コヒステフ 24 きみがいるから、クチナシ。 <最終話>


「はぁっ、・・・っはぁ・・・っ」
 京一郎は千家の邸の廊下を走る。
 家人も千家から言い含められているらしく、この頃は堂々と表玄関から母屋に上げてもらえるようになった。
「ぅわっと!」
 日向ぼっこする猫を飛び避ける。以前尻尾を踏まれた彼は心得ているらしく、向こうも素早く避けてから欠伸をしてみせた。
「伊織先生!」
 部屋の前で一応立ち止まり、声を掛ける。
「伊織先生いるんでしょう、京一郎です。入ります。」
 障子を引くと、千家は柱に凭れて写真集を眺めていた。このところ教室も開けず外部の仕事に走り回っていたから、こうして寛いでいる姿は久しぶりに見る。暖かい部屋で丹前に包まっているところを見ると、結構寒がりなのかもしれない。
「京一郎か。どうした、そんなに息を上げて。」
 紙の上に広がる美しい風景に目を奪われたまま、千家は優しく微笑んだ。
 本棚にさり気なく馴染んでいるスピーカーから音楽が流れている。明るいけれど少し哀愁を感じる撥弦楽器の古典的な旋律。
 あまりにうっとりと眺めているものだから、つい京一郎は千家の横に座って覗き込んだ。
「・・・これは、ヴェネツィアですか。」
「昔、家族で行ったことがある。海の中から建物が生えているようで、驚いたものだ。教会で、著名なバロック作曲家のコンチェルトを演奏しているのも聴いた。」
「へぇぇ・・・」
 軽快で少しだけセンチメンタルな音は、からっと明るい水の都の青い空に合う。
「まだ先代が生きていた頃――」
 京一郎の肩を引き寄せて髪に触れながら千家が囁く。"先代"という言葉で、京一郎はここに来た理由を思い出した。
「あああ!」
「・・・なんだ、突然。」
「あ、のっ!これ!」
 ビニールの手提げ袋から件の雑誌を取り出す。一瞥した千家は、部屋の隅の段ボールを指差した。
「・・・あぁ。欲しかったのなら、言えばまだ何冊かあったのに。」
「じゃないですよっ!これ、表紙の、伊織先生の作品なんでしょう?」
「そうだが。」
 それが何だと言わんばかりの態度に、思わず語気が荒くなる。
「いつ?いつですか?ライブ制作なんて、私知らなかった・・・!」
「先月末だな。時期が微妙だから表紙になるとは思わなかった。」
 大したことではないように言うが、京一郎としては己の師匠の、しかも恋人の晴れ姿をみすみす見逃した悔しさは随分なものである。
「なんで教えてくれなかったんですか・・・」
「それほど見たいなら、制作時の映像がネットに上がっているらしいから、探せばいい。」
「そういうことじゃない・・・」
 しょんぼりする京一郎を見つめていた千家は、おもむろに立ち上がると、壁に立てかけてある大きめのパネルをいくつか持ってきた。
「まぁ、私としてもそこそこ気に入る出来ではあったな。」
 パネルは写真を引き延ばしたもので、どれも今回の表紙になった作品が写っている。
「・・・これも、雑誌の会社が?」
「そんなようなものだ。ちょうど見に来ていた写真家が贈ってくれた。」
 改めて大きな画で見ると、迫力がある。
 外側の派手な花々は、雑誌の解説にもあったように本当にお喋りを始めそうなほど生き生きとしている。対照的に、中心部のひっそりとした花たちは存在を主張していないはずなのに、彼らが主役であることは一目瞭然。歌の意味を思えば微笑ましい。
 表現の豊かさは流石雑誌の表紙に使われるだけあると思いながら、京一郎は溜息をつく。
「そんなに気に入ったか。」
 肯定すると、千家は面映さを隠すように京一郎を抱き寄せた。
 京一郎は千家の首元に頭を預けながら、そっと囁く。
「伊織先生が前に小倉百人一首を眺めていたのは、和歌をテーマに作品を作っていたからだったんですね。」
「まぁな。」
「・・・前にバイクで私の家に送ってくれた時の歌は、どんな作品なんですか?」
「ほぅ。気付いていたのか。」
「これでも帝大生ですから。」
「そうだったな。今回の連作はどれも、写真にして残してあるから・・・」
 本棚の下の方に無造作に重ねてあるアルバムを取り出す。
「やすらはで、だろう?あれは・・・これだ。」
 黄色の花が弧を描くように、いくつも横に並ぶ。月を模しているのだとすぐに分かった。
「わかり易いですね。」
「ただでさえ古典で和歌だからな。わざわざ分かりづらくする必要がない。」
 確かに、と頷いてページをめくる。
「じゃあ、これは?」
「風をいたみ~。」
 砕けた波を思わせる小花。これもイメージしやすい。
「これは?」
「かくとだに、だな。」
「・・・あぁ・・・」
 ついに思いの丈を打ち明けてしまったとき、千家がこじつけのように口ずさんだ歌。
