そして貴方は、また。 7


 伊織は私を一度小屋に連れて帰って、布団の上に座らせてから、漁師の頭の家へ向かった。
 例のあの女性の父のところだ。
 ほんの僅か、胸がチクリとした。
 まあだが、いくら彼女が伊織を想っていたところで、年増とはいえ二十を超えて少しほどの娘を、出自も知れぬ四十がらみの男にやるわけがない。だから、いまさら縁談などではないだろう。となれば、漁の話か、それとも翻訳の話か。
 部屋の隅に重ねられた書物を呑気に眺めていた私は、卓袱台の上に新聞が置かれているのに気付いた。出掛ける前にはなかったから、散歩に出ている間に誰かが置いて行ったのだろう。
 この辺りでは皆等しく財を持たないためか、不用心にも家の戸に鍵を掛けない。だから、近所の者が食事やら端切れやらのお裾分けを持って来たとき、家人が不在だと勝手に上がって勝手に置いていく。
 これも、回し読みのようなものなのかと、そう思ったのだが。
 ちらりと見て、私は腹の底から凍っていくような気がした。

『国賊・元陸軍将校、未だ逃亡中』

 大見出しでこそないものの、一面に踊る文字。すぐに、己のことだと分かった。
 どうやら私は陸軍より解任されたらしい。逃亡するつもりだったわけではないが、事実、謹慎中に行方不明になったのだから、必然の沙汰ではある。
 記事は当然、五行莫无について一言も触れず、ただひたすら、術式作戦これまさに極悪非道、奸策を用い推進せしめた国賊千家裁くべしとの主張。加えて大日本帝国の方向転換は、敵国からも評価されており、全ては於上を内閣を軍部を臣民を誑かした奸臣千家の陰謀によるものであったと。
 私が行方不明になってから、術式作戦の廃止をはじめとした諸々についてはすでに報道されていたようだ。
「・・・・・・はっ」
 つい先日まで、百戦百勝、鎧袖一触、千家あれば国の未来に憂いなしと、まるで神を崇めるがごとき諂い様だった報道が。たった数日で正反対を謳う。
 込み上げる感情に、乾いた声が漏れた。
「くっくっ・・・・・・っはっはっ」
 怒りなのか、呆れなのか、絶望なのか、もはやこれを判ずることは難しい。
 ただ明らかに、私が許容できないと思ったのは、まるで悪魔がこの世を征服しようとしたかの如くの書き様。私利私慾に目が眩み邪な呪術に溺れ、というくだり。鯉が滝を登るが如くの昇進を遂げた私のことを詰った文だが、まるで、昨今人の口に上がることもなくなった伊織のことを詰られているように思われて、怒りが込み上げる。
 伊織がどんな思いをして、この計画を立てたのか。呪詛にどれだけ苦しめられながら、この国を護るための盾を作り上げていったのか、それすら考えず。
 千家京一郎を詰るのは、裁くのは構わない。だが、千家伊織の計画を、この十年以上国を護り続けてきた策を、護られた臣民の命を、いまさら侮辱することは許さない。

 国民は、これを受け入れているのだろうか。
 少数の軍人と死霊兵だけによる伊織の作戦により、どれだけの命を失わずに済んだか。国に命を捧げた軍人が死霊としてでも甦ったことにより、心を救われたという遺族がどれだけいたか。
 それら連日の報道を見ていたはず、聞いていたはずの臣民は。

