そして貴方は、また。 8


 ふと止まって遠い目をするのは、単語の意味を選んでいるとき。片眉を上げるのは、どう修正しようか考えているとき。少し頬が緩むのは、その文の内容に満足しているとき。それらのたびに、長い睫毛が上がったり下がったり。

 ふと止まって遠い目をするのは、近い未来に想いを馳せているとき。片眉を上げるのは、反対派の言い分をどう誘導して取り込もうか考えているとき。少し頬が緩むのは、国の弥栄への道筋が見えてきたとき。それらのたびに、長い睫毛は上がったり下がったり・・・。

「そんなに面白いですか、私の顔は。」
――そんなに私の顔が好きなのか、お前は。
 目を細める伊織。
 あの頃、彼の膝の上から見上げた微笑は、壁に背を預ける私を横顔で見遣る。
「・・・別に。」
「退屈そうですね、伊織さま。」
「そうでもない。」
 本心なのだが、暇を持て余していると受け取ったのか、伊織はペンを置くと、海に出てみますか、と私を誘った。

 伊織の舟は小さく、大の男二人にはかなり狭いため、身体を縮めて座る。片側にだけ櫂が括り付けてあった。
「片手だけで、操れるものなのか。」
「長いことこれでやってますから。心配は無用です。」
 ゆったりと、伊織の右手は櫂を押す。
 きぃ、きぃ、と規則正しい音に乗せて、私と伊織が向かい合って乗る小舟は、月に誘われるように水面を滑る。
「・・・まるで水の上ではないようだ。」
 凪いだ海は柔らかな布のようで、落ちたら沈むというのが不思議に思えるほど。
「しかし、遠くから落ちれば骨が折れるし、うまく浮かなければ沈む。なのにどちらも死ななかったのは、いったいどういう落ち方をしたのでしょうね、私も、貴方も。」
・・・そう。
 伊織は天命を私に託して、私は天命が尽きて。
 現世に踏み留まる理由なんて、無かった筈なのに。
・・・・・・否・・・?
 伊織が私の名だけ握り締めて死ねずにいるのであれば、彼が私を待っているのであれば、私は彼を置いて死んだりなど出来るわけがない。
 とすると、天は私たちにまだ生きろと言っているのか。
 また巡り逢ったのはやはり、不可分な私たちに互いを補い合って命を全うせよと・・・?
「伊織さま。」
 顔を上げる。
 伊織の瞳は、あの宝石のような紅い瞳は。
 月の光に映える白い頬は。
 触れてもいないのに私を掴んで離さない。
「私が何者なのか、教えていただけますか。」
「・・・知って、どうする。」
 知ったら、貴方は私を思い出すの。
「では逆に聞きますが、貴方はなぜ、私の素性を隠すんです?」
「質問に質問を返すとは、品が良いとは言えんな。」
 貴方はまた、私を選ぶのだろうか。
「先に質問したのは私ですよ。」
 それとも・・・・・・。
「・・・そう不安そうにしないで。」
 ふわりと笑った伊織は、私の頬を指の背で撫でる。
「私はいなくなったりしないから。」
 その言葉に私は、反射的に声を上げた。
「嘘だ・・・!」
 あぁ。やはりうまく立ち回るなんて、できない。
 私は、ここまでひとりで伊織に代わってやってきたつもりだった私は、辣腕策士と当て擦られ冷酷冷血と言われて心動かぬ筈の私は、しかし失ったと思っていた人間を前にして、冷静でなどいられない。
「伊織さま・・・」
 切なそうに己の名を呼ぶ柔らかな声。
 違う。
 それは私が呼びたい名であって、私が呼んでほしい名はそれじゃない。
 言いたいけれど、言えない。
 先のない左手で私の腰を引き寄せて、伊織は私を壊れ物を扱うように抱き締める。
 小さな舟が揺れた。
「やはり・・・私は、貴方を置いていったんですね。」
 はっとする。
 しかし彼は私の反応で、確信を得たようだった。つまり確認しただけで、記憶が戻ったわけではない。
「・・・・・・。」
 乾いた心は喉を通る声に音を乗せず、私は揺れる息を吐くことしかできない。
 薄衣一枚の隔たりは、私たちの融和を確かに阻む。
「思い出さない私を、許せない、・・・ですか。」
 昔と変わらず膚の触れ合いに躊躇いのない伊織は、しかしいま、出会ったときのように私を抱きすくめることができずにいる。
・・・どうなのだろう。
 私が許せないのは、私を置いていった伊織だ。
 思い出さないけれど私の名は手放せなかった伊織を、責めようとは思わない。
 けれど、私は、・・・・・・。
「――・・・私はまた、・・・貴方に、」
 伊織、貴方に。
 伊織。
「逢いたい・・・・・・伊織。」
 広い背を私は抱いた。そっと、それから、しがみつくように。
 伊織は微動だにしない。
 抱き合った私と伊織を乗せて、舟は揺れる、揺り籠のように。
 鏡の水面に、波紋がゆらりゆらりと広がる。波は月の光を反しながら、ちゃぽりと音を立てる。目を閉じると、舟の軋む音と、水の立てる音だけに包まれる。
 少し痩せて僅かに薄くなった、温かな伊織の胸が呼吸につれて上下するのを、私は息を潜めて感じていた。

