そして貴方は、また。 6


 その日、伊織の勧めで私は小屋の外に出てみた。

 救助時、伊織が心臓を押したことにより、私の肋は少し傷んだらしく、初めは飲み込むのも一苦労だった。意識が戻ってから数日の間は、医者の絶対安静という言葉に従って、食事を摂るときも基本は床の中に居た。多少痛みに慣れ、もう大丈夫だからと言っても、伊織が出ることを許さなかった。
 私の知る伊織は、あの不思議な魅力を持つ瞳で幻惑させて言うことを聞かせたものだったが、目の前の京一郎と名乗る伊織は、心配そうな瞳で覗き込んで 私の心を従わせたのだ。
・・・それも、京一郎の真似ですか。
――違う、・・・きっと。
 あの頃の私を思い出すのは難しいが、気の強いところや押しの強いところは母親似と言われていたから、母の面差しを引き合いに出すと、そう思い至る。彼女に似た私なら、強い目で見つめて相手をたじろがせたはずだ。貴方は怪我人なんです、無茶は許しません、と。
 だから。
 きっと、この相手を思い遣る顔は、言うことを聞かねば悲しませてしまうかと、逆にこちらの気が萎えてしまうような瞳は、本来の伊織のものなのだろう。そんな顔、見たこともなかったけれど。
 でも、あのとき。崖に吊られた状態で私に向けた彼の微笑みは、たまに彼の部屋で見かけた家族の思念に向けたものよりも、ずっと情に溢れ、ずっと、優しかった。
 あれが、私に見せた貴方の本当の顔だったの、伊織・・・?

 伊織の、先の無い腕に捕まって、私はゆっくりと歩く。
 彼は右腕に捕まらせようとしたが、私は伊織の左腕に触れたかった。
 私を置いていった、私に置いていった、だから失くした、彼の無い左手。
 そう言えば、ミサキの力で私の左腕に継がれたこの左手は、なぜ消えないのだろう。神秘の術の力は無くなったのだから、これも消えて無くなるものだと思っていたのだが。
「・・・貴方はなぜ、身投げなんてしたんです?」
 伊織の声に、ぼんやりした思考から引き戻された。いま何と言った?
「・・・身投げ?」
「違うんですか?あんなところから落ちるなんて、よほどの不注意か身投げかのどちらかしか考えられない。」
 確かに、あんな切り立った崖の縁を、闇の中走る人間などまずいない。
 つまり、私の目の前で深刻な表情をして疑問を投げかける当の本人は、よほど不注意な人間だということだ。
 笑えない話だが、しかし現実、伊織は生きている。その余裕が、私の頬を少しだけ緩ませた。
「なぜ、笑うんです。」
 困惑したように言う彼は、やはりあの日のことを欠片も憶えてはいないようだ。
「・・・・・・薄情者」
 聞こえないように呟いたつもりだったのに、耳聡く捉えた伊織は首を傾げた。
「え?」
 私は伊織を見つめて薄く笑う。
「・・・私に、言ったんですか?」
 さて、と片眉を上げてみせると、伊織は眉を顰めた。
「どういう意味です。」
 少し、頬が膨れる。もう四十路にもなろうという貴方が。
 そんな顔、できたんですね。
 突然、無性に愛おしくなって私は、伊織の頬に触れた。
 あぁ。
 無垢だ。
 まるで伊織は出会った時の私で居続けるために成長することすら――それは穢れとも思えた――止めてしまったようだ。
 彼が初めて私を犯したとき。彼は私の膚が誰にも触れられたことがないのを知って、それはいい、と言った。
 あのときは、なんて悪趣味な、と思ったものだが。
 私が今度は、伊織の初めてを奪おう。
――誰と知れぬ誰かを長く想っているらしい彼の唇に、私は口付けた。