 燃えるような想いを表現するのなら、例えば赤を大胆に使うアイデアが京一郎の頭には思い浮かんだのだが、しかしこの作品は打って変わって枯草色の器に薄紫の花が一輪、静かに佇んでいるだけ。
「さしも、知らじな・・・この花は、燃ゆる思ひを知らない・・・。」
 千家を見ると、ただ静かに微笑んでいる。
 燃える思いを抱えた詠い手は、気持ちを伝えられず作品の外に佇んでいるというわけか。
 あのとき、この歌をこじつけた千家が、本当に焦がれるほど京一郎を想っていたとは、正直思わない。焦がれて燃え尽きて灰になりそうだったのは京一郎の方だったのだから。
 でも、今なら、前よりもずっと彼の心がこちらへ向いているような気がして。
 何となしに見上げたら、くちづけを落とされた。
 照れくさくなって、アルバムをまた捲る。
 ここまで千家の作品を一度に見たのは初めてだ。改めて、己の師匠の溢れんばかりの才能をひしひしと感じる。
(私には花しかない、なんて伊織先生は言っていたけれど、好きじゃなければこんな作品は作れないよね。)
 家元を継いだことを彼がどのように考えているかは結局分からないが、いま千家が芸術家としてあることが、少なくとも決して不幸ではないように思われて、京一郎はそっと微笑んだ。
 次のページにあるのは、花をたくさん挿して毬状に作った球が途中で壊れて水の中に溢れている作品。ただし、花は球の内側に向かって挿されている。
「あ、これは分かりました。”忍ぶれど”、でしょう?」
「よくわかったな。」
「気持ちが溢れて駄々漏れしてる感じ、しますから。・・・この歌は、”恋すてふ”に似てますよね。」
「歌を競う場で、”忍ぶ恋”を題にしてどちらも詠まれたらしい。優劣つけ難いと言われたが、帝の判定により”恋すてふ”の壬生は負けた。」
「へぇ。」
「彼はそれがショックで死んだらしいぞ。」
「えぇ?嘘でしょう。」
 笑いながらぱらぱらとアルバムをめくるうち、恋の歌の作品には同じような色の花が使われている作品が多いことに気づいた。
「恋の歌に使う花は、色を決めていたんですか?」
「さぁ、どうだろうな・・・」
 千家がそう言うときは、いつだって何かをはぐらかしている。
 京一郎は写真の右下に印字された日付を確認する。
 百人一首を題材にした千家の作品が初めて発表されたのはおよそ2年ほど前になるが、初めてその色が使われたのは、どうやらこの夏頃の作品からのようだ。時期としてはちょうど、二人で赤木神社のお祭りに行った頃。
由良の門を
明けぬれば
やすらはで
かくとだに
 先日、新宿伊勢天の催事場で生けていた、風をいたみ、そして最後の、恋すてふ。
 改めてこれらの作品を見比べる。メインの花である場合とそうでない場合があるが、どこかに必ず似た色の花が使われているだけでなく、その色自体にも見覚えがあるような気がしてならない。だが、なんの色だったか。
「伊織先生、最後の恋すてふは、どうして"K"という題にしたんです?」
「さて、な。」
「ねぇ、教えてくださいよ。」
 丹前の襟を引っ張って強請ってみるが、千家は意味深長に笑うだけ。
「・・・"KH"でも、強ち間違いではなかったな。まぁ偶然だが。」
「え、どういうことです?KH・・・恋すてふのK、人知れずこそのH・・・?」
 必死に頭を巡らす京一郎を横目で見ながら、千家は分厚い上着を脱いだ。
「さて。そろそろ私は出なければならないが、お前はまだここに居るか?」
「ひとりで居ても仕方がないから帰ります。ケイエイチ・・・うーん、金柑八朔・・・かりんとうふやき煎餅・・・カレーライスはらこめし・・・」
「なんだそれは」
 帯を締め直しながら千家が吹き出す。
「伊織先生、ヒント!ヒントください!」
「断る。」
「・・・けち」
 唇を尖らす京一郎を尻目に、千家は少し派手な羽織を肩に掛け、厚手の襟巻きを首に巻く。
「あ。最近、調子はどうですか?」
「問題ない。あの痣もまだ出ないしな。」
 その言葉にほっとしながら、京一郎は念を押すのを忘れない。
「兆候があったら、必ずすぐに教えてくださいよ。」
 なにせ、具合が悪くともこの人は無表情で通してしまうから。早く、その仮面が隠すものも読み取れるくらいになりたいけれど。
「分かっている。」
(本当に分かってるのかな。)
 じっと見つめると、お前は母親か、と苦笑された。
 改めて、症状を軽減する方法が見つかって良かったと、京一郎はしみじみ思う。それを自分にしかできないというのも、誇らしい。千家の苦しみが一日も早く消え去って欲しいと願いながらも、こうして彼の役に立てることは、仄かな喜びでもあった。
 天現寺橋との会話を、京一郎はふと思い起こす。