 そしてやがて、耳許に優しい笑みが降る。
「・・・そうか。」
 少しだけくすぐったくて、私は首を竦めた。
「私が、伊織だったのか・・・。」
 私を抱き締める力が強くなる。
「呼ぶよりも呼ばれる方が、その名はしっくりくるようだ。」
 竦めた首に顔を埋めるように、掠れた声が囁く。
「・・・当然だ。貴方の名なんだから。」
 彼の腕の中で呟くと、伊織はまた、そうですね、と笑った。
「それでは、貴方は何というのです?」
 自然な問いに、しかし私は答えるのを躊躇う。
 ここで私がすべての解を与えてしまうのは、なにか違うように思えて。
「さぁ、貴方の名は?」
 それでも伊織は問うのだ。初めて会った時のように。
「貴方の、名は――?」
――お前の、名は――?
「・・・・・・言わ、ない。・・・貴方が思い出すまでは。」
 我が名は千家京一郎。
 貴方の唯一の半身。
 離れることなく、朽ちゆく時まで貴方と共にある。
 これまでも、これからも。

 零れた伊織の髪の毛先が月の光を受けてふわりと輝いた。あの長く美しい髪が今ないことが悔やまれる。
 伊織は、私を見つめながら異国の言葉を呟く。

  名は明かさぬが
  言うなれば
  唯一無二の
  想いびと

 なんとなしに分かった。やはり仏国の、古い詩だ。
 恋に浮き立つうた。彼が好んで眺めていた他の作家の作品たちとは真逆の傾向にもかかわらず、なぜかこの作品の頁には開きぐせがついていて、だから私も何度も見返すうちに空で言えるほど覚えてしまった。

  交わすくちづけ
  澄み甘く
  斯くして誓う

 辿々しい発音で続けると、嬉しそうに笑った。よくできました、と言わんばかりに。
「Dedans――ん・・・?」
 最後の一行を口にしかけた私の口を、伊織はそっと人差し指で塞ぎ、囁く。
「"ici(ここで)"。」
「・・・?"Paris(この巴里で)"」
 だったのでは、と――
「――ふ、ぅ」
 言おうとした言葉は、
「・・・ぁ」
 くちづけに甘く沈んだ。

  詩は、クレマン・マロ『De Sa Grand Amye』より。こちらも意訳でござんす。
  次回、年齢制限掛ける予定です(ホントに期待はしないで!!)。あと1回か2回で終わります。

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