「・・・!」
 目を大きくして私を見る伊織。
 けれど、それだけだ。
 お伽噺のように、くちづけによって彼の記憶は戻ったりなど、しない。
「・・・ふ」
 自分からは触れてくるくせに、こちらから触れると驚くのは変わらないな。拒みはしなかったから、嫌ではなかったのかな。
 思えば私は、伊織のくちづけを受けることはあっても、私から愛情をのせてくちづけをしたことは、一度もなかった。あのときはまだ、あの冷たく優雅な微笑みに隠された情を汲み取れるほどの余裕がなかったから・・・。
「・・・なんのつもりです。」
 一呼吸遅れて京一郎風に言う、自称・京一郎。
 ならば私は、伊織にでもなったつもりなのか。
 いや、私も自称・伊織だった。そう振る舞おうとしていたわけではなかったから、今更改めて自覚する。
「ふふ。」
 もう少しこの遊びを続けていたくて、私は伊織の腰を抱いた。何年経ったところで、やはり彼の背の方が高いから、なんだか不恰好だ。それがまた可笑しくて、私はくすくす笑う。
 笑ったら、ひびの入ったらしい肋骨に響いた。
「・・・っ――」
 思わず両手でしがみつくと、伊織が心配そうに覗き込んでくる。
「戻りましょうか。」
 私は首を振った。
 馬鹿丁寧な伊織。らしくなくて笑える。
「・・・おかしな人だ。」
 伊織も呆れたように少し笑って、手先の無い腕で私を引き寄せた。
 伊織の体温。あの頃いつも側で感じていた彼の匂い。
 長い年月の隔絶は、彼の肉体の再来によって緩やかに満たされていくようだった。
 この、京一郎の振りをした伊織でもいいから、ずっと共に居られたなら、それでもいいのではないか。記憶が戻らなくともいい。こんな伊織も、伊織であることには変わらないのではないか――。
 一瞬、そう、夢想した。
 だが、やはりそれは、私の伊織に対する背信であるように思えて、私は考えを打ち消した。
 私が長い間ずっと、その血と腕と共に闘い、その魂に焦がれ続けていたのは、やはり、千家伊織なのだ。
 私が逢いたくて逢いたくて、その肉体を前にした今も狂いそうななほど求めているのは、聡明で美しく、そして酷くて情篤い、手前勝手な男なのだ。

「・・・お前は?」
「はい?」
「なぜ、海に落ちたのだ。」
 だが理由など知らないだろう、この"京一郎"は。知る筈がない。また私は意地の悪い質問をしてしまう。
「・・・身投げでは、なかったのだと思います。」
 伊織は落陽の黄色い光にきらきらと輝く波を見つめながら、言葉を選ぶように、ゆっくりと答えた。
「ではなぜ?」
「・・・私は、記憶を失う直前に、誰かと居たのです。それだけは、漠然と覚えている。そしてその時、きっと私は幸福だった。」
「幸福?」
 そんな訳がない。生きるか死ぬかの瀬戸際だった。崖から落ちずとも、死霊を引き連れた敵が背後に迫っていたし、館林隊を撃退したところで沖に停泊していた戦艦に乗れた保証はない。
 幸福など、そんなもの仮にあったとして、感じている余裕などなかった筈だ。
 私の怪訝顏に、今度は伊織がくすりと笑った。
「不思議な話だけれど、私は何も思い残すことが無かったようなのです。誰かに腕を斬られたようだから、恨みくらい持っていたっていい筈なのに。」
 だからそれは、貴方が自分でやったのだ。
 言ったところで信じないのだろうけれど。
「斬られた上に、突き落とされたのかもしれない。殺されるくらいならと、やはり身投げしたのかもしれない。けれど、私は状況に納得して、・・・満足していた、そういう気がする。」
 満足だと?
 私をひとり残して、私に重い荷物ばかり残して、自分は綺麗さっぱり忘れて。
「・・・ふぅん。ならば、お前が呟いていたという、京一郎という名。それは一体、何だったのだろうな。」
 それは私のことだ。
 貴方は私のことを忘れたくないと思った筈だ。だから、私の名だけ持って、根の路を往けずに戻った。
 思い出して、伊織。
 私はここに居るよ。
「・・・それだけが、よく分からない。私でないのなら、京一郎とは一体誰なのか。きっと私にとって掛け替えのない名であることには違いないのだけれど――」
 私のただならぬ視線に気づいて、伊織は小さく首を傾げた。
 それは、私だ、伊織。
 京一郎は、私なんだ。
 全て忘れた貴方が未だ求めているのは、私なんだ。
 私はそう、叫びだしそうになった。
 そのとき。
「京一郎。」
 呼ぶ声に、伊織はそっと私に絡めた腕を解いた。

  誰だか知らないけど、いちいちイイところで呼ばないでよねッ!

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