも、どんなに辛い記憶でも・・・、私は失った時間を取り戻したいと思いますけれど、ね。」
 私は、彼を見つめ返す。
 その腕に抱かれたら、私を思い出すのだろうか。その唇に重ねたら、私に気づくのだろうか。
・・・伊織は、私を思い出したいと、思っているのだろうか。
 ふわりと、布の感触が顔を包んだ。
 伊織が、私の頭を抱いたのだ。
 かつて、私が初めて彼に自ら寄り添ったときのように。
 伊織の身体を覆う布はかつて彼のよく着ていたサアジと異なり着古され草臥れて、しかしそれゆえ、柔らかく私の膚を撫ぜた。
「私は思い出したい。貴方は忘れたい。・・・うまく行かないものですね、この世は。」
 かつて彼を包んでいた布は張りがあって冷たかったけれど、いまの伊織の着物は薄くて、彼の身体と私の身体の間をふわりと埋める。体温が優しく伝わる腕に抱かれていると、まるで兎や猫の腹に顔を預けているようにほっとして胸が温かくなるような気がして、私は声が震えるのを必死で抑えた。
「・・・忘れたいわけでは、ない。」
「・・・そう、ですか。」
 伊織の手は優しく、私の髪を梳いた。いくら長く伸びていようと、この触れ方は明らかに、柊京一郎のではなく、千家伊織の所作。
 やはり、私の目の前にいるのは、私の伊織なのだ。
 私は再会してから初めての感慨に浸りながら、伊織の触れるままにしていた。

「私の話を、聴きたいか。」
 伊織に問うた。聴かせることで、記憶を刺激することができるかもしれない。幸い、彼はいま私に興味を抱いている。この機を逃すわけにはゆかない。
「ええ。・・・差し支えなければ。」
 私は語った。
 伊織が私にした様々の酷い仕打ちは、もしかしたら後悔しているのかもしれないから極力伏せて、印象的な、情感に訴えそうな出来事を特に取り上げてきかせた。
 十年余り前、帝都へ出て来たばかりの頃に出会った人物に見初められ、その人の勤めに関わるようになったこと。その人の不思議な魅力に惹かれ、共に暮らすようになったこと。その人と、生死を共にすると誓ったこと。その人は、私を道連れにせず、生死不明となったこと・・・。

 伊織は、私の話を終始静かに聞いていた。
「あの人との思い出は、私がひとりになってからの時間と比べればほんの一瞬で、しかも楽しくないものの方が多い。」
 私の言葉に、彼の表情は波立たない。
「それでも、あの人と居た時を思うと、私の心は多少潤い、そしてまた、もうあの人が居ないことを改めて知らしめる。・・・だから私は、記憶を喚起するこの春が、苦手なのだ。」
「伊織さまは、その方のことを、・・・」
 言いさして、伊織は口を噤んだ。
「なんだ。」
「・・・いえ。」
 なにか、変化があっただろうか。
 私は伊織がまた言葉を継ぐだろうかと待った。
 しかし。
「京一郎、休憩はそろそろ。」
 外から聞こえる声に、伊織は立ち上がる。
 見上げる私に顔を向けず、彼は小さく言った。
「行ってきます」

  ・・・じれったいですけど、ちゃんと終わりますんで、できたらあと3回更新以内に終わらせたいので。どうかお付き合いくださいませ(>_<;)

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