――なんで、私だったんでしょうか・・・。
――千家先生を癒せるのが、かい?
――はい・・・。
――そうだね・・・君の持つ陽の気は類い稀なほど強いものではある。陰の気による呪詛を打ち消す可能性は高い。けれど、どんなときでも必ず陽が陰を打ち消せるという訳ではない。
――だから、君が千家先生の症状を軽減できたのは、正直奇跡的だ。僕らとしても君がいなかったらお手上げになるかもしれなかった。
――そんなに難しい案件だったんですか。
――まぁね。本人の協力も得づらそうだったし。だから君は、・・・そう。こう思っていればいいんじゃないかな。
――京一郎くんと千家先生、君達二人の出会いは、運命が導いたものだったのさ・・・

「・・・ねぇ、伊織先生。」
「なんだ。」
「運命の出会いって、あると思います・・・?」
 千家は首を傾げ、突然なんだ、と小さく笑った。
「それは予め定められていたという意味で、か。」
「うー、そうですね・・・。」
「ただひたすら定めに踊らされるのは性に合わん。その意味で、私はお前との出会いを敢えて運命だとは思わない。」
「では、偶然だと?」
「そうも思わん。だが、・・・そうだな。」
 千家は京一郎の髪を撫でる。
「私はお前が私の人生に現れるのを待っていたのかもしれない、と考えるのも悪くないと、最近は思うようになった。」
 眩しげに細められる紅い瞳。胸が、とく、と鳴ったような気がした。
「・・・だとすれば、あの雨の道でお前を拾ったのは必然だったのだろう。たとえあのときお前に行き会わなかったとしても、どこかできっと、私はお前を見つけていた。ただし、お前が素直に私の元へ来たかどうかまでは知らんがな。柊、京一郎。」
 千家は京一郎の額を突いて、外套を羽織る。
「柊・・・、京一郎・・・」
 京一郎はぼんやり己の氏名を復唱する。
 改めて"K"の写真を眺め、そして、ふと気づいた。
「伊織先生がくれた、着物の色・・・?」
 急に落ち着かなくなる。あと少しで答えに辿り着けそうな気がして、気が早る。
 千家は寒そうに両腕で肩を抱きながら廊下を行ってしまう。
「薄萌黄、藤鼠・・・葉っぱの薄緑色、薄い紫の花、・・・京一郎、・・・K・・・」
 くしゅ、と小さくくしゃみをするのが聞こえた。
「柊のH・・・ぁ。・・・ぁああ!!」
 京一郎は廊下へ転がり出る。
 背中を丸めて足早に行く千家を慌てて追いかける。
 袂を掴む。
「伊織先生、"K"って、"KH"って・・・――」
 もしかして。
 いや、きっと。
 京一郎の問いに、千家は悪戯っぽく笑い返した。
「さぁな。」

〈了〉
  ホニャ! ご読了いただきまして、まことにありがとうございました!!!!<(_ _)>

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