 しかし。
 このプロパガンダに、彼らが面と向かって異を唱えるかと言ったら、考えるまでもなく答は否だ。
 なぜなら、これから有無を言わさず生きた人間の出兵が始まる。これまでは事実上出撃がほとんどなかったから、徴兵はさして恐ろしいことではなかったが、今後は令状への反発が高まるだろう。反発したところで、徴兵に抵抗すれば、本人だけでなく家ごと厳しく罰されるだろう。
 術式作戦は、目の前にない魂を使役するものであったから、いくら反対する人間がいても実行できた。しかし、生身の人間の徴兵は、本人が抵抗するならそれを抑えても連行せねばならない。自然、やり方もこれまで以上に強硬になろう。赤狩りも、より激しさを増すだろう。
 だがもう、日本は勝てない。
 これまでの軍事作戦はどれもが術式に頼りきりだったのだ。軍艦も、戦車も、飛行機も、強度は死霊向けに軟弱。生身の人間を守れる強さの設備など、すぐには得られまい。これまでの戦艦で遠征などした日には、作戦地へ辿り着く前に、積み荷の重さで沈むだろう。なにせ、生身の人間は、食料を必要とする。替えの服を必要とする。
・・・いまさら。
 いくら戦術の方向転換により国際社会から一定の評価を得られたところで、我が国へ対する恨みことさらの各国が手心を加えて向かってくるわけがない。全力で叩きのめされる。それ以外、ない。
 恐らく、それを分かっている政治家たちは、裏で手を回し始めているのだろう。日本が負けたその後の、他国がこの神おわす国を占領したそのときのことについて。
「・・・・・・ふ」
 術式作戦を採用した以上、世界中から敵がいなくなるまで、止めてはならなかった。或いは、術式と並行して十分な軍備を整えるべきだった。
 術者が居なければ、術式は使えない。万一のことを考え、私は術式に頼らない軍の準備も進めてきた。
 私は伊織と違って、家族を呪に術に奪われたわけではなく、だからきっと彼以上に勝利に対する方策の選定には柔軟だった。我が国が飢えず、侵されず、脅かされず、辱められないのであれば、方法は問わない。
 しかし、まだ機は熟していなかった。私が用意していた、死霊を要さずとも即日出撃できる艦隊は、そう多くない。それだって、このところほとんどなかった出撃が現実になるつもりで訓練しているのか、怪しいところだ。並行して準備を進めていた戦艦もまだ完成していない。よもやそれらだけを頼みにしているとは思わないが。
 いや、この私を欺いたのだ。なにか術式に代わる策があるのやもしれない。ならば尚更、術式のみにこだわるわけではない私に、多少なりとも打診があってもよかったのではないか。
・・・とはいえ。
 術がこの世から消えたいま、奸臣として追われる身であるいま。
 私にできることは、もう、なにも無い。
 かつて伊織とともに望んだよう、すめらぎが、臣民が、国土が、これから受けるだろう侵略が陵辱が、少しでも小さくあることを、ただ、ただ、願うばかり。

 そして私はいま、第一線から退いて祈るだけの老兵であるばかりか、大罪人として追われる身。
 天運尽きたかと思った命を拾い、伊織を見つけたことに気を取られていたが、私を隠していたことが知れたら、何も知らない伊織もその責を負わされるだろう。
 どうするべきか。
 のこのこ出頭したところで、死罪は免れまい。
 かといって、軍部が徴兵に力を入れ始めたら、見つかるのも時間の問題だろう。

 私は伊織が毎夜使っているペンに触れた。
 伊織は私の、過去の記憶を失くしている。残酷な過去を、莫大な財産を人の羨む地位を失い、代わりに慎ましくも穏やかな日々を過ごしている。
 そんな彼に、いずれは捕縛され殺される人間のことを思い出させることは、彼を多少なりともまた不幸にするのではないか。たとえ、思い出した私のことを過去の一片として冷酷に切り捨てるかもしれないにしても・・・。

「戻りました。」
 伊織が帰ってきて、はたと気づいた。
・・・そうか。
 新聞を置いていった人間は、私が千家京一郎ではないかと疑っているのかもしれない。
 伊織が、”国賊”を匿っているのではないかと。
「それ、誰が持って来たんです?」
 新聞を見遣る伊織の目は、少し怒っている。
 おや、と思う。再会してからの彼はずっと穏やかだったのだが。
「卓袱台の上に置いてあった。」
「ふぅん。」
 また、おや、と思う。彼の口癖だった。久しぶりに聞く。私は少しだけ嬉しくなる。
「何を笑っているんです。この記事、酷いと思いませんか。」
「酷い?」
「ご存知でしょう。これまで事実上ほとんど出兵を要せずに数々の軍功を立てた無敵の将校です。子供用のおもちゃにまでなっていたんですよ。それが一転、国賊扱いとは。」
 本気で怒っているようだ。
 この作戦は、貴方の考えたものなんですよ、伊織。本当に、思い出さないの?
 まさかそのおもちゃ、持っていたりしませんよね。
 なにやら私は、呆け老人を相手にしているような気になってきた。
「ほう。お前は随分、罪人に入れ込んでいるようだな。」
「私と同じ名ですしね。それに悪鬼の所業なんて言うけれど、今生きている臣民を死なせないためでしょう。欧米の脅威に立ち向かえる力を持っていると、国内外に知らしめるためなのでしょう。軍の方針が変わったからといって、この扱いは、あんまりだ。」
 ふぅん。
 そこはちゃんと理解しているのか。記憶があるというわけではないようだけれど。
「なぁ、京一郎。」
 この呼びかけ方は、伊織のようだ。
「はい?」
 この返事は、かつての私のようだ。
「私がその国賊だとしたら、どうする。」
 かつての私なら、なんと答えただろう。確かに方法は好ましいとは言えません、しかしこれまでの功績、救った命の多さを無視して裁くことも正義とは言えないでしょう、私も共に参ります、軍部の方々を説得して少しでも寛大な情状酌量を願いましょう、などと寝惚けたことを真面目な顔で言ったのだろうか。
「貴方までそんなこと言うんですか。」
 伊織は私を呆れたように見つめた。
「先ほど頭に呼ばれたのも、その件です。貴方が指名手配中の将校なのではないかと。」
「それで?お前はどう思う。」
「きっぱりと、違うとお伝えしました。」
 くだらない、とでも言いたげだ。しかしなぜ、そんな風に言い切れる。将校の失踪と時を同じくして発見された私を疑うのは自然だ。
「だって、貴方は伊織さまでしょう。お名前が違います。」
 根拠はそれだけか。私は拍子抜けした。
「偽名だとは思わないのか。」
 かつての知将・千家伊織が、それでいいのか。
「だとして、何です。己が何者かすら知らない私が、貴方を疑うのはナンセンスだ。」
 伊織の目は穏やかだった。
「・・・・・・」
「まぁ、ですが、貴方は私が誰だか、どうやらご存知のようです。」
 くすりと笑った。その笑い方、かつての私ではない。まるで、私を試すときの伊織のような。
「成る程。己の正体を私に暴かせるまでは、私を生かしておこうという算段か。」
「まさか。」
 今度は苦笑。これは少し、彼らしくない。
「ただ、私はどういうわけか、貴方から離れたくない。離れてはいけない、そう思うだけです。」
 つまらないことは忘れてお茶でも飲みましょう、と、伊織は番茶を淹れた。茶請けには、煎餅。
・・・煎餅か。久しく食べていない。
 伊織に勧めてみようかと思っていた矢先の、あの事件だったから。最後に大黒屋で買った煎餅は、伊織のいなくなった邸でひとり、食べる気にもなれず、袋のまま捨てた。
「番茶と煎餅、特段好きでも嫌いでもないけれど、なぜだか切らしたことがない。」
 伊織の微笑みに絆されて、煎餅に手を伸ばす。大黒屋のほど旨くはないが、久しぶりの歯ごたえに、小さな感慨を覚える。
「・・・・・・おいしい」
「それは良かった。」
 穏やかな伊織の醸し出す気は、騒つき始めた心を落ち着かせた。私は己が追われる身であることも、隣人から疑われていることもいっとき忘れ、夜の仕事――翻訳に取り掛かる伊織の横顔を見つめていた。

  次回、やっとちょっと動きある予定。まだいちおう健全。桜が散る前に終われない気がしてきた・・